「信仰は聞くことによって始まる」 池淵 亮介先生(KGK関西主事)

March 11, 2017

<今週の聖句>

 実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10章17節)

        「信仰は聞くことによって始まる」     池淵 亮介

 私たちが、次世代への信仰継承や伝道を考える時、3つの機会の提供がどうしても必要です。一つ目は、クリスチャンに出会う機会、二つ目は、み言葉に触れる機会、三つめは証を聞く機会です。

 まずその人にとっては、私たちが、「初めて出会うクリスチャン」である可能性が高いと言えます。「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10章20節)と教えられているように、まず私たち自身がどのようなところから救いに預かったか、その救いを喜ぶことが何より大切です。そして、その恵みを覚えることから始め、この救いに、家族が、友人が、預かることができるようにと、祈るところから始めたいのです。

 二つ目は、信仰は、「御言葉を聞く」ことからしか始まってはいかないと言われていますから、み言葉に触れる機会を提供することが大切です。教会学校や子育てママの支援、英会話など、色々なプログラムも大切ですが、そこでの交わりと共に、聖書そのものに触れる機会を提供することが何より必要です。

 三つめは、生きた証を聞く機会の提供です。イエス様は私たちに弁護人になりなさいとは言われていません。私たちに求められるのは、証人となりなさい、ということです。その意味で、私たちは家族や友人に証をすることにおいては、責任があると言えます。自分がいただいた救いの恵み、ライフストーリーを証の機会に設けて、語り伝えていくこと、家族に文書として残していくことが大切です。

 救いは神様の御業です。しかし、私たちにゆだねられているこの三っつのの機会提供に関しては、私たちがすべき事柄です。それゆえ、私たちは、この三つの機会提供に忠実に務め、そして、私たちの力を超えた神様の救いのお働きを期待し祈るものとなりたいと願います。

「奪い取られる喜び」         深見 祥弘牧師

March 18, 2017

<今週の聖句>

しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。   (マタイによる福音書12章28節)

「奪い取られる喜び」         深見祥弘

 東日本大震災から6年になりました。直木賞作家の熊谷達也さんは、以前、気仙沼の中学教師でした。震災後、町を訪れた時「言葉には力などない」と強く思い、作家として生きる時計の針が止まったように感じたそうです。以来、熊谷さんは何かを探すように被災地を歩きました。被災地を歩くことが、もう一度確かな言葉を取り戻そうとする行為であることに気づいたのは、随分たってのことでした。(毎日新聞3月6日朝刊余禄より)

 御言葉は、マタイによる福音書12章です。イエスは悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人をいやしました。この奇跡を見て、群衆は「この人はダビデの子・救い主かもしれない」と言いましたが、ファリサイ派の人々は、この者は悪霊の頭の力によって悪霊を追い出したのだと言いました。イエスは神の霊でこの人から悪霊を追い出したこと、これまでこの人を支配していたサタンを私が縛り上げ、その手からこの人を奪い取ったことを話しました。かつて預言者イザヤは、救い主の到来を預言しました。「捕らわれ人が勇士から取り返され とりこが暴君から救い出される。・・わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う」(イザヤ49:25~26)このようにして、サタンに捕らえられていた人々が、救い主によって解放されています。人々は「神の国は来ている」との主の言葉に励まされ、喜びをもって歩みはじめました。

 熊谷さんは今、気仙沼を舞台にした小説を書いています。先の見えない道を必死に歩こうとする人々が振り返った時に、「俺がいちばん最後にいるよ、大丈夫だよ」と言葉をかけるような作品を目指しているそうです。主に救われた私たちの歩みもまた、決して容易なものではありません。私たちの背後には言である主イエスがいて、「神の国は来ている」と励ましておられます。

「自分の床を担って歩め(その2)」   仁村真司教師

March 18, 2017

<今週の聖句>

 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。

                          (ヨハネ福音書5章7~9章)

               「自分の床を担って歩め(その2)」     仁村 真司

 今朝は、ヨハネ福音書のイエスがベトサダの池で三十八年間病気で苦しんでいる人を癒す物語です。

8節でイエスが病気の人に「起き上がりなさい。床を担って歩きなさい」と言っています。これは、前回取り上げたマルコ福音書の身体が麻痺している人を癒す物語の中の言葉、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」の「起きて、床を担いで歩け」(2章9節)と全く同じです。

 全く同じなのですが、マルコ福音書の物語の場合は横たわったまま床ごと四人の男の人に担がれてきた病気の人が、癒されて自分で床を担いで歩き出すまで描かれていて、明らかに「自分で床を担ぐこと」がテーマになっていますが、ヨハネ福音書の「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」は唐突に出てきています。それまでに「床」は一切出てきていません。

 また、14節ではイエスが病気だった人に「もう、罪を犯してはいけない」、つまり「病気と罪は関係がある」という意味の発言をしたことになっています。これは同じヨハネ福音書の中のイエスの言葉、「(生まれつき目が見えないのは)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(9章3節)で病気と罪の関係を否定していることと矛盾しています。

 これらのことを踏まえて、ヨハネ福音書のイエス・キリストが三十八年間病気で苦しんでいる人に対して言った「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」、この言葉のよって何が示されているのか考えて行きます。

「これに聞け」          深見 祥弘牧師

March 25, 2017

<今週の聖句>

イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

(マタイによる福音書17章7~9節)

「これに聞け」          深見祥弘

 イエスはフィリポ・カイサリア地方に行かれた時、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問われました。ペトロが、「あなたはメシヤ、神の子です」と答えると、イエスはご自分の受難を予告されました。

 それから六日後のことです。イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。そこでイエスは栄光の姿に変わられ、モ-セ、エリヤ

と語り合われました。その光景を見たペトロが、ここに仮小屋を建てましょうと話すと、光輝く雲に覆われ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神の声を聞きました。ペトロたちが非常に恐れひれ伏すと、イエスは彼らに手を触れ、「起きなさい。恐れることはない。」と言われました。この出来事は、ペトロたちにとって大きな希望となりました。

 二世紀中頃、教会は主の再臨を否定する人々の出現によって、退廃していました。そうした状態を憂う教会指導者にとっても、ペトロたちによって伝えられた主イエスの山上の変容は将来の希望でした。主イエスは、「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る。」(マルコ13:26)と約束してくださったからです。主イエスの再臨によって、教会の人々は救われ、御国に真の住まいを得ることが出来るのです。

父なる神はここにいる私たちに対しても、「これ(主イエス)に聞け」と言っておられます。また主イエスは、私たちに手を触れ「起きなさい。恐れることはない」と言って立ち上がらせてくださいます。闇のような世にあっても、私たちが御言葉に聞き、立ち上がって主イエスに従う時、主の再臨の確信と、御国を住まいにできるという希望をいただくことができるのです。

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