「人を造り上げる言葉」        深見祥弘先生

September 30, 2017

< 今 週 の 聖 句 >

悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

(エフェソの信徒への手紙4章25節~5章5節)

「人を造り上げる言葉」        深見祥弘

 本日は、世界聖餐日、世界宣教の日です。先日、ある外国人伝道者の話をききました。この方は、日本に留学中にキリスト教に出会い、洗礼を受け、献身を決意し、日本の宣教のために仕えたいとの召命が与えられ、日本基督教団の教師となられました。しかし、今、ビザの関係でとても不安定な状態(日本での宣教ができなくなる可能性がある)に置かれています。神さまがこの国で働くためにお立てになられた伝道者ですが、私たちの国の制度がそれを阻んでいるのです。神さまが問題の解決のために、良き導きを与えてくださることを心から願っています。

 今朝の御言葉は、エフェソの信徒への手紙4章~5章です。この手紙は、使徒パウロがロ-マの獄中においてエフェソの信徒に宛てて書き、テキコが届けました。この手紙の中心メッセ-ジは、充満(プレ-ロ-マ)です。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(1:23)パウロは今、獄に閉じ込められていて、自由に出かけて行って宣教することができません。でもパウロは、そのことを嘆いていません。なぜなら、エフェソの教会はキリストによって、すべてのものが満たされていると信じているからです。私たち人間の言葉は、うそや憤り、わめきやそしりというように、互いを分断し、奪い、破壊する言葉です。しかし教会に満ちるキリストの言葉は、互いに赦し合い、憐みと感謝を表す「人を造り上げる言葉」(4:29)です。さらに教会に満ちる神の聖霊は、人々に救いの確信を与えてくれます。教会の宣教は、いかなる力の支配下にあっても、自由な聖霊の働きとキリストの言葉によって進展してゆくのです。

「何事にも時がある」        深見 祥弘牧師

October 07, 2017

<今週の聖句>

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。               (コヘレトの言葉3章11節)

「何事にも時がある」        深見祥弘

 本日は、神学校日・伝道献身者奨励日です。教団が伝道者の養成を委ねている6つの神学校で働きをする教員・職員の方々、学びをする学生たちの上に主の祝福をお祈りいたします。

 御言葉は、旧約聖書コヘレトの言葉3章です。コヘレトとは、「集会を招集する者」「説教者」「伝道者」を意味します。この書はBC250年頃、エルサレムの教師によって書かれました。この時代、エルサレムは、エジプトのプトレマイオス2世の支配下にありましたが、国際的な文化交流が行われる平穏な日々の中にありました。この書には、イスラエルの伝統的な知恵に加え、ギリシャやエジプトの教養知性の影響を見出すことができます。

コヘレトは、「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。」(1:13)しかし、「知恵が深まれば悩みも深まり」(1:18)「どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」(1:14)と述べています。例えば、人の生活には様々な「時」がありますが、人はその「時」をうまく捕えたとしても、自らの力で成功するわけではありません。人は「生まれる時、死ぬ時」に始まり、すべてのことにおいて神の定められた時に従わざるをえないのです。しかも人の知恵は、神の業のすべてを見極めることも許されていません。神はすべてを時宜にかなうように造られる御方ですから、神への信仰をもち、全てを委ねて喜び楽しんで生活するように勧めているのです。また神は人に「永遠を思う心」(神のなさる業を始めから終わりまで見極め、神のみ旨を知りたいとの心)を与えられました。やがて人は、イエス・キリストによって、神の時(永遠の命と神の国)の実現を知ることになるのです。

「ひとりでに実を結ぶ」    仁村 真司教師

October 14, 2017

<今週の聖句>

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」           (マルコによる福音書4章26~27節)

        「ひとりでに実を結ぶ」         仁村 真司

 福音書に収められているイエスのたとえ話は、たとえ話の部分だけが伝えられていて、元々は何をたとえていたのかわからないものが殆どだと考えられています。つまりそれぞれの福音書の中で神の国(マタイ福音書では「天の国」)のたとえとされていても、必ずしもイエス自身が神の国のたとえとして語っていたとは限らないということになります。

