「揺ぎなき希望」         深見 祥弘牧師

December 31, 2016

<今週の聖句>

神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。     (Ⅱコリント1章4節)

「揺ぎなき希望」         深見祥弘

 新年あけましておめでとうございます。

今年の干支は酉(とり)です。俳句で元旦を鶏旦といいます。昔中国では、元旦を鶏の日と呼び、戸口に鶏の絵を貼って魔除けにしました。鶏の鳴き声が、夜を支配する魔物を追い払い、この世に光をもたらすと信じたからです。同様の説話は世界各地にあります。(毎日新聞「余禄」から12/14)

  Ⅱコリント1章は、パウロとテモテがアジア州(エフェソ)で経験した「生きる望みさえ失う」ほどの苦難について書いています。パウロたちは、この苦難の経験から、頼るべきは自分ではなく神であることを学びました。同時に、苦難から救い出してくださった神は、これからも救ってくださるという揺るぎない信頼と希望を持つようになりました。こうしてパウロとテモテは、神の救いと人々の祈りによって宣教を続けてゆくと決意し、コリントの人々にも自分たちの働きのために祈り支えてほしいと願っています。

 聖書は、ペトロがイエスを裏切った時、鶏が鳴いたと書いています。彼は大祭司官邸の中庭で、人々から「お前は仲間だ」と言われた時、三度も「そんな人は知らない」と誓い、イエスから「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたことを思い出し泣きました。ペトロは「たとえみんながつまずいても、わたしはつまずきません」と誓いましたので、彼の自信は完全に砕かれ、生きる望みを失うほどでありました。しかし彼は、イエスがゲッセマネで祈ってくださったことを思い起こし、宣教に立ち上がったのです。御子の産声が闇を払い、光を来たらせました。私たちは祈り合い、御子を揺ぎなき希望とし、新しい年を歩み始めましょう。

「心に適う者」        深見 祥弘牧師

January 07, 2017

<今週の聖句>

サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。

(サムエル記上16章13節)

「心に適う者」         深見祥弘

 明日は成人の日、昨年より5万人多い126万人の方々が、新成人となります。新成人それぞれの志しが祝福されますよう祈ります。

 主の心がサウル王から離れた時、主は預言者サムエルをベツレヘムのエッサイのところに遣わしました。主はエッサイの息子たちの中に、新しい王を見出したのです。サムエルはいけにえの会食にエッサイと息子たちを招きますが、主はこの七人の息子たちを退けました。サムエルがエッサイに「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねると、「末の子が残っています」と答えました。末の子は、まだいけにえの会食に出席できる年齢ではなかったのです。この子が来ると、主はサムエルに「これがその人だ」と言いました。サムエルが末っ子ダビデに油を注ぐと、主の霊が激しく降るようになりました。

 公現日後の日曜日は、イエスの洗礼を覚える日です。イエスが洗礼者ヨハネより洗礼を受けると、主の霊が降り「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。私たちも洗礼を受けると、聖霊が臨むようになり、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んでいただけます。ダビデがイスラエルの王に選ばれたのは、彼の側に何か選ばれる理由があった訳ではありません。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(7)この御言葉は、人知の及ばない一方的な神の恵みによってダビデが選ばれたことを意味しています。ダビデ王は、罪を犯しつつも霊の導きを得て、生涯主に従うことができました。若き信仰者たちもまた、洗礼の恵みによる聖霊の導きと、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの励ましにより、生涯主に従うことができると確信しています。

「光りがもたらされる時」 仁村 真司教師

January 14, 2017

<今週の聖句>

 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」。神の技がこの人に現われるためである。」

(ヨハネによる福音書9章2~3節)

               「光がもたらされる時」  仁村 真司

 ヨハネによる福音書9章は、その全体がイエスによる生まれつきの目の見えない人の癒しとそれにまつわる物語です。癒しの直後には、ファリサイ派の人々が癒された人やその両親に事情を聞いています。(13~34節)。

 この中の22節に「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表すものがいれば会堂から追放すると決めていた」とありますが、これはイエスや弟子たちではなく、おそらくヨハネによる福音書を書いた人たちが置かれていた状況です。また31節には「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私は承知しています」とありますが、これは癒された人が一人で言っているのに「わたし」ではなく、「わたしたち」になっています。

