「葬列が喜びの隊列に」       深見 祥弘牧師

November 05, 2016

<今週の聖句>

そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

(ルカによる福音書7章13節)

「葬列が喜びの隊列に」       深見祥弘

 教会は、11月第一日曜日を永眠者記念日として、天上の兄弟姉妹を覚えて記念礼拝を行ってきました。この時は501名の兄姉を記念して礼拝を守っていますが、特に昨年の記念礼拝から今日までの間に召された6名の兄姉の御霊の平安と、御家族の上に慰めを祈りたいと思います。

 今朝の御言葉はルカによる福音書7章、イエスが「やもめの息子を生き返らせる」話です。イエスがナインの町に来た時、町の門で葬列と出会いました。やもめの一人息子が亡くなり、棺が町の外に担ぎ出されるところでした。イエスは母親を見て憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言い、棺に手を触れて葬列を止め「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。人々は死んでいた息子が起き上がると、「神はその民を心にかけてくださった」と言って神を賛美いたしました。

こうして町の門を出ようとしていた葬列は、町の中に向かう喜びの隊列に変えられました。ナインの町は、イエスを迎えることで生きている者と死んだけれど復活を待つ者が、共にすごす所になったのです。「ナイン」とは「心地いい」という意味があります。生きている者にも死んだ者にも「心地いい」所、それがイエスの来てくださった町ナインです。そして同じように、わたしたちの教会もまたナインであると思うのです。

 私たち(生きている者も死んだ者も)は、「もう泣かなくてもよい」という言葉と、「あなたに言う。起きなさい」という言葉を教会で聞き、「神はその民を心にかけてくださった」と共に賛美をささげます。イエスの言葉と私たちの賛美が、嘆き悲しむ人々に届き、喜びへと変えられますように願います。

「みんなで分けるとおいしいね」     深見 祥弘牧師

November 12, 2016

<今週の聖句>

ぶどうも、摘み尽してはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。          (レビ記19章10節)

「みんなで分けるとおいしいね」     深見祥弘

 今朝、私たちは子供たちと一緒に収穫感謝礼拝を守っています。礼拝堂の前に置かれたさつまいもは、牧師館の庭の畑で実りました。これは6月30日に30本の苗を植え、4ケ月後の11月3日に収穫したものです。今年の夏は、とても暑い夏でしたが、どんどん蔓を伸ばし葉を茂らせ、たくさんの芋が採れました。昼食会の豚汁の具に入っていますので、どうぞ皆さんお召し上がりください。はたして甘いお芋さんになっているでしょうか。

 教会で行われる収穫感謝祭は、イギリスの清教徒たちが信仰の自由を求めて、1620年にアメリカに渡った時の出来事に起源があります。メイフラワ-号に乗り組んだ102名の人々は9月に出航し、66日間で大西洋を渡り、11月プリマスに上陸しました。しかし、間もなく冬を迎え、彼らの半数が飢えや寒さ、病気で亡くなりました。これに耐えた人々は、春にアメリカ先住民から畑仕事や漁などを教わり、家を建て、収穫の秋を迎えました。人々は、お世話になった先住民90名を招いて、喜びの礼拝と感謝の宴を催しました。

 古い時代のイスラエルには、こんな法律がありました。それは春、麦の収穫をする時、畑の隅まで刈り尽してはならない、落穂も拾い集めてはならない、また秋、ぶどうを収穫する時、摘み尽してはならない、落ちた実を拾い集めてはならないというものでした。その残された麦やぶどうの実は、貧しい人や寄留者の食べ物となりました。恵みの神さまがそのようにお決めになったので、刈り残しても摘み残しても、人々には十分な収穫が与えられるのです。私たちは、「わたしはあなたたちの神、主である。」(10)と言われる神さまに信頼し、収穫の恵みを互いに分かち合って、共に喜びましょう。

「神のみ手の中で歩む人生」  細井 順先生(ヴォーリズ記念病院ホスピス長)

November 19, 2016

「神のみ手の中で歩む人生」  細井 順 

ホスピス医として人生の最終盤を生きる人たちとともに過ごしています。その中では、生きるとは何かということをよく考えさせられます。私はがんを体験することで、このことについてさらに深く、真剣に考えることができるようになりました。そのあたりを話してみたいと思います。

①ホスピスで死ねるので安心

 がんと診断されたときに思ったのですが、これならホスピスで楽に死ねると安心しました。同時に、「見よ、私は世の終わりまであなた方と共にいる」という御言葉も心に浮かびました。

②患者がいなくなった、みんな同じ

 手術が終わって一息ついたころの感想です。私も無事にがん患者の仲間入りを果たすことができました。病気する前には健康な自分が、がんという大病を患って生命の危機に瀕した患者さんのために何ができるかを悩みました。がんになってみて、だれもが同じ人間なんだだと気づき、患者さんに会うことが楽になりました。

③生かされている自分

 ここ何年か痛切に感じていることです。がんになってから既に12年の歳月が流れました。その間に、ホスピスから同病の患者さんが何人旅立ったことでしょう。行きたいと様々な治療を試しても、私より先に旅立っていきます。私はがんを直そうとは思っていませんが、こうして生きています。この事実から、私は生かされているとしか考えようがありません。自分の力力で生きているわけではなく、神様によって生かされていると思うのです。

​ 本日のみ言葉には、私が造ったのだから、私が背負い、運び救い出すとあります。自分であれこれと悩まずに神に委ねて生きることです。そこに平安で安心、安全な人生があると思います。

「しかし、わたしは言う(その4)」   仁村真司教師

November 26, 2016

<今週の聖句>

「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい。

             「しかし、わたしは言う(その4)」   仁村 真司

 マタイ福音書を記した人たちは、自分たちの主張、自分たちの信仰の在り方をイエスの言葉として示しています。(5章17~20節)

 「<17節>私が来たのは律法と預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。<18節>はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の一点一画も消え去ることはない。<19節>だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は天の国で最も小さいものと呼ばれる。<20節>言っておくが、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることはできない。」

​ そして、この後にイエスの教えが六項目示されていますが、そもすべてが、「イエス・キリストは律法を完成するために来た。」というマタイ福音書の主張(17節)とは矛盾するような、イエスが律法を批判しているとも受け取れる形(イエスが律法に対して「しかし、わたしは言っていく」と言ってから、律法とは異なる教えを語る)で記されています。

 今朝は、マタイ福音書を記した人たちがどうしてこのような形でイエスの言葉を書き表し、人々に伝えようとしたのか、そして、今、御子イエス・キリストの降誕、クリスマスの備えの時にある私たちは、およそ2千年前の現実の中で語られた「敵を愛しなさい」というイエスの言葉をどのように受け止めていけばいいのか、これらについて考えていきます。

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