「霊は望むままに」 深見 祥弘牧師

May 06, 2017

<今週の聖句>

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

(コリントの信徒への手紙第一12章4節)

「霊は望むままに」        深見祥弘

 教会創立116周年を迎えました。この歴史の中で、1919年(T8)から1926年(T15・S1)の歩みについてお話しいたします。覚えたいことが、四つあります。一つは1919年7月、高橋卯三郎牧師の招聘です。高橋牧師は教会の礼拝・集会に留まらず、近江療養院の職員や病者への宣教牧会、また「湖畔の声」の編集にもたずさわり、当教会と近江ミッションの伝道の要となり、両者は一体化へと導かれました。二つ目は、1923年9月の関東大震災です。教会と教会婦人会は、募金と援助物資を募り送ること、牧師を被災地に派遣し慰問させること、被災者を招き体験を聞くこと、町の公会堂で帝都復興講演会を開催することなどを行ないました。三つ目は、1924年2月の教会堂増改築落成です。これを機に教会は、「八幡組合基督教会」との呼称を「近江八幡基督教会」とし、会堂を用いてさまざまな講演会を催し、伝道とともに地域の文化啓発に貢献することをめざしました。同月、当教会で開催された日曜学校近江部総会に際し、聖歌隊が組織されました。四つ目は1926年4月の教会創立25周年です。組合教会京都部会総会が当教会で開催され、総会内で記念礼拝が行われました。またこれまでの歩みをまとめた「近江八幡基督教会略史」が出版されました。同年12月25日、大正天皇崩御。クリスマス礼拝は、讃美歌を歌うことやオルガンの奏楽をやめて行ないました。

 パウロがあげている霊的な賜物の一つに、「知識の言葉」があります。これは、福音を実際的な事柄の中で実行する賜物のことです。私たちは、多くの講師を招いて福音の本質(「知恵の言葉」)を学び、それを実践し豊かな実りを得ました。この賜物は、今も変わらず注ぎ与えられています。私たちは教会に結ばれ一つとされ、霊の賜物によって用いられることを感謝しています。

「母はすべて心に納めていた」 深見 祥弘牧師

May 13, 2017

<今週の聖句>

しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。・・母はこれらのことをすべて心に納めていた。     (ルカによる福音書2章50~51節)

「母はすべて心に納めていた」      深見祥弘

 5月第2日曜日は、「母の日」です。「母の日」は、1905年5月9日、アンナ・ジャ-ビスさんが、アメリカ・ウエブスタ-の教会で母親の召天一年記念礼拝を行ったことに始まりました。その日、彼女は礼拝堂の祭壇に母親の好きであったカ-ネ-ションを飾りました。

 今朝は、イエスの父ヨセフと母マリアに起こったある出来事についてお話します。イエスが12歳になった年のことです。両親はイエスを連れ、過越祭を祝うためにナザレからエルサレムまで旅をしました。祭りも終わり、両親が巡礼の一行と帰路についた時、イエスはまだエルサレムに残っていました。一日分の道のりを行ったところで、両親はイエスがいないことに気づき、捜しながらエルサレムに引き返しました。三日後、両親はイエスを神殿で見つけました。「なぜこんなことをしてくれたのです。心配して捜していたのです。」と言う母に、イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのを知らなかったのですか。」と答えました。マリアはこの時、その言葉の意味が分かりませんでした。しかし、ナザレに戻ったマリアは、この出来事をすべて心に納めていたのでした。

 私たちは、親の思いが分からない、子の考えが分からないといったことをしばしば経験します。人生において様々な疑問や不安におそわれた時、マリヤがそうしたように、怒らず、投げ出さず、「すべてを心に納め」るのです。そうするならば、来るべき日に私たちは、その思いの意味を見つけることができるでしょう。それは、イエス・キリストが私たちを愛し導いていてくださったことに他なりません。祭壇に飾られたカ-ネ-ションは、主イエスによって、すべてを心に納め受け入れた親子の愛を証しているように思えます。

「イエスの現実」  仁村真司教師

May 20, 2017

             <今週の聖句>

「主人はその人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後のものにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』」

(マタイによる福音書20章13~15節)

             「イエスの現実」            仁村真司

 今朝は「ぶどう園の労働者」のたとえ話について考えて行きます。

 たとえ話とは、ある事柄を直接相手に伝えても理解してもらうのが難しい場合に、身近で現実的なことを例として、相手に理解してもらおうとするものですが、福音書に沢山記されているイエスのたとえ話は、元々どういう事柄をたとえて語られているのかわからないものが殆どです。

 「ぶどう園の労働者」のたとえ話は「天の国は次のようにたとえられる」(20章1節)から始まっていますが、ここはマタイの福音書に納められる際に付加された可能性が高いので、このたとえば話についてもイエスは元々何をたとえて語っていたのかはっきりしないということになります。

 しかし、「天の国」は「神の国」と同じことですが、イエスが実際に「神の国は次のようにたとえられる」と言ってこのたとえ話を語っていたとすれば、イエスは神の国を現実に手の届く所・現実の可能性と考えていますから(ルカ17章21節、「神の国はあなた方の間にある」と言うのはそういう意味です)、まる一日厚い中、我慢して働いた人たちも、夕方から一時間しか働かなかった人たちも、同じように一デナリオン与えられる、イエスはこれを現実として語っているということになります。

​ この「ぶどう園の労働者」のたとえ話に示されている現実、「イエスの現実」を少しでも受け入れていきたいと思います。

「約束されたものを送る」    深見 祥弘牧師

May 27, 2017

<今週の聖句>

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。 (ルカによる福音書24章49節)

「約束されたものを送る」      深見祥弘

 先週5月25日(木)は、イエス・キリストの昇天を記念する昇天日でした。今朝は、イエスの昇天の恵みについてお話ししてみたいと思います。

イエスは復活後、40日にわたってご自分が生きていることを多くの証拠をもって弟子たちに示し、昇天されました。イエスはエマオに向かう二人の弟子に現れて、聖書を解き明かし、エマオの家でパンを割き、ご自分の復活を示されました。また、イエスはエルサレムの家にいた弟子たちのところを訪れ、十字架で傷ついた手足を見せ、焼いた魚を食べて、ご自分の復活を証しされました。イエスは彼らのために平和を祈り、父なる神が約束した聖霊を待つように告げて、天に昇られました。

 イエスが「昇天」されたことによって、私たちに与えられるようになった恵みが三つあります。一つは、イエスが父なる神の右にいて私たちの執り成しをしてくださることです。父なる神より天と地を支配する権能が委ねられたイエスは、世の終わりに至るまで世界の主となられたのです。二つ目は、イエスが聖霊において信じる者と共にいてくださることです。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と言われたものは聖霊です。かつて神は「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル3:1)と約束されました。ペンテコステ以来、聖霊は教会とそこに連なる人々に与えられ、イエスが主であることを示し、新しい命と神の国に迎えられる確信を与え、彼らを主の証人としてお立てになったのです。三つ目は、イエスが父なる神のもとからもう一度来てくださり、諸々の悪しき力と死を滅ぼし、生きている者にも死んだ者にも救いの恵みを与え、神の国を実現してくださるとの希望をいただいていることです。私たちは、イエスの昇天による恵みに感謝いたします。

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