「イエスは涙をながされた」      深見 祥弘牧師

October 01, 2016

<今週の聖句>

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。

(ヨハネによる福音書11章40~41節)

「イエスは涙をながされた」      深見祥弘

 子供の頃、よく泣いていた私は、いつの頃からかそれをしなくなくなりました。特に牧師として働きをするようになってからは、自分の感情を自然とイエスに重ね合わせるようになりました。それは、動揺する自分を見せたくないと思い、感情をおさえこんでいるわけではありません。わたしのために怒ったり、涙を流したり、感謝したりするイエスがいてくださることを信じていますから、もうそれで充分だと思うからです。しかし、十年程前に人目をはばからず泣いたことがありました。

 イエスがベタニアに到着した時、ラザロは墓に葬られて四日経っていました。イエスはラザロの姉妹マルタやマリアが泣き、慰めに来ていた人々が泣いているのを見て、心に憤りを覚え興奮して涙を流されました。そして墓に来ると、人々に墓を塞いでいる石を取り除けるように命じ、さらに「ラザロ、出てきなさい」と墓の中に向かって叫ばれました。顔や手足に布を巻いたラザロが出てくると、イエスは人々にそれを解かせました。人々は、涙を流し、憤り興奮して叫ぶイエスの姿に唖然としながらも、それまで自分たちが泣いていたことも忘れ、イエスを信じて、命じられたことを行ったのでした。

 イエスは私たちに対しても「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と教え、父なる神にとりなしを祈ってくださり、私たちの名を呼んでくださいます。私たちは、このようなイエスの豊かな感情や私たちの救いのために働いてくださる熱意を感じながら、信仰生活を続けていけるならば幸いです。そしてかならずや、イエスが私たち自身の憤りや興奮を治めてくださり、人々を御自分のもとに導き、共に神の栄光を見させてくださるしょう。

「しかし、わたしは言う(その3)」       仁村 真司教師

October 08, 2016

<今週の聖句>

 「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者に上着も取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」

(マタイによる福音書5章39~41節)

 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)と、すぐ後の「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」(44節)は、ルカ福音書ではこの二つは一緒に記載されていますから(6章27~36節)、マタイやるかが福音書に記す以び付けられ、キリスト者の在り方を示したイエスの言葉として語り継がれてきたのだと思います。

 ただ、マタイの記述にある「訴えて下着を取ろうとする者」の「訴えて」(「訴訟を起こして」)や「一ミリオン行くように強いる」の「強いる」(軍隊等が「徴用する」という意味)等の言葉からすると、イエスは、「在り方」や「心構え」等のような内面的なことではなく、「こういう場合は、こうしなさい」と具体的な行動について語っているとも考えられます。

 ルカ福音書は、人々が置かれていた理不尽で悲惨な現実を伝えています。「何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難にあったのは、他のどのガリラヤ人より罪深いものだったからだと思うのか。決してそうではない。』」(ルカ福音書13章1~3節)

 ここには、右の頬を打つものに対して、左の頬も向けるしかないような人たちがいる、そのような現実があるということが示されていると思います。

 イエスはどんな現実を生きたのか。イエスはどのような人たちとともに生きたのか。これらを思い起こしていくことが今日のテーマになると思います。

「主の前で口を開く」        深見 祥弘牧師

October 15, 2016

<今週の聖句>

ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の前で口を開いてしまった。(士師記11章35節)

「主の前で口を開く」        深見祥弘

 士師たちが活躍した時代は、モ-セの後継者ヨシュアの死からサムエルの誕生までのおよそ300年間(BC1400~1100年頃)です。士師は裁く者であると同時に、政治的・軍事的な指導者であり、敵から民を開放する救済者でもありました。300年間に活躍した士師は12人、その一人がエフタです。

 エフタは父ギレアドと遊女との間に生まれた子で、成長すると家から追放されました。エフタはトブの地に来ましたが、彼のところにはならず者が集まり行動を共にするようになりました。ある時、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきました。彼らが300年前に失った領地を奪還するためです。イスラエルは苦境に立たされ、長老たちがエフタに助けを求めました。主の霊がエフタに臨むと、彼は主に対して「もし戦いに勝利できるならば、わたしが帰還した時、家の戸口から最初に迎えに出てくる者を主にささげます。」と誓いを立てました。この戦いでイスラエルは、アンモン人に勝利しました。勝利を得たエフタが自分の家に帰ってくると、鼓を打ち踊りながら迎えに出て来たのは、彼の一人娘でした。エフタは衣を引き裂き、「わたしは主の前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」と嘆きました。

