「安かれ」           深見祥弘牧師

November 04, 2017

<今週の聖句>

イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。  (ヨハネによる福音書20章19節)

「安かれ」           深見祥弘

 教会は、11月第一日曜日を永眠者記念日として、天上の兄弟姉妹を覚えて記念礼拝を行ってきました。本日、私たちは506名の兄姉を記念して礼拝を守っています。特に昨年の記念礼拝から今日までの間に召された5名の兄姉の御霊の平安と、御家族の上に慰めを祈ります。

 「私は今日も病のために じっとしています けれども幸せです 前は一人ぼっちにされているようで 誰からも取り残されているようで 寂しかった時もありました でも今は違います 主がともにいてくださることが判っているから そして 人は一人一人 神様よりいただいている賜物が違って それぞれの場で 生かされている道があることが判ったから だから 家の中で じっとしていられる私は幸せである」 これはかつて私がお交わりをいただき、今年1月逝かれた姉妹の日記の一節です。姉妹は、幾つもの困難な病を得、闘病の日々を過ごされました。「生きることが苦しみになる」そんな日々の中、御夫妻は神様により頼み、すがり、助けを祈り、主に聴くこと、耐えることで、信仰が深められてゆきました。この激烈な痛みと苦しみの日々において表明されたのは、「神様のみ名はほむべきかな」でありました。

 復活のイエスは、家の戸に鍵をかけて閉じこもる弟子たちを訪れました。イエスは、彼らの真ん中に立ち、十字架の傷を示しながら「安かれ」と言われました。その時弟子たちは、喜びに満たされました。このイエスの「安かれ」には、苦しみを経て得ることのできた深い喜びが秘められています。私たちも、苦しみや愛する者を失うことを経験します。十字架と復活のイエスがそんな私たちを目指して来てくださいます。私たちは、このイエスとの出会いによって、神の愛に気づかされ信仰を深くし、賛美へと導かれるのです。

「わたしは良い羊飼いである」    深見祥弘牧師

November 11, 2017

<今週の聖句>

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

                           (ヨハネによる福音書10章11節)

「わたしは良い羊飼いである」    深見祥弘

今日は、私たちの教会の収穫感謝礼拝です。主が私たちの名を呼んで招いてくださり、大人も子どももここに集まりました。この時間、主が与えて下さった恵みを一つひとつ数えながら、感謝と讃美をお献げいたしましょう。 

 主イエスは、ファリサイ派の人々に「わたしは良い羊飼いである」と言われました。「良い羊飼い」とは主イエスのこと、「羊」とは人々のことです。では、どうして主イエスは御自分を「良い羊飼い」と言われるのでしょう。①「良い羊飼い」は、自分の羊のことを知っていて、その一匹一匹の名を呼ばれます。②羊たちは、「良い羊飼い」の声を聞き分けることができます。③「良い羊飼い」は、羊のために命を捨てます。④「良い羊飼い」は、囲いに入っていない羊たちをも導きます。⑤「良い羊飼い」は、羊たちを一つの群れとされます。 例えば主イエスは、人々から疎外されていた徴税人ザアカイの名前をご存知で「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と声をかけられました。ザアカイが主を家に迎え入れ悔い改めると、主は「今日、救いがこの家を訪れた。・・・人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われ、ザアカイは救いの群れに招かれたのでした。

これに対してファリサイ派は、雇われた「羊飼い」です。「雇われ羊飼い」は、自分の羊のことを知りませんし、羊も羊飼いの声を聞き分けることはできません。「雇われ羊飼い」は狼に襲われれば羊を残して逃げ出します。自分が預かっている羊以外に関心を示さず、群れを散らすこともあります。

 「良い羊飼い」は主イエスお一人です。私たちはこの良い羊飼いである主イエスによって守られ、導かれてきました。私たちはこの時、主の羊の群れの一員である恵みを覚え、感謝してみ前に讃美を献げましょう。

「育つままに・・・」     仁村真司教師

November 18, 2017

 「主人は『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集める時に、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取るものに言いつけよう。』」

                           (マタイによる福音書13章28~30節)

「育つままに・・・」  仁村真司

 今回はマタイ福音書の「毒麦」のたとえ話について考えて行きます。

 畑に独麦があることを主人に伝え、それが毒麦の仕業であることを聞いた僕たちは即座に、「(毒麦を)抜き集めておきましょうか」と申し出ています(27・28節)。毒麦がどんな植物なのかわかりませんが、見間違えようがないくらいに、麦とはっきり違ったものだったようです。

 しかし主人は、「いや毒麦を集める時に、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方ともに育つままにしておきなさい」と言い、また刈り入れの際の麦と毒麦の仕分けも、僕たちではなく、別の「刈り取るもの」に任されることになっています。(29・30節)。

 「主人」とは神のことですから、このたとえ話によって人が神から命じられている、託されているのは、「両方とも(麦も毒麦も)育つままにしておきなさい」ということだけになります。

 創世記には、エデンの園で人が善悪の知識の木の実を食べたことによって「人は我々の一人のように、善悪を知るものとなった」(3章22節)とありますが、それでは何故、毒麦(悪)を抜き取ることばかりか、麦と毒麦(善と悪)を分けることまで託されていない、許されていないのでしょうか?

 このことについて考えて行く中で、イエスがこのたとえ話を通して私たちに示していることが明らかになっていくと思います。

「わたしを忠実な者とみなして」     深見祥弘牧師

November 25, 2017

<今週の聖句>

しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(テモテへの手紙第一1章16節)

「わたしを忠実な者とみなして」     深見祥弘

 本日は、謝恩日です。謝恩日は、私たち日本基督教団で働きをされ隠退された教師・教育主事、そしてご遺族を覚え、主のねぎらいとこれからの日々の平安を祈る日です。現在、教団の年金をお受けになっておられるのは、教師459名、教育主事1名、遺族280名の方々です。

 今朝の御言葉は、テモテへの手紙第一です。この手紙は、パウロが弟子のテモテに宛てて書きました。パウロは、エフェソの教会の指導者であるテモテと信徒の人々に、宣教の厳しい現実の中でどのように教会生活をすべきかを教えています。それは、パウロ自身の体験から出た助言でした。かつてパウロは、教会の迫害者、罪人の中の最たる者でした。しかし、復活の主は、迫害のためにダマスコへと急ぐパウロに現れ、彼を回心へと導きました。主は、パウロにその罪責をはるかに越える主の恵みと憐みを与え、罪を赦してくださいました。そればかりか、主は彼を忠実な者とみなして宣教者とし、主を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本にされたのです。パウロが十字架と復活の主によって救われたことは、後に続く者を力づけました。罪の第一人者であるパウロが救われたのですから、救われない者はいません。さらに主は、パウロを宣教者として立てられ、大いなる働きをさせられたのですから、主の恵みによって立てられているテモテと信徒たちも、同じようにその働きをなすことができるのです。そしてパウロやテモテに与えられた主の恵みは、今も豊かに、隠退教師やご遺族の方々に与えられています。

 私たちも、隠退教師やご遺族の方々のように「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」と力強く福音を証しする者とされているのです。

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