「聖なる種子」  深見 祥弘牧師

February 04, 2017

<今週の聖句>

なお、そこに十分の一が残るがそれも焼き尽くされる。・・しかし、それで

も切り株は残る。その切り株とは聖なる種子である。(イザヤ書6章13節)

「聖なる種子」         深見祥弘

 米国第一主義を掲げる新大統領は、就任以来、次々と大統領令を発行し、

米国内外に混乱と不安が広がっています。大統領は人々の声に耳を傾けよ

うとはしません。米国はじめ世界は、どのようになってゆくのでしょうか。

 紀元前8世紀中ごろ、イスラエルとユダ両王国は、台頭してきた新アッシ

リア帝国と古い時代から力を持つエジプトという二大大国のはざまにあって、

動揺していました。そうした中、イザヤは召命を受け、南王国ユダの預言者

として働きを始めました。彼はこうした国際情勢の中で右往左往する為政者

に対し、軍事力や大国との同盟に頼らず、主により頼むように求めました。

イザヤは来るべき日「ひとりの男の子がわたしたちに与えられ、ダビデの

王座とその王国の権威は増し、平和は絶えることがない。主の熱意がこれを

成し遂げる。」(9:5~6)と告げました。

 召命に際して主はイザヤにこのことも告げました。為政者をはじめ多くの

人々は、イザヤの言葉に耳を傾けることなく心を頑なにする。その結果、町々

は崩れ去り、人々は遠くに移される。(前722年アッシリアによる北王国の滅亡、前597年・587年バビロンによるエルサレム陥落と捕囚)では、主はなぜイザヤに召命を与えたのでしょうか。それは、少数であってもイザヤの言葉を聞き、信仰に生きる人々(切り株)が与えられること、そして、その信仰に生きる人々の末裔に救いの希望を受け継がせ、必ず正義と公正を実現することを示すためでした。苦難をくぐり抜けた切り株に新しい命(御子イエス)が与えられ、キリストの世が実現するのです。わたしたちもまた命をいただいた切り株です。たとえ希望がないような状況にあっても、主が絶望から救い出し希望へと導きだしてくださることを信じて歩みだしましょう。

「信心のために鍛えなさい」 深見 祥弘牧師

February 11, 2017

<今週の聖句>

信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、

この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。

(テモテへの手紙第一4章7~8節)

「信心のために鍛えなさい」      深見祥弘

 テレビでは、中高年を対象にした健康グッズやサプリメント等の通販番組が夜昼なく流れています。多くの人々が、健康に強い関心を持っていることがわかります。しかし、この世の命と来るべき世の命に関わることについては、まだまだ関心が薄いようです。

 テモテへの手紙は、パウロからテモテへの私信です。テモテは、パウロの第二伝道旅行の際、リストラの町で見出されたパウロの弟子です。パウロはマケドニア州への旅の途中、エフェソの町にいるテモテに手紙を出しました。テモテは、エフェソの教会の人々が偽りの教え(結婚を禁じたり、ある種の食べ物を絶ったりすること)に惑わされる中で、労苦し奮闘していました。

 4章には、「教え」と「信心」という言葉が出てきます。「教え」は聖書から導き出される教えのことです。パウロはテモテが教えから養いを受けるように勧めます。「信心」とは、言葉や行動として出てくる信仰の表明のことです。パウロはテモテが良い奉仕者となるために、「教え」に養われ、「信心」において節制を心掛けるように求めているのです。信心のために自分を鍛錬するのは、自分のためばかりではなく、神と教会と隣人のためです。若いテモテは、教会の人々から軽んじられていました。パウロはテモテが忍耐してその地を離れず、按手により与えられた霊的な賜物によって、聖書の朗読と講解そして洗礼教育に専念するようにと励ましています。

「主イエスを信じ続けること」  彦根教会 廣田 和浩牧師

February 18, 2017

                   <今週の聖句>

しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。

                      (マタイによる福音書15章27節)

              「主イエスを信じ続けること」  彦根教会 廣田 和浩

滋賀地区伝道協議会滋賀東ブロックでは、今年度から講壇交換礼拝を行うこととなり、初めての今回は近江八幡教会と彦根教会との組み合わせとなりました。このような礼拝交流の交わりを感謝いたします。

 さて、今日の聖書の個所で、一番惹かれるのは、カナンの女と呼ばれている女性の優れた対話力です。娘が悪霊(病い)に苦しめられていたことで、娘も母親であるこの女性もつらい毎日を過ごしていたのでしょう。いやしを願う必死の思いは、「主よ、わたしを憐れんでください。」という叫び声に表されていたはずですが、イエスや弟子たちは、この女性に対して大変冷たい態度でした。しかし、この女性のすごいところは、あきらめないで、「主よ、憐れんでください。どうぞお助けください。」と求め続けたことです。

 特に、イエスが、イスラエルの民を「子供たち」とし、イスラエルから見た他の民族を「小犬」と表現された言葉に対して、女性はその「小犬」の言葉を用いて、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と見事に返答しています。感情にまかせて叫び続けるということは、比較的容易にできると思われますが、その場で話された言葉を用いて、伝えたい思いを言葉にするということは、経験と冷静さがなければできないことです。これまでの人間関係において積み重ねてきたつらい経験と、イエスさまは必ず応えてくださるというゆるぎない思い(信仰)とが、素晴らしい言葉を発することへとつながったのです。イエスさまは、その言葉に動かされて、それまでの態度を改め、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言って、娘の病気をいやされました、

「私の床を担って歩め」   仁村 真司教師

February 25, 2017

<今週の聖句>

「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(マルコ福音書2章9~11節)

            「自分の床を担いで歩め」     仁村 真司

 前回取り上げましたヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人の癒しの物語では、「この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と問う弟子たちに対して、イエスは即座に「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」と言って(2・3節)、生まれつき目の見えないことが罪の結果であるという考え方をはっきりと否定しています。

 ところが今日の個所には、イエスが、病気の人を運んで来た四人の男たちの信仰を見て、病気の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言ったとあります(5節)。もしもこれが、病気の人を運んで来た人たちの信仰故にイエスが病気の人の罪を赦し、病気を癒すということならば、ここではイエスは病気が罪の結果であると考えられていたので、その考え方を前提にしてイエスはこういう言い方をした」などと説明されることがありますが、今朝は、「当時のユダヤ教社会では病気は罪の結果であると考えることが一般的であったのか?」という所から検討していきます。また、しばしば「癒される理由」・「癒しの条件」のように考えられている「信仰」についても合わせて考えていきます。

​ これらを通して、「自分の床を担って歩め」というイエス・キリストが、わたしたち一人一人に示していることを受け止めて行きたいと思っています。

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