 律法には、「すべて、口にしたとおり、実行しなければならない」(民数30:3)と書かれていますが、人をいけにえにささげることは禁じています。それはアンモン人が自分たちの神に行ったことでした。イエスは、「一切誓いを立てるな」(マタイ5:34)と教えられました。人々が詭弁を弄して罪を犯したり、悲しみを担うことのないように、すべてを主にゆだねることを勧めているのです。罪深い私たちが主に献げることができるものとは、御自分をいけにえとして主に献げたイエス・キリストへの信仰だけなのです。

「そこにザーカイという人がいた」   深見 祥弘牧師

October 15, 2016

<今週の聖句>

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」            (ルカによる福音書19章4~5節)

「そこにザアカイという人がいた。」    深見祥弘

 今朝は、近江兄弟社高校吹奏楽部の皆さんと一緒に主日音楽礼拝を行うことができ、感謝いたします。吹奏楽部の皆さんの中には初めて教会に来たという方も、おられることでしょう。教会というところは、今日の聖書に出てくる「いちじく桑の木」にたとえることができると思います。

 ザアカイはエリコの町の徴税人の頭でした。ユダヤはロ-マの支配下にあり、徴税されたものはロ-マに納められました。ザアカイはロ-マの手先とみなされ、差別されていましたが、ある日、イエスがこの町を通ると聞きました。背の低かった彼は、イエスを見ようといちじく桑の木に登りました。やがてイエスが木の下に来られると、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」と呼びかけられました。彼は自分の家にイエスを迎え入れ、財産を失ってもよいから、これまで人々から不正に取り立てた償いをすると告白しました。

 「いちじく桑の木」は、桑科の灌木で10mくらいになります。その木は、幹の低いところから枝がでて登ることができますし、その枝や幹に沢山の実をつけるので、旅人や貧しい人々の食料となります。さらにその材木は幼児の寝台や家具、棺にも加工されました。ザアカイは全財産を失い、いちじく桑の実を食べることになってもよいと言っています。なぜならいちじく桑(教会)に来るならば、①イエスを見ることができます。②イエスがその人の下に来て立ち、寂しさや悲しみを理解(understand)してくださいます。③イエスがその人を養ってくださいます。そして④イエスがその人を生まれた時から死まで共にいて導いてくださいます。すなわちいちじく桑の恵みは、私たちの教会に与えられている恵みを意味しています。イエスは、私たち一人ひとりを知って下さり、教会を備えていてくださるのです。

「神の義」    深見 祥弘牧師

October 29, 2016

<今週の聖句>

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。   (ロ-マの信徒への手紙3章28節)

「神の義」           深見祥弘

 1517年10月31日、マルティン・ルタ-はザクセンでの免罪符販売に対し、ヴィッテンベルク城教会の門扉に「95ヶ条の提題」を貼り出しました。

この頃、カトリック教会は財政の事情により、人々に死後の刑罰を軽減する免罪符を販売しましたが、それは主の救いを金銭で得ることでありました。教皇庁はルタ-を破門にしましたが、各地でルタ-を支持する運動が広がりこれを止めることはできませんでした。やがてルタ-派はドイツと北欧に、スイスのカルヴァンらの改革派は英米社会に広がりました。ルタ-は、聖書にのみ忠実な教会(「聖書のみ」)、信仰のみによる救い(「信仰のみ」)、そして神の前での平等(「万人祭司」)を改革の柱とし、これらは宗教改革に取り組む人々の三大原理となりました。またルターは、ロ-マ3章28節の御言葉「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」を「ただ信仰によってのみ」と訳し、これが宗教改革を象徴する言葉となりました。10月31日は宗教改革記念日、来年2017年は宗教改革500年の記念の年を迎えます。

 「正しい者はいない。一人もいない。」(3:10)と述べたパウロは、「ところが今や」と新しい時代の到来を知らせます。これまで人は律法を行うことで義とされると考えてきましたが、律法は人の罪深さを露わにするだけで、人を義に導くことはありません。人の罪の歴史に終止符を打ったのが、イエス・キリストです。神はキリストをお立てになられ、人々の罪を償う供え物とされました。そして、このキリストを信じる者すべてに神の義が与えられる道を開かれました。信仰による義を教える聖書とキリストに対する信仰、そして信じる者すべてに与えられる平等、これが変革を生み出したのです。

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