「和解」            深見祥弘牧師

August 05, 2017

<今週の聖句>

これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。      (コリントの信徒への手紙第二5章19節)

「和解」            深見祥弘

 コリントの信徒への手紙第二は、パウロがコリント教会に送った手紙です。

この教会は、パウロの第二伝道旅行の際にできました。彼がその地を去った後、教会にはパウロを批判する者が来て、信徒たちがこの者に同調したため、

パウロと教会の関係は悪化しました。パウロは、テトスをコリントに送って関係の回復を実現し、この感謝の手紙を書きました。

 今朝の御言葉は、Ⅱコリント5~6章です。ここでパウロは、コリント教会との関係の回復を覚え「和解」についてのべています。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分に和解させ・・」(18)の御言葉にあるように、この和解は人間のわざでなされたものではなく、神が与えてくださったものです。神の一方的な恵みなのです。 次に、その神の和解は、「キリスト(十字架での死)によって」備えられたものであると言います。わたしたちは、イエス・キリストへの信仰によって和解の恵みにあずかることができます。すなわち信仰によってわたしたちは、キリストに結ばれ、新しくされるのです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(17)と書かれているとおりです。 最後に神は、新しくされたわたしたちに和解の言葉をゆだね(和解のために奉仕する任務)、「キリストの使者」(20)として送り出してくださいます。

 本日は、平和聖日です。神は、和解の任務を教会にゆだねられました。わたしたちの教会もまた、神がこの町の人々に和解の言葉を伝えるために、ここに遣わされたものです。キリストに結ばれて、和解の奉仕に励みましょう。

「平和があるように」        深見祥弘牧師

August 12, 2017

<今週の聖句>

その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。

(マタイによる福音書10章12節)

「平和があるように」        深見祥弘

 ゴットフリ-ト・ベン(1886~1956)は、ドイツの詩人です。彼の作品に「あねもね」があります。「冷えきった地表 霊無の世界に あやしくも

あねもねの花 微かにさいている 信こそ光と よいものの見つからぬ

力だけが栄える地に この花の種が そっと播かれていた あやしくも

あねもねの花は 信と光を宿している いつかは夏が その見事な花で

冠を編んでくれるよ」(有賀鐵太郎訳) 詩人は「信と光を宿しているあねもね」と「力だけが栄える地」を対峙させ、か弱い「あねもね」が「力」に勝利すると歌っています。

 今朝の御言葉は、マタイ福音書10章です。イエスは12人の弟子に汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能を授けて、各地に派遣しました。派遣に先立ちイエスは、このように弟子たちに説教をいたしました。①出発の際には、お金も日用品を入れる袋も持っていってはならない。②まずイスラエルの人々のところに行って「天の国は近づいた」と宣べ伝え、ただで病人を癒し悪霊を追い出しなさい。③町や村に入ったら、ふさわしい人の家に留まりなさい。家に入るときは「平和があるように」と挨拶しなさい。④この派遣は狼の群れに羊を送り込むようなものだ。蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

 敗戦から72回目の夏を迎えました。戦争の足音が間近に聞こえます。私たちは、か弱いあねもね、何ももたない弟子のようです。しかし、主の平和を信じて出かけて行き、「平和があるように」と挨拶するのです。詩人ベンが書くように、来るべき夏に私たちは、あねもねの花で作った冠を主に献げ、平和を喜ぶ日の来ることを信じます。主の権威がそれを実現するからです。

「涙を流しながら」        深見 祥弘牧師

August 19, 2017

<今週の聖句>

自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。     (使徒言行録20章24節)

「涙を流しながら」        深見祥弘

 今月、私たちは一人の兄弟を神さまのみもとにお送りいたしました。過日、兄弟は祈祷会で御自身の歩みをお話しくださり、「命を終えて死に臨む時、イエス・キリストへの信仰によって、大きな祝福をいただくことができる。」と証をされました。

 今朝の御言葉は使徒言行録20章です。ここには、パウロがエフェソの長老たちに語った告別説教が書かれています。第3伝道旅行を終えてエルサレムに向かうパウロは、船が停泊していたミレトスに長老たちを呼び寄せました。まずパウロはエフェソでの3年間を回想し、人々の悔い改めと主イエスに対する信仰のために、涙を流しながら仕えてきたと話しました。次に、これから聖霊に促されて投獄と苦難の待ち受けているエルサレムに行くことを知らせました。これまで、主イエスによってあらわされた神の恵みを人々に語り伝えるために、召し出され、生かされ、仕えてきたが、これからもこの使命のためならば、投獄や苦難を恐れないし、命すら惜しいとは思わないと伝えたのです。そのうえで、パウロは、エフェソの教会を長老たちに任せること、さらに神とその恵みの言葉に長老たちを委ねると告げ、一緒に祈り、泣きながら別れをいたしました。

32節に「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」とあります。これが、敬愛する兄弟からの告別の言葉です。83年の御生涯には、涙の日もあったことでしょう。しかし、その信仰によって、今は大いなる祝福をいただいたと信じます。

「子どものように・・・」 仁村真司教師

August 26, 2017

<今週の聖句>

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

(マルコによる福音書10章14~15節)

 

「子どものように・・・」      仁村 真司

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10章15節)は、「子供のようにならなければならない」、「子供のように(例えば、素直に)なって、神の国を受け入れなければ、神の国に入ることはできない」という意味に受け取られていることが多いと思いますが、果たしてそうなのでしょうか・・・。

 マタイ福音書には、イエスが弟子たちに「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言っている所があって(18章3節)、こちらでは明らかに「子供のようになること」が勧められていますがこれと、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ・・・」とでは語られた状況が全く違います。

「心を入れ替えて子供のようにならなければ・・・」は、「いったいだれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」と問うて来た弟子たちへの答えの中で語られた言葉ですが、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ・・・」は、イエスのところに行こうとする子供たちを妨げた弟子たちに対して、イエスが憤って言った言葉です。

今朝は、イエスが子供たちを祝福する、子供たちを普通に、当たり前に、つまり無条件に受け入れる際に言った言葉、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」によってどのようなことが示されているのか考えて行きます。

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