「わが霊を注ぐ」         深見 祥弘牧師

June 03, 2017

<今週の聖句>

わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。            (ヨエル書3章1節)

「わが霊を注ぐ」         深見祥弘

 この礼拝で一人の姉妹が、洗礼をお受けになられます。聖霊なる神が導いてくださったので、姉妹はこの日を迎えることができました。姉妹が聖霊の息吹をいっぱい吸い込み、「イエスは主です」との信仰告白をもって産声をあげ、新しい命の道を歩みはじめられることを願っています。

 キリスト教には「誕生」を記念する三つの祝祭日があります。御子イエスの誕生を祝うクリスマス、十字架に死なれたイエスの復活を喜ぶイ-スタ-、そして集まる弟子たちに聖霊が降り教会が誕生したペンテコステです。

今日は、教会の誕生を記念する聖霊降臨日(ペンテコステ)です。

 復活されたイエスは、弟子たちに「父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言われました。「父の約束されたもの」とは、父なる神がかつて預言者ヨエルによって預言していた聖霊のことです。弟子たちはイエスの言葉に従い、五旬祭の日もある部屋に集まり祈っていました。そこに激しい風の音が響き、炎のような舌が現れて聖霊が降り、弟子たちは聖霊に満たされました。聖霊降臨は、弟子たちと同じように信じる私たちにも次のような恵みをもたらしました。①聖霊なる神は、私たちと一緒にいてくださいます。②聖霊なる神は、私たちの罪を清めてくださいます。③聖霊なる神は、私たちに新しい命を与えてくださいます。④聖霊なる神は、神の国のひな型である教会を創り私たちに与えてくださいます。そして私たちは、これらの聖霊降臨の恵みを、教会で受け取ることができるようになりました。

 聖霊降臨日は、主によって清められ新しい命に満たされた私たち一人ひとりの誕生の日であり、教会の誕生日であり、神の国の誕生の日なのです。

「思い悩まなくてもよいのです」     深見 祥弘牧師

June 10, 2017

<今週の聖句>

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

(マタイによる福音書6章29~30節)

「思い悩まなくてもよいのです」     深見祥弘

 今日は礼拝堂に花を飾り、子どもたちと一緒に「子どもの日・花の日」の礼拝を守っています。「子どもの日・花の日」は、1856年アメリカ・マサチュウセッツ州の教会で礼拝堂に花を飾り、子どもたちと大人が一緒に礼拝をしたことに始まります。教会に集まった人々は、飾られた花を見ながら自分たちに与えられている神の愛と恵みを覚えて感謝をささげるとともに、教会や地域の子どもたちが神の愛によって成長するように祈りました。

 マタイによる福音書6章は、イエスの山上の説教の一部です。イエスは弟子たちと一緒に山に登り、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」と語られました。弟子たちや人々が、衣食のことで悩んでいたからです。ここで心にとめたいのは、「まして、あなたがたは」という言葉です。野の花と違い、人は神に愛されていることを知ることができます。また神の愛の応答として神を愛し、隣人を愛することもできます。神を愛し、隣人を愛する人、これこそ神の義と神の国を求める人のことです。イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(私たちに必要なもの)はみな加えて与えられる。」と教えられたのです。

5月31日、6月1日、近江兄弟社中・高校の生徒さんが、花の日の礼拝の後花を届けてくださいました。そして今日私たちは、この礼拝後に止揚学園やケアハウス信愛館、ヴォ-リズ老健、教会員宅に花を届けます。神を愛し隣人を愛する人は、「神の国と神の義」を求める人であり、思い悩まなくてもよいのです。「まして、あなたがたは」の恵みにあずかることができるのです。

「神の国とは・・・」    仁村 真司教師

June 17, 2017

<今週の聖句>

 「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現われなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めた時から今に至るまで、天の国は力づくで襲われており、激しく襲うものがそれを奪い取ろうとしている。」

                            (マタイによる福音書11章11~12節)

「神の国とは・・・」

 福音書にはイエスが「神の国(天の国)とは・・・」と語ったとされている多くの言葉が記されていて、「神の国」がイエスの思想・行動の中心と考えられることもよくありますが、イエス自身が元々神の国(天の国)のこととして語っていたと確定出来る箇所は、実はそれ程多くありません。

 また、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ福音書1章15節)、つまりイエスが「神の国が来る」と考えていると受け取れる所もありますが、ファリサイ派の人たちの「神の国はいつ来るのか」という質問に対しては「神の国はあなた方の間にあるのだ」と答えています(ルカ福音書17章21節)。ここでは神の国は「来る」のではなく「ある」と言っているということになります。

 どうも、「イエスの言う『神の国』はこのようなものだ」と言い切るのは難しいことのようです。そもそも難しいのかもしれません。

 これに対して「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ福音書3章2節)と荒れ野で述べ伝えていた洗礼者ヨハネの思想・行動の中心は明確に「神の国」・「神の国が来る」ということです。

 今朝は、神の国の備えを徹底的に実践し、宣べ伝え、多くの人々の心を捉えたヨハネについてイエスが語っていることを通して、「『神の国』とはどういうものなのか」ではなく、イエスが「神の国とは・・・」と語るときに、どのようなことが示され、何がもたらされているのか考えて行きます。

「世にあって、星のように輝き」   深見 祥弘 牧師

June 24, 2017

<今週の聖句>

とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保つでしょう。こうしてわたしは、自分の走ったことが無駄ではなく、苦労したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。        (フィリピの信徒への手紙2章15~16節)

「世にあって星のように輝き」       深見祥弘

 今朝の御言葉、フィリピ2章を読んで、私は韓国・朝鮮のキリスト者詩人 

尹東柱(ユン ドンジュ)の「序詞」という詩を思い起こしました。「死ぬ日まで天を仰ぎ 一点の恥もないことを 葉群れにそよぐ風に 私は心を痛めた。星をうたう心で すべての死んでいくものを愛さねば そして私に与えられた道を 歩んでいかねば。今宵も星が風にこすられる。」(訳:森田進)

彼は、1943年7月留学先の京都において治安維持法違反で逮捕され、1945年2月福岡刑務所で獄死しました。27歳でした。

 フィリピの信徒への手紙は、「獄中書簡」と呼ばれます。著者パウロは、第3伝道旅行中滞在していたエフェソで捕らえられ、獄中からフィリピの教会に宛ててこれを書きました。パウロはここで、キリストの従順(十字架の死に至るまでの従順)を模範とし、救いを達成するようにと励まします。パウロと同様に、今、迫害や誘惑にさらされているフィリピの人々が、「命の言葉(福音)」を信じ伝える働きに従順であることをすすめています。そうするならば、よこしまな曲がった時代にあっても、フィリビの人々(神の子)は終末を待つことなく、「世にあって星のように輝く」ことができるのです。

 本日6月25日は、「京都教区と韓国基督教長老大田老會の交流を覚えて祈る日」です。祈りは、「①東北アジアの平和のために。②差別をこえた多文化共生社会のために。」です。京都教区と大田老會の交流が、緊迫する東北アジアにあって平和の証となり、星のように輝くようにと祈りましょう。

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