「主の王座の右左に」    深見 祥弘牧師

April 01, 2017

<今週の聖句>

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。(マタイによる福音書20章28節)

「主の王座の右左に」        深見祥弘

 今朝の御言葉は、マタイによる福音書20章です。ここには、イエスがエルサレムに行かれる途中の出来事が三つ書かれています。一つ目は、イエスが「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」と決意表明をし、弟子たちに三度目の受難予告をされたことです。二つ目は、ヤコブとヨハネの母が、息子たちを連れてイエスのところに来てひれ伏し、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座るとおっしゃってください。」と願ったこと。そして3つ目は、エリコの町を出たところで、二人の盲人の目を開けた出来事と、彼らが主に従ったことです。

この三つの出来事から浮彫になるのは、イエスに対する弟子たちの無理解です。イエスが、御自分がエルサレムで捕らえられ裁かれ十字架に架けられ復活すると告げられたのは、十字架のイエスこそがメシヤであると信じる人々を救うためでした。しかし弟子たちは、イエスがエルサレムに到着するとそのままメシヤとして王座に着き、神の国が実現すると思い違いをしていたのです。それに対し二人の盲人は、イエスがどのような御方なのかをわかっていて、「主よ、憐れんでください」と叫びました。十字架のイエス、その右左に架けられたのはヤコブとヨハネではなく、二人の強盗たちでした。イエスは、一人の強盗が自らの罪を懺悔し、すべてを委ねたのを見て、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われ、息を引き取られたのでした。

ここにいる私たちも、弟子たちと同じく主イエスのことがわかっていないのかもしれません。しかし私たちは、「皆の僕になりなさい」という主の教えを実行することで、私たちに仕えてくださった十字架の主のすばらしさに気づかされ、悔い改めに導かれ、喜びをもって主に従うことができるのです。

「人々のののしり、イエスの叫び」深見 祥弘牧師

April 08, 2017

<今週の聖句>

イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。    (マタイによる福音書27章50~51節)

「人々のののしり、イエスの叫び」     深見祥弘

 3月1日より始まった受難節(レント)も、本日が棕梠の主日、今日より受難週に入りました。かつてイエスは苦難と十字架の道を、御自分が進むべき唯一の道として歩まれました。

 今朝の御言葉マタイによる福音書27章32~56節は、十字架上のイエスについて書いています。大祭司カイアファとロ-マ総督ピラトのもとで裁判を受けたイエスは死刑判決を受け、ゴルゴタに引かれて来て、十字架につけられました。イエスはそこを通りかかった人々や祭司長たち、またイエスと一緒に十字架につけられた強盗たちからも「神の子なら、自分を救ってみろ。」という侮辱やののしりの言葉を受けました。十字架につけられたイエスは、苦しみを極みまで経験され、午後3時大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれました。そしてもう一度大声で叫ばれ、息を引き取られました。

 今朝の御言葉で印象的なのは、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(34)という言葉です。ルカによる福音書には、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫び、息を引き取られた(23:46)とあります。この「息を引き取る」という言葉は、「霊を渡す」という意味をもちます。イエスより霊を委ねられた父なる神は、神殿の垂れ幕を裂いて神と人との隔てを取り除き、死者を復活させ、イエスを十字架につけたロ-マの百人隊長に「本当に、この人は神の子だった」と言わしめて、信仰へと導きました。

今、私たちは十字架上のイエスの叫びを聞きました。父なる神の御手に委ねられたイエスの霊が私たちに臨む時、神との断絶を取り除き、私たちを信仰へと導いて、主に仕える力と新しい命で満たしてくださるのです。

「行ってわたしの兄弟たちに告げよ」深見 祥弘牧師

April 15, 2017

<今週の聖句>

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

(マタイによる福音書28章10節)

「行ってわたしの兄弟たちに告げよ」   深見祥弘

 イ-スタ-おめでとうございます。紀元300年頃の教会会議で、イ-スタ-は「春分の日の後に来る満月の次の日曜日」と定められました。先週水曜日受難週祈祷会が終わって外に出ると、まん丸のおぼろ月が出ていました。

