「主の傷によって私はいやされました」     深見 祥弘牧師

September 03, 2016

<今週の聖句>

自由な人として生活しなさい。・・神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

(ペトロの手紙第一2章16~17節)

「主の傷によって私はいやされました」   深見祥弘

 新潟県上越市のK姉(当時20才)は、第二次大戦末期にキリスト教信仰(カトリック)を理由に不敬容疑で逮捕され、敗戦直後に有罪判決を受けました。この裁判は判決文や裁判資料が残っておらず、71年を経てなお、K姉の名誉回復はなされていません。(毎日新聞、8月29日朝刊)

 ペトロの手紙第一は、紀元90年代、ロ-マ領内の諸教会に宛てて書かれました。当時教会は、ロ-マ当局から迫害を受けていました。この手紙は、読者であるキリスト者に対して、あなたがたは天に国籍を有する者であってこの世では旅人であること、それゆえに地上のいかなるものにも束縛されず、その与えられた自由を用いて「神の僕」として行動しなさいと書いています。 それでは、神の僕として行動するとはどのようなことでしょうか。それは、①すべての人を敬うこと、②兄弟を愛すること、③神を畏れること、そして④皇帝を敬うことです。①の「すべての人を敬う」には、当時6千万人いたとされる奴隷も含まれています。キリスト者は自らの自由な意思によって「神の僕」となり、奴隷を敬い、皇帝をも敬うのです。その模範は、イエス・キリストでありました。イエスは神を畏れ、兄弟姉妹を愛し、疎外されている人々の友となり、総督の裁きに従って十字架に死にました。 

「(イエスは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(24) K姉は信仰を表明して捕らえられ、有罪の判決を受けました。主が姉妹を義とし、傷を癒し、名誉回復をなしてくださることを信じ祈ります。

「私の名をとどめる所」 深見祥弘 牧師

September 10, 2016

<今週の聖句>

今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。 (歴代誌下7章15~16節)

「私の名をとどめる所」        深見祥弘

 ソロモンは、二千九百数十年前のイスラエルの王です。神はソロモンが即位した時、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われました。彼は、「わたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。」と願いました。神はそれを喜び、富と名誉をも与えました。

 ソロモンの行った事業の一つは、父ダビデの準備していた神殿の建設でした。神殿奉献式は、第7の月の祭り(仮庵祭)の直前に、イスラエルの長老たちを集めて行われました。完成した神殿に祭司が契約の箱を運びこむと、神殿は主の栄光に満たされました。ソロモンはひざまずいて祈りを献げました。その祈りは、①神は地上にも天にもお住まいになられるお方ではありません。まして私の建てた神殿などふさわしいものではありません。②しかし、この神殿がイスラエルの人々にとっての祈りの場に、また異邦人の祈りの場となりますように。③さらに遠く離れた地にいる人々が神殿に向かって祈る時にも、その祈りに耳を傾けてください、というものでした。

その夜、神がソロモンに現れて言いました。「わたしはあなたの祈りを聞き届けた。・・今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。そこにわたしの名をいつまでもとどめる。」

私たちは、「主イエス・キリストの御名によって」祈ります。イエスは「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」(ヨハネ14:13)と言われました。また、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のこと」(同2:21)であり、御自分の体とは「教会」を意味しています。イエス・キリストはその名を教会に置き、私たちの祈りに目を向け、耳を傾けてくださるのです。

「しかし、わたしは言う(その2)」    仁村 真司 教師

September 17, 2016

マタイ福音書のイエスは、律法について、「しかし、わたしは言っておく」と言って、従来の律法とは異なる六項目を示しています(5章21~48節)。

 前回はその一つ目と二つ目、「しかし、わたしは言っておく。兄妹に腹を立てるものはだれでも裁きを受ける」(21~26節)と、「みだらな思い出他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(27~30節)を取り上げましたが、今回は三つめの「離縁してはならない」と、特に四つ目の「誓ってはならない」について考えていきます。

 「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じられているのは(33節)、、誓いが「神に対する約束」だからです。現代の私たちも受洗や結婚など大切なことを決意し、行う時には製薬をします。

 これに対して、イエスは「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」と、はっきりと「一切誓うな」と言っています(34節)。

 この一切誓いを立ててはならない」に続くイエスの言葉(~34節)とよく似た文言の記述がヤコブの手紙の中にあります。

 「私の兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいはそのほかどんな誓い方であろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい。」(ヤコブの手紙5章12節、P426)

 この記述も参考にして、「一切誓いを立ててはならない」というイエスが、私たちに示していることを受け止めていきたいと思っています。

「信じるようになるために」      深見 祥弘牧師

September 24, 2016

<今週の聖句>

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。・・

このことを信じるか。         (ヨハネによる福音書11章25節)

「信じるようになるために」      深見祥弘

 ベタニアに住むマリアとマルタ姉妹の使者が、ヨルダン川の向こう側にいたイエスのところを訪れました。使者はイエスに、彼女たちの兄弟ラザロが病気なので来てほしいと告げました。イエスが「この病気は死で終わるものではない。」と言った時、弟子たちは、ラザロの病気は治るのだと思いました。二日後、イエスは弟子たちに「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く。」と言われました。彼らが「眠っているのであれば、助かるでしょう」というと、イエスは「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。彼のところへ行こう。」と促しました。

 ヨハネ福音書11章「ラザロの死と復活」は、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。①イエスは、悩むわたしたちのところに来てくださり、「わたしは復活であり、命である。」と呼び掛けてくださいます。ラザロが暮らした「ベタニア」村の名には、悩む者の家という意味があります。②わたしたちが、イエスを信じ従うならば、「死んでも生きる。」と言われます。これまで死に向かう存在であったわたしたちが、復活であり命である御方イエスによって、命に向かう存在にかえられます。わたしたちの死は、イエスによって眠りとなり、必ず起こしていただけるのです。③ラザロに起こったこの出来事は、イエスの死と復活によって完成します。マリアは兄弟ラザロの死と復活の体験によって、この後、ベタニアの彼らの家でイエスの足に香油を塗り、イエスの死の備えをしました。マリアの奉仕は、自分たちに与えられた恵みが、悩むすべての人々のものとなることを願ってのものでした。 これが、わたしたちに与えられた主の死と復活の恵みなのです。

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