「主は贖う者として来られる」      深見祥弘牧師

December 03, 2016

<今週の聖句>

主は激しい流れのように臨み 主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、シオンに来られる。    (イザヤ書59章19節)

「主は贖う者として来られる」      深見祥弘

 今朝の御言葉は、旧約聖書イザヤ書59章です。ここには、バビロン捕囚から帰還したユダの人々が、エルサレム神殿の再建と国の復興に努める様子が書かれています。しかしその業は困難を極め、やがて不信仰が人々を支配するようになりました。預言者は、その原因が人々の罪にあると指摘します(1~8)。すなわち、主に対する不信仰(56章、57章)と弱い人々への愛の欠如です(58章)。預言者は、人々の側に立って罪を告白すると共に(9~15a)、主が贖う者として来てくださることを力強く預言しました(15b~21)。

 この「贖う者」とは、家族や一族の名誉と財産を守る責任を持つ人たちのことです。「贖う者」はその責任を果たすためには命をもいといませんし、代価を支払って買い戻すこともしました。人々がエジプトで奴隷の苦しみを担った時、主は贖いの小羊を屠ることで解放してくださいました。主もまたイスラエルという家族のために「贖う者」となってくださったのです。その後、

ユダの人々のバビロンからの解放と帰還後の復興においても、「主は贖う者として、シオンに来られる。」と、預言者は告げているのです。

 クリスマスは、主イエスの誕生を記念し、再臨を待ち望む時です。かつて、主は私たちの救いのためにその御腕を伸ばし、「贖う者」である主イエスを遣わしてくださいました。主イエスは罪のない御方でありながら私たちに代わって罪を負い、その身を十字架に架けて贖いの小羊となり、信じる者たちに救いと新しい命を与えてくださいました。私たちは困難に直面して不信仰に陥ることもありますが、その時々に、主が激しい流れのように臨み、主の霊が私たちを悔い改めに導き、創り変えてくださるのです。そのように霊の力に導かれつつ、私たちは「贖う者」が再びおいでになるのを待つのです。

「先に遣わされた者」      深見祥弘牧師

December 10, 2016

<今週の聖句>

重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。           (マタイによる福音書11章5~6節)

「先に遣わされた者」        深見祥弘

 「これで礼拝は終わった。あなたがたは出て行って、主イエス・キリストを証ししなさい。主が世の終わりまであなたがたと共にあるように。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。主があなたに御顔を向けて、あなたに平安を賜るように。ア-メン」 これは当教会の祝祷の言葉です。ここには「あなたがたは出て行って、主イエス・キリストを証しなさい。」とあります。礼拝を終えて、私たちはキリストの恵みの証人として派遣されていくのです。

 今朝の御言葉はマタイ福音書11章です。洗礼者ヨハネは、領主ヘロデに捕らえられていました。ヨハネは牢の中でイエスに対し、あの方は本当に救い主なのか、そうであるならばなぜ、その力によって悪を裁き、私を救ってくださらないのかと不信を抱いていました。そこでヨハネは弟子たちを遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせました。イエスは救い主であるか否かという問いに答えることをせず、今起こっている事実(目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き・・)をヨハネに伝えさせました。

 洗礼者ヨハネは、救い主到来を告げる預言者として最後で最大の人物でした。私たちは彼に比べるならば本当に小さな者です。しかし私たちはイエス・キリストを信じて救われ、キリストの恵みの証人としての使命をいただいています。人が呼び掛けてもなかなか耳を傾けない世の中ですが、私たちは私たちに臨んだ疑いようもない事実、キリストによる救いの事実のみを証言することに徹したいものです。キリストの救いの歴史は、私たちのキリスト証言によって切り開かれ進展してゆくのです。

「イエス・キリスト誕生の次第」 仁村 真司教師

December 17, 2016

 <今週の聖句>

 ・・・・主の天使が夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 ​(マタイによる福音書1章20~21節)

 今日の物語の初めの18節に「イエス・キリスト誕生の次第は次のようであった」とありますが、この「誕生」はギリシャ語では「ゲネシス」という言葉が使われています。この言葉は、英語では発音が少し変わって「ジェネシス」になっています。英和辞典で意味を調べると、大抵一番目に、頭文字が大文字(G)になって「創世記」とあります。

 また、マタイ福音書の一番初め、1章1節には「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありますが、この「系図」と訳されている所にも「ゲネシス」が使われています。この「ゲネシス」が使われています。この「ゲネシス」は、これに続く系図を指しているのではなく、マタイ福音書全体を指しているとも考えられます。

 遥か昔に旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳された時から、一番目の文章のタイトルは「ゲネシス(創世記)」とされていますから、マタイ福音書は、旧約聖書の創世記に対して、「イエス・キリストから始まる創世記」、あるいは「イエス・キリストから生じたキリスト教の創世記」として書かれているのではないかと思われます。私たちが「マタイによる福音書」と呼んでいる文章の元々のタイトルは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの創世記」なのかもしれません。

 旧約聖書の創世記(ゲネシス)では神の「光あれ」という言葉によって、この世に光がもたらされます(創世記1章3節)。そしてイエス・キリストの誕生(ゲネシス)では、私たち一人一人の心に光がもたらされます。

 今朝は、この光を受け止める準備をなしていきたいと思っています。

 

「ここに愛があります」       深見祥弘牧師

December 24, 2016

<今週の聖句>

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。                  (ヨハネの手紙第一4章9節)

「ここに愛があります」       深見祥弘

 クリスマスおめでとうございます。私たちは、このように挨拶を交わすことができますが、ベルリンでは町の中心部にある教会広場のクリスマス市に大型トラックが突っ込み、多数の死傷者が出ました。この事件はIS(イスラム国)の犯行声明も出て、「テロ」の可能性が高いようです。この年も人々の心を恐怖で支配しようとする行為が、世界各地で繰り返されてきました。平和と和解への道を、私たちはどこに見出すことができるのでしょうか。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(4:9)これが今朝の御言葉です。御子イエスは、大国ロ-マの支配に翻弄される時代に、ヨセフとマリアの子として生まれ、飼い葉桶に身を横たえました。また、御子はヘロデに命を狙われ、両親と共にエジプトに逃れました。後にロ-マ総督らによって十字架に掛けられ虐殺されたのです。

神は、人々の憎しみや理不尽の一切をその身に受けるため御子をお遣わしになられました。しかし、御子イエスにおいて一度断ち切られた人々の憎しみの連鎖は、今なお存在しています。クリスマスは、この憎しみや理不尽を断ち切る時として備えられている恵みの時です。御子に現されている神の愛によって、わたしたち全ての人が生きるようになる時なのです。神の愛であり義である御子イエスが、真実の愛や正義を示してくださっています。私たちは、自らの内に御子をお迎えし、御旨に反して繰り返す罪の連鎖を断ち切り、この御子の愛によって新しい年を歩み始めましょう。主の年2017年が、主の平和と和解が進展する年でありますようお祈りいたします。

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