 安息日が終わり、週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアがイエスの墓に出かけました。墓に到着すると、大きな地震が起こって墓が開き、主の天使が現れて番兵たちを退けました。天使は、二人に空の墓を見せて主が復活されたことを告げ、弟子たちに知らせるように命じました。その後二人が弟子たちのところに向かう道でのことです。復活の主が彼女たちの行く手に現れました。二人が主の足を抱きひれ伏すと、主は彼女たちに「行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と言われました。

 今朝の御言葉で心留めさせられたのは、裏切り逃げ出した弟子たちのことを、復活の主が「わたしの兄弟たち」と呼んでいることです。主の十字架と復活は、彼らに対する愛を示すためでした。主は御自分のことを三度知らないと言ったペトロを十字架において愛してくださいました。それゆえにペトロは自分自身を愛することができるようになりました。また王座の右にと願ったヤコブをも、主は十字架において愛されました。その愛を知ったペトロは、主が愛されたすべての兄弟たちを愛することができたのです。愛された弟子たちは、復活の主のもとガリラヤ(教会、天の国)において、互いに愛し合い、兄弟姉妹と呼び合いました。主の十字架と復活、そこに明らかにされた愛をもって、復活の主は私たちをも主の家族としてくださるのです。

「先立ち導いてガリラヤへ行く」  仁村真司教師

April 22, 2017

 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねていわれたとおり、そこでお目にかかれる』。と」(マルコによる福音書16章6~7節)

「先立ちて導いてガリラヤへ行く」  仁村 真司

 マルコ福音書は、イエスのいない空の墓で復活された女性たち(マグダラのマリア・イエスの母マリア・サロメ)が、そこでの出来事を「誰にも言わなかった。恐ろしかったからである」(16章8節)で終わっています。9節以下は「マルコ」とは別の人による付加ですから、元々のマルコ福音書ではイエスの復活を知ったのはこの女性たちだけということになります。

 この女性たちが、イエスの復活を知ったのは偶然のことではありません。

 15章に、女性たちがイエスの十字架の苦しみと死を「遠くから見守っていた」、「イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた」(40・41節)とあります。イエスをずっと見ていたということです。

 そしてイエスが死んでも、イエスのもとへと向かい(遺体に油を塗るために墓に行き)、受難に際して逃げ出してしまった、イエス・キリストを見失ってしまった弟子たちへの言葉を託されます。

 私たちも、日々の現実の中で、不安や恐怖に囚われて、イエス・キリストの姿を見失ってしまいます。

 女性たちが託された「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」は、そのような弱い私たちをもイエス・キリストとの出会い・再会へと導いています。

「福音を分かち合う」    深見祥弘牧師

April 29, 2017

<今週の聖句>

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

(ロ-マの信徒への手紙10章8節)

「福音を分かち合う」        深見祥弘

 本日は礼拝後、教会総会を開きます。総会では、2017年度宣教牧会方針案を審議していただきますが、その中で年間標語を「福音を分かち合う-信仰の継承と宣教-」とすること、聖句を「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」(ロ-マ10:8)とすることを提案いたします。私たちの願いの一番は、家族や友人が信仰に導かれることです。なぜなら「イエスは主です」と告白する信仰は、私たちの日々の生活を支え、私たちを神の国と永遠の命へと導くからです。私たちは、家族や友人もこの救いの恵みを受け、喜びのうちに歩んでほしいと願っているのではないでしょうか。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」、この御言葉は、申命記30章14節の言葉です。ここでモ-セは、神の律法が人にとって身近なもの、容易なものと書きました。しかし、その後、人は律法によって神の義を求めるのではなく、律法を守ることで自分の義を実現しようとし、律法を遠いものにしてしまいました。パウロは、ロ-マの信徒への手紙でこの申命記の言葉を引用し、「御言葉」とは主イエスのことであると書きました。そしてパウロは、人が「イエスは主である」と信じ告白するだけで、「だれも失望することがない」(イザヤ28:16)、「だれでも救われる」(ヨエル3:5)との旧約の預言が実現すると書いています。

 私たちは、共にいてくださる復活の主に励ましていただきながら、「イエスは主です」、「主を信じる者は、失望することがありません」「主の名を呼び求める者はだれでも救われます」と私たちの口と心によって宣べ伝え、この福音を家族や友人と分かち合いたいと心から願っています。

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