「何を求め、何のために祈るのか」  鈴木貴博牧師(安土教会)

September 02, 2017

<今週の聖句>

 「求めなさい。そうすれば、与えられる」 (マタイ7:7)

「何を求め、何のために祈るのか」  鈴木 貴博

「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」、イエスはこう言って、受け身のままではない、自発的な行動を私たちに促しています。ただ待つのではなく、もっと真摯に求めよということです。そして求めるならば、それは神の恵みとして、人の資格によらず「だれでも」与えられると言っています。

 では、何を求めるべきなのか。普段私たちが求める者は、自分が欲しいと思うものであったり、そうなってほしい事態であったりします。

しかし何が欲しいのか、私たちは本当にわかっているのでしょうか。

 私たちが、「欲しい」と思う物は、たいてい、他人も欲しがっている物ばかりです。つまり他人あってこその欲なのです。私たちの欲とはもともと、他人とつながろうとする本能、他人とコミニュケーションを求めるアンテナのようなものであると言えないでしょうか。そうだとすれば、私たちが「求めるもの」の正体は、物そのもではなく、「他者との関係」という事になります。けれども人間には、他者(あるいは神)との関係に対する根強い不信感があります。誰でも自分の願いが叶えられる事を期待して祈ります。その願いが聞き届けられるかどうか、不信感の中、祈っていることもあるでしょう。

 しかし祈りとは決して、受け身のまま自分の欲を満たす物を待つ行為ではありません。私たちはとかく、与えられる「もの」の方にばかり、目が向きがちですが、イエスが求めなさいと言っているのは単純に「もの」ではなく、「信頼」こそ求めよと言っているのです。

 真の祈りとは神や他者に信頼を置き、自らすすんでそれらとの新しい関係に入り、その関係を広げようと求める自発的な求めです。つまり、「求めなさい」と呼びかける主の声に、私たちが信頼を置いて真摯に応答し、他者との新しい信頼関係を求め続けるならば、その祈りは必ず聞かれるとイエスは言っているのです。私たちは自分のためではなく、他者との新しい関係を求めるために、祈り続けるのです。

「隠されている宝」 深見 祥弘牧師

September 09, 2017

<今週の聖句>

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その

畑を買う。             (マタイによる福音書13章44節)

「隠されている宝」         深見祥弘

 この夏、奈良国立博物館で行われていた「源信1000年忌特別展」を見ました。源信は平安時代の僧で、浄土信仰(死後阿弥陀如来の来迎を受けて、極楽浄土へ生まれることを願う信仰)を広めました。会場には、彼が地獄と極楽について書いた「往生要集」や、「往生要集」を元にして地獄や極楽の世界を描いた仏教美術が数多く展示されていました。

 今朝の御言葉は、マタイによる福音書13章です。イエスは「天の国」のたとえを弟子たちや群衆に話しました。イエスは7つのたとえを話しましたが、その中に「畑に隠された宝のたとえ」「良い真珠のたとえ」「網のたとえ」がありました。すなわち、ある人が畑に隠されている宝を見つけ持ち物を売りはらって畑を買った話、ある商人が良い真珠を探していてこれを見つけ持ち物を売りはらってこれを買った話、そして、漁師が湖に網を投げ、網がいっぱいになると岸に引き上げ、魚の選別をする話です。

このたとえの「宝」、「良い真珠」とはイエス・キリストのこと、またイエスが与える神の命・天の国のことです。「天の国」のたとえが教えるように、私たちは偶然に、また長い求道によりイエスが救い主であることを見出しました。でもこの恵みを見つけたことで満足してはいけません。来るべき日、再臨の主は来られ、主に捕らえられた者を吟味し分けて、悪い者を燃え盛る炉に投げ込まれます。では、正しい者とされるには何が必要なのでしょうか。それは、主に捕らえられた後の私たちの日々にも主の恵みが隠されていることを知り、それを探しだし喜びと驚きを体験することです。私たちは「天の国のことを学んだ学者」(52)です。日々喜びをもって再臨を待ちましょう。

「その一匹のことを喜ぶ」 深見 祥弘牧師

September 16, 2017

<今週の聖句>

そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。         (マタイによる福音書18章14節)

「その一匹のことを喜ぶ」       深見祥弘 

 本日の礼拝は、近江兄弟社高校吹奏楽部の皆さんと守ることになっておりましたが、台風接近のためお出でいただくことができなくなりました。

 今朝の御言葉は、マタイによる福音書18章10~14節「迷い出た羊」のたとえです。イエスは、弟子たちに話をされました。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹もっていて、その一匹が迷い出た時、九十九匹を山に残し捜しに行かないだろうか。」「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」

この話はたとえです。ここに出てくる羊飼いはイエス・キリスト、羊は私たち、山は教会、そして羊の持ち主は父なる神のことです。このたとえが伝えようとしていることは、「人の子(イエス・キリスト)は、失われたものを救うために来た」(11)ということです。父なる神は、私たち一人ひとりを守り、導き、養うためにイエス・キリストを羊飼いとして遣わされたのです。またイエス・キリストは、私たちのために山である教会を与えてくださいました。教会は、父なる神の御心を聞き、イエスの小さき者のための愛の働きを見る場であり、養いの場です。さらに小さき者のために祈り、仕え、小さき者が救われた時、自分のことのように喜ぶ群れのことです。

かつて私も、さまよう一匹の小さな羊でした。しかしキリストはそのような私を捜し、救いに入れて下さいました。そして、今も迷い出た小さな者を捜しに行かれます。なぜなら、この迷い出た「小さな者」の救いが父なる神の御心であるからです。小さき者のためにイエスという御方がおられること、また私たちを守り、導き、養いを与える教会が備えられていることは、私たちにとって大きな喜びであり恵みなのです。

「種をまく人」    仁村 真司教師

September 23, 2017

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