 9章の最後の41節では、イエスがファリサイ派の人々に「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言っています。

 これらは、ヨハネによる福音書を記した人たちが、自分たちを生まれつき目の見えなかった人に重ねて、自分たちキリスト者を、イエス・キリストに光をもたらされ、目を開かれた者と捉えていることを示していると思います。

​ そして、イエスをキリストであると信じる者がその信仰故に現実の中で直面する困難は「神の業がその人に現われるためである」ということを、イエスにより生まれつき目の見えない人の目が開かれるという出来事を通して、私たちに伝えています。

「知られざる神に」  小原克博先生

January 21, 2017

<今週の聖句>

アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを、私は認めます。(使徒言行録 17章22節)

                     「知られざる神に」   小原 克博

 使徒言行録は初期の教会の活動の様子を描いている書物ですが、特にその後半部分はパレスチナ世界から地中海周辺世界へと舞台を移した伝道の様子が記されています。今日の聖書の個所では、パウロがアレオパゴスという丘の上に立ってアテネの人々に語っています。パウロはアテネの至る所にある偶像を見て憤慨していますが、決して頭ごなしに「無知な時代」に生きてきた人々の信仰をさげすみ、拒絶しようとはしていません。むしろ、彼らが「知られざる神」にささげていた信仰が本来の信仰へと導かれるようにその道案内を務めようとしています。それでは、(旧約)聖書的な土壌の中で理解され、伝えられてきたイエス・キリストの出来事を、パウロは全く異質な文化や宗教を持った土地においてどのように語ろうとしているのでしょうか。このことは今日の私たちの宣教にも大いに関係する事柄です。

 パウロはアテネの人々が偶像を崇拝していることを責めたてるよりも、むしろ彼らが何かを求めていることを積極的に認めています(4:22)。また、神は探し求めれば見いだされる神として描かれています(4:27)。まず聞くものと同じ地平に立とうすること、これはパウロの基本的な宣教の姿勢です(Ⅰコリ9:19-23参照)。

 16世紀に初めて日本にキリスト教がもたらされて以来、日本での宣教では数々の困難が付きまとってきましたが、はたして日本社会はあらゆる宣教の「根」を腐らせる「沼地」(遠藤周作『沈黙』)なのでしょうか。今、私たちに求められているもの(欠けているもの)をパウロから学びたいと思います。

「主の交わり」 西陣教会 俣田 浩一牧師

January 28, 2017

<今週の聖句>

 わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(ヨハネⅠ 1章3節)

                    「主の交わり」  西陣教会 俣田 浩一

「ヨハネの手紙Ⅰ」は「ヨハネ」と名前が付いていますので、「ヨハネによる福音書」を書いた人がこの手紙を書いたと思われます。でも全くの同一人物というよりは、ヨハネという人によって始められたキリスト教の一つの集団があって、その集団に属する人がこの手紙を書いて「ヨハネ」の名前を冠として手紙として世に出したのだろうと思われます。

 同じヨハネ教団ですから「ヨハネによる福音書」と似たような言葉や文体で書かれています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現われました。御父と共にあったが、わたしたちに現われたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。(1~2節)」どこかで読んだことのあるような言葉と内容です。「ヨハネによる福音書」の最初の書き出しとやはりよく似ています。

 「ヨハネによる福音書」では「初めに言があった。言は神と共にあった。・・・言葉の内に命があった。・・・言は肉となって私たちの間に宿られた」と書かれています。ですからこの二つの文章を考え方として「初めに」、「言」があったことが主張される分けです。「言」とは、にほんごではかんじいちじにやくされていますギリシャ語の「ロゴス」という概念です。ロゴスとは法則とか理屈とか理(ことわり)、論理、真理というような意味です。ヨハネ教団では、このロゴスが元々初めに存在していて、それが「命」であり、御父とともに存在していましたが、その命がこの世に人の姿となって現れたのです。それが、イエス・キリストであると言います。ですから、この文は、このヨハネ教団の信仰であり、ヨハネ教団の信仰告白の文章であるといっても良いと思います。

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