「生きた水が川となって」       深見 祥弘 牧師

August 06, 2016

<今週の聖句>

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。        (ヨハネによる福音書7章37~38節)

「生きた水が川となって」       深見祥弘

「憎んではならない。ただ愛されない者だけが憎むのだ。」(「独裁者」結びの演説より・大野裕之著「チャップリンとヒトラ-」)

イエスは、仮庵祭の終わりの日、エルサレム神殿で立ち上がり、大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」 仮庵祭は、エジプトからの解放を記念する祭りであり、終わりの日の救いを待望する祭りです。祭りの最終日、祭壇には焼かれた犠牲が用意され、その上に泉の水を注ぎます。この水注ぎの儀式は、二つの出来事を覚えて行なわれました。それは、出エジプトの時モ-セが打った岩から水が出た出来事と、エゼキエルが預言したメシヤ到来の日、神殿から湧き出た水が川となって流れ出し、全てのものを生き返えらせる出来事です。イエスは御自分を打たれた岩、焼かれた犠牲、そしてエゼキエルが預言したメシヤであると宣言したのです。ある時から神の霊はイスラエルに臨まなくなりましたが、イザヤは「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える」(イザヤ44:3)と主の言葉を預言しました。聖書において水は、神の霊を象徴するものです。イスラエルの罪がイエスのお受けになられた迫害と十字架によって贖われ、信じる人々に神の霊(生きた水)が注ぎ与えられるようになりました。

今日の福音は、イエスがなによりもまず私たちを愛してくださったことです。そのイエスの愛は、信じる人々に霊を与えただけでなく、その人自身が泉となって愛を注ぎ出すのです。イエスの愛が信じる者の愛と一緒になって川となり、やがてすべての人のところに届きますようにと願います。

「イエスは地面に何を書いたのか」  深見 祥弘牧師

August 13, 2016

<今週の聖句>

イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」   (ヨハネによる福音書8章11節)

「イエスは地面に何を書いたのか」     深見祥弘

 終戦から71年目の夏を迎えました。日本基督教団は、1967年3月、「第2次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を教団議長鈴木正久の名で発表いたしました。「まことにわたしどもの祖国が罪を犯したとき、わたしどもの教会もまたその罪におちいりました。・・心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。」

 御言葉は、ヨハネによる福音書8章、「姦通の女」の話です。イエスは神殿で人々に教えをしておられました。そこに律法学者らが姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、イエスに「こういう女は石で打ち殺せと、モ-セは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか。」問いました。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられました。彼らがしつこく問うた時、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。すると年長者から始まって皆がその場を立ち去りました。イエスは女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と話しました。

 私は、女とは先の大戦で敗れた私たちのこと、律法学者たちとは戦勝国のことだと思いました。イエスは私たちに「わたしもあなたを罪に定めない・・もう罪を犯してはならない」と言われました。それは、罪の是認でも放置でもありません。イエスは、敗戦国・戦勝国両者の罪を我が身に担い、裁きを受け、新しい出発をさせてくださったのです。私たちは、指で地面に罪名を書く(けれどもすぐに消せる)イエスに、無限の愛を知ることができます。

「雲の柱 火の柱」    深見 祥弘牧師

August 20, 2016

<今週の聖句>

主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。

(出エジプト記13章21節)

「雲の柱 火の柱」         深見祥弘

 今からおよそ三千三百年前、イスラエルの人々はエジプトから約束の地カナンに向けて旅をしました。この荒れ野の旅を導いたのは、「雲の柱 火の柱」でありました。それは、神の臨在を象徴するものです。では、私たちの人生という旅路を導く「雲の柱 火の柱」とは、何を意味するのでしょうか。

 今朝の御言葉は、出エジプト記13章17節~28節です。ここには、三つのことが書かれています。①イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトを出発しました。②モ-セは、ヨセフの骨を携えて出発しました。③主は人々に先立って進み、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれました。 かつてエジプトの大臣であったヨセフが、父ヤコブの死に際して、ファラオに願い、エジプトからカナンに父を葬りに行きました。ヨセフは父ヤコブの骨を携え、イスラエルの民と共に、ファラオの重臣や軍勢に守られ、隊伍を組んで荒れ野を旅しました。そして、ヨルダン川の東に来た時、彼らは盛大な葬儀を行い、父の骨をカナンの地に葬りました。 ヨセフの旅からおよそ五百年後、モ-セとイスラエルの人々はヨセフの骨を携え、主の雲の柱と火の柱に守られ、隊伍を組んで荒れ野を旅しました。ヨセフの旅とモ-セの旅の違いは、ファラオに守られる旅ではなく、主に守られる旅でありました。さらにそれは、葬りと束縛の隊列ではなく命と自由の隊列であり、エジプトに戻る隊列ではなく約束の地で生活するための隊列でした。

 私たちにとっての「雲の柱・火の柱」とは、神の小羊キリストの十字架によって与えられる「聖霊と御言葉」です。聖霊と御言葉、この二本の柱が、私たちを御国と命へと導きいれてくださるのです。

「しかし、わたしは言う」  仁村 真司教師

August 27, 2016

「しかし、わたしは言う」     仁村 真司

マタイ福音書の中心は、5章から7章に記されている「山上の説教」です。そして内容的に見て、この長い「山上の説教」の中心は、律法(主にモーセの十戒)について、イエスが「しかし、わたしは言っておく」と言ってから、「腹を立ててはならない」から「敵を愛しなさい」まで、律法より厳しい内容の六項目を提示している5章21~48節です。

 この直前に、イエス自身の言葉として「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5章17節)、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」(20節)と記されていますが、これは「イエス・キリストは律法と預言者(旧約聖書)の完成者であり、キリスト者とは律法学者やファリサイ派の人々よりも徹底して律法を実践し、神に従っていくものである」というマタイによる福音書を書いた人(たち)の考え・主張を現しています。

 この考え、主張に従うと、5章21~48節でイエスは律法を徹底的に突き詰めて、実践するように教えていることになりますが、そうだとすると「しかし、わたしは言っておく」の「しかし」の意味が分からなくなります。イエスが律法に反対しているのではなく、律法を徹底・完成しようとしているのなら「しかし」ではなく、例えば「更に、わたしは言っておく」等の方が相応しいと思いますが、イエスは繰り返し「しかし」と言っています。

​ この「しかし、わたしは言っておく」を糸口にして、イエスが私たちに何を示しているのか、何をもたらしているのか考えて行きます。

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