 特にマタイ福音書では多くのたとえ話が天の国(神の国)を例えたものとされていますが、私はこれらの内、例えば「タラント」のたとえ話(25章14~30節)は、おそらく元々は天の国(神の国)をたとえたものではなかったと考えています。

 今回取り上げる「成長する種」のたとえ話も「神の国は次のようなものである」から始まっていますが、だからと言って元々神の国のたとえ話であったとは言い切れないということになります。ただ、このたとえ話はマルコ福音書にしかありませんが、マタイ福音書やルカ福音書に比較して、マルコ福音書に記されているたとえ話の数はかなり少ないのです。その少ない中で神の国のたとえとされているのは、この「成長する種」のたとえ話とすぐ後の「からしだね」のたとえ話だけですから、これが元々神の国のたとえとして語られたものである可能性はかなり高いと考えられます。

 今朝は、「成長する種」のたとえ話を、イエスがか神の国について語ったものとして受け止め、イエスが人々に「神の国とは・・・」という時、何が示され、何がもたらされるのか考えて行きます。

「石ではなくパンを」      小原 克博教師

October 21, 2017

            <今週の聖句>

あなた方のだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。(マタイによる福音書7章9節)

        「石ではなくパンを」  小原克博

宗教改革500周年を迎える中、私たちが何を思い起こすべきなのか、何を次の時代に伝えるべきなのかを考えるための手がかりとしたいのが、「あなた方のだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」というイエスの言葉です。これは「山上の説教」(マタイ5-7章)の一部ですが、その最後で次のように記されています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」。

​ この「驚き」の大切さに着目した人物にレイチェル・カーソンがいます。彼女は次のように述べています。「もしわたしが、すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けてほしいと頼むでしょう。この感性は、やがて大人になってくるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることに対する、変わらぬ解毒剤になるのです」(『センス・オブ・ワンダー』23項)。

 500年前、マルティン・ルターは聖書を読み直す中で大きな「驚き」に触れました。そして、当時の教会が人々に与えていたものが「パン」ではなく「石」ではないかと気がついたのではないでしょうか。宗教改革は、驚きをもって聖書を読み直し、人の命を生かす「パン」を取り戻す運動であったと言ってもよいでしょう。

「恵みを数える人生」 福原タカヨシ氏(プロゴスペルシンガー)

October 28, 2017

「恵みを数える人生」     福原タカヨシ

 

私は、両親がクリスチャンの家庭に生まれ育ち、 近江兄弟社高校に進学。その春のイースターに洗礼を授かりました。 その後、同志社大学神学部に進学しましたが、 神学以上に音楽に熱心だった私は、卒業後、ミュージシャンの道に進みました。活動15年目の春(2015年3月)、私はコンサートツアー先で大きな交通事故に遭いました。会場について、車をとめて荷物をおろしていたときのことです。突然背後からものすごいエンジン音が聞こえ、次の瞬間、私は体験したことのない激痛に襲われました。一台の車が追突してきたのでした。私の両足は、自分の車と追突してきた車に挟まれ、ぐしゃぐしゃに潰されてしまいました。病院へ搬送され、手術がはじまるまで5時間、耐えられないほどの痛み、苦しみを体験しました。手術がはじまり、家族が執刀医から宣告されたのは、「損傷の激しい右足は、残すよりも切断する方が賢明であること。左足は、動脈が潰れており、既に壊死がはじまっている可能性が高いため、両足ともに切断するかもしれません。」という厳しいものでした。人生、生きているといろんな事があります。 誰もが日々、それぞれに重荷を背負って生きているでしょう。けれども、悲しみを数えずに、恵みを数えるとき、そこに慰めがあり、生きる力があります。私は、事故により、多くのものを失いましたが、この体験を通して『何気ない日常こそが奇跡』の連続であるということを知りました。生かされていること、そして、今与えられている恵みは私にとって「充分である」と信じて、日々、感謝を忘れないでいたいと願うものです。

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