「イエスさまに抱っこされると」 深見 祥弘牧師

June 04, 2016

<今週の聖句>

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。・・そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

(マルコによる福音書10章13、16節)

「イエスさまに抱っこされると」     深見祥弘

 今日は、私たちの教会の「子どもの日・花の日」礼拝です。19c~20cアメリカで行なわれていた「日曜学校運動」には、子供たちのために祈る日がありました。また、夏の花が咲き始める「花の日曜日」と呼ばれる日と重なることもあり、この二つが一緒になって「子どもの日・花の日」となりました。

 イエスはユダヤ地方に来られると、集まってきた群衆に教えられ、それが終わると、弟子たちとある家で休息されました。そこに人々が、子供たちを連れてやってきました。イエスに触れていただくためでした。弟子たちは「イエスさまはお疲れだ。」「こんな時間に子供たちを連れてくるとは。」「明日にしなさい。」などとこの人々を叱りました。ところがイエスはこれを見て憤り、弟子たちに言いました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。・・神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されました。

 親が子を抱っこすると、両者の脳から愛情ホルモンである「オキシトシン」が分泌されます。このホルモンは、子育てをする親にも子にも欠かせないもので、安らぎや信頼を育みます。親が子供をイエスに触れていただくために来たのも、イエスが子供たちを抱き上げたのも、子供たちの幸せのためでした。では「イエスさまに抱っこされると」どうなるのでしょう。①子供たちはイエスへの信仰と、家族や他者への愛を強くすることができます。②イエスにすべてを委ねることのできる人は、神の国をいただくことができます。なぜならイエスは誰をも拒むことなく、招いてくださっているのですから。

「終わりの日に」   深見 祥弘牧師

June 11, 2016

<今週の聖句>

主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。           (ミカ書4章2節)

「終わりの日に」          深見祥弘

 「ラビリンスウオ-ク」は、歩く瞑想の一種です。円の中の曲がりくねった一本道を歩きます。ラビリンスは、13世紀フランスのシャトル大聖堂の床に二色の石を使って描かれました。ロ-マ教会は、十字軍の時代、この大聖堂をエルサレムに代わる巡礼地にしました。巡礼者たちは天の都エルサレムを思わせる大聖堂の中で、エルサレム巡礼を象徴するラビリンスを歩きました。教会から始まった活動ですが、今では教会、大学、病院、ホスピスなどで行われ、人々は黙想や祈りのため、グリ-フケア、ストレス軽減、コミュニティづくりのためにラビリンスを歩きます。(参照「礼拝と音楽NO169」)

 ミカは、紀元前8世紀、南王国ユダの預言者です。この時代、南北両王国は、大国アッシリアの脅威に晒され、北王国はBC722年滅亡します。ミカはこの原因を、ユダの指導者たちの不義不正によるものと厳しく指摘し、ユダの滅亡(BC587バビロンによるエルサレム陥落)も預言します。同時に彼は、その先に予定されている「終わりの日」の光景をも人々に預言しています。聖書には、次のように書かれています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(4:3)そしてこの平和は、人々が、ベツレヘムに生まれるメシヤ、御自分を「道」と言う御方の教えに聞くことによって成し遂げられるのです。

 機会があれば、私はミカ書4章の言葉を黙想しながら、ラビリンスを歩いてみたいと思います。今、大国に悩まされている私たちの国の現実と、主の約束である「終わりの日」への信仰を黙想し祈りつつ、ラビリンスを歩くならば、救いの主より今と終わりの日をつなぐ道が示され、平和への確信をいただくことができるでしょう。

「地の塩、世の光であるということ」  仁村 真司教師

June 18, 2016

<今週の聖句>

 あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることが出来ない。

また、ともし火をともして升の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。(マタイによる福音書5章14~15節)

        「地の塩、世の光であるということ」  仁村 真司

 ヨハネ福音書では「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を待つ」(8章12節)と、イエスは自らを「世の光である」と言っています。

 詩編119編には「あなたのみ言葉は、わたしの道の光 私の歩みを照らす灯」とあります(105節)。「あなたのみ言葉」とは当時の人たちにとっては律法ですが、今の 私たちにとっては聖書です。

 ヨハネ福音書によってイエス・キリストが、詩編119編によって聖書が、私たちを導く光であることが示されていますが、今日取り上げるマタイ福音書では、イエスは弟子たちに向かって「あなた方は地の塩である。あなた方は世の光である」と言っています。

 イエスは、イエスに従って間もない弟子たちへのこの言葉を通して、イエス・キリストに従おうとする人々、そして後の時代の私たちを含む全ての人々に、イエス自身や神のみ言葉に従って「地の塩、世の光になりなさい」と命じているのでもなく、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言っています。

 弱く間違ってしまうことがある私たちも地の塩であり、世の光であるということです。イエスのこの言葉を私たちに向けられたものとして受け止め、私たち一人一人がそれぞれの現実の中でイエス・キリストに従うとはどのような事なのか考えて行きたいと思っています。

「タビタ、起きなさい」 深見 祥弘牧師

June 25, 2016

            <今週の聖句>

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

(使徒言行録9章31節)

         「タビタ、起きなさい」        深見祥弘

 イエスの弟子たち(使徒たち)に聖霊が下ると、彼らはエルサレムでの伝道を開始しました。中心人物はペトロです。彼らの説く復活信仰や奇跡は、人々の心を動かし、信徒の数も増えました。それによって使徒や信徒たちはユダヤ教当局者から迫害を受け、各地に散らされることになりました。しかし、散らされた信者たちによって福音が広がり、各地に教会ができました。

 ある時、ペトロは各地の教会を訪ねた後、リダの教会を問安しました。この教会の信徒であるアイネアが、8年前から病気で床についていましたので、人々はペトロを彼のところに導きました。ペトロが彼に「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。」と言うと、アイネアは起き上がりました。 

そこに、ヤッファの教会から使者が来て、ペトロに婦人信徒タビタの死を告げ、来訪を願いました。彼女はこれまでやもめたちを助けるなど愛の人でした。ペトロが安置された部屋に入り「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女もまた起き上がりました。これらの出来事で、多くの人々が主を信じました。

 ペトロの時代、教会は迫害を受け殉教者が出る状況にありました。しかし、聖書は「教会は・・全地方で平和を保ち」と書いています。この平和の姿を、私たちはアイネアに仕えるリダの教会の人々に、やもめに仕えたタビタに、死んだタビタに仕えるヤッファの教会の人々に、そして主と両教会に仕えるペトロに見ることができます。その平和は、この人々の主イエス(愛と復活)への畏れと、聖霊(慰めと導き)の恵みに預かることによるものでありました。主は、同じ信仰を持つ人々を通して、わたしたちにも「起きなさい」と力強く語ってくださいます。平和の内に、委ねて立たせていただきましょう。

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