「辱めを受けることは喜び」 深見祥弘牧師

October 06, 2018

今週の聖句>

人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(使徒言行録5章29節)

「辱めを受けることは喜び」       深見祥弘 

本日は、世界聖餐日、世界宣教の日です。私たち日本基督教団は、現在アジア地域、北アメリカ地域、南アメリカ地域、ヨ-ロッパ地域に20名の宣教師を派遣しています。また、各国の教会から派遣された宣教師69名が、日本基督教団の教会や関係学校等で働きをしています。

今朝の御言葉は、使徒言行録5章です。イエスの復活の証人として福音伝道の使命が与えられた弟子たちは、エルサレムでの伝道を開始しました。彼らの教える復活信仰や奇跡によって、信者が増加しましたが、それが原因でユダヤ教当局から迫害を受けても、それに屈することはありませんでした。17節には、「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。」とあります。しかしこの時も、主の天使が牢を開き、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」と命じました。ペトロが再び捕らえられ、最高法院で取り調べを受けた時、「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。」という大祭司の尋問に、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と答えたのです。ファリサイ派のガマリエルの助言もあって、釈放されたペトロたちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、毎日神殿の境内や家々で、ユダヤ人たちによって十字架に架けられたイエスが復活したこと、自分たちが証人であること、またイエスこそ神の救いの計画の成就者・救い主であることを宣べ伝えたのでした。

 宣教者は、人の批判や迫害を恐れていては働きができません。同時にむやみに人や社会と対立しその関係を崩してしまっては、主より委ねられた宣教をすすめることができません。そのために主は、宣教者に「イエスの名のために辱めを受けることを喜び」とする信仰を与えてくださるのです。

「信仰によって」         深見祥弘牧師

October 13, 2018

 <今週の聖句>

信仰によって、モ-セは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。

(ヘブライ人への手紙11章27節)

「信仰によって」         深見祥弘

 ヘブライ人への手紙は、著者や執筆場所は不明ですが、ドミティアヌス帝時代(AD81~96)の迫害の中、ユダヤ人キリスト者にむけて書かれました。手紙というより諸教会で朗読するために書かれた説教と考えられます。

11章1~2節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」とあります。旧約時代の人々は、キリストを見ることもなく、神より救いの約束を与えられただけでした。しかし、人々はこの約束を信じ、将来与えられる救いをすでに得ているかのように行動しました。著者は、旧約時代の信仰者を引用し、「信仰によって」という言葉を18回も用いて、人々の信仰の何が認められたのかを紹介しています。

11章23~28節には、旧約時代の信仰者モ-セについて書かれています。モ-セの両親は、エジプトの王(生まれてくるヘブライ人の男の子を殺せと命令した)を恐れない信仰をもっていました。それは生まれた我が子に美しさ(神の命)を見出していたからです。成人したモ-セは、ファラオの王女の子として生きるのではなく、神の民イスラエルと共に虐待される道を選びました。彼は、信仰によって神の使命に生きる道、キリストと同様のあざけりと忍耐の道を選びました。またモ-セと民は、鴨居に小羊の血を塗り、過ぎ越しの食事をして、王を恐れることなくエジプトを出発しました。モ-セは、信仰によって神の小羊の存在と約束の国を望みていたのです。

私たちは、今、見えない父なる神と見えるものとして現れたイエス・キリストの両方に心を向けることがゆるされています。約束の時代に生きた旧約の人々の信仰に学びつつ、確信をもって今を生きるのです。

「わたしの中に留まりなさい」    仁村 真司教師

October 20, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」   (ヨハネによる福音書15章13~15節)

「わたしの中に留まりなさい」    仁村 真司

 ヨハネ福音書15章には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5章)・「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12節)・「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)等多くの強く印象に残る言葉があり、よく知られているところですが、ヨハネ福音書全体を見て行くと、15章、そして16章・17章が不自然な形で記されていることがわかります。

 14章の終わりでイエスは、「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである」(30節)、「さあ、立て。ここから出かけよう」(31節)と言っています。それなのに、すぐにまた「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15章1節)と語り始めたことになります。そして、これは16章の終わりまで続いて、17章の全体はイエスの祈りになっていますが、その内容は15・16章で語られたことと重なっています。

 おそらく、15章から17章は後から書き加えられたのだと思います。

 「さあ、立て。ここから出かけよう」とは、イエスが自ら、逮捕される場面へと、受難へと向かって行くということです。

 15章から17章を書き記した人たちは、受難へと向かうイエスの言葉、「さあ、立て。ここから出かけよう」(直訳「さあ、立て。外に行こう」)から、同時に「わたしにつながっていなさい」(15章4節、直訳「わたしの中に留まりなさい」)というイエスの声を聞いていたのだと思います。

「良心の共同体」   小原克博教師

October 27, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

 知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

(コリントの信徒への手紙第一 8章1節)

 

「 良心の共同体 」       小原 克博

 偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうか、という食事規定の問題について、パウロは信仰に即して考えなければならなかった。ユダヤ教の宗教的常識に従うなら、信仰者は偶像に供えられた肉を食べてはならないとされていた。他方、クリスチャンにとっては、イエスによって自由にされている以上、偶像に供えられた肉を食べようと何の問題もない。しかし、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(8:13)とパウロが言い切る点に、行為の是非を二者択一的に問うこととは一線を画する、キリスト教倫理の一端を見ることができる。

 それを踏まえた上で「良心」に目を向けてみよう。「彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(8:12)。他者の「良心」を傷つけないという配慮が示されているのは明らかであるが、ここで注目すべきは、分断の危機にさらされている二つの共同体、すなわち、ユダヤ人共同体と異邦人共同体をパウロが「良心」という言葉を用いて、つなぎとめようとしている点である。西洋語の「良心」の原義が「共に知る」であることを、ここで思い起こすことができる。

 従来の伝統を超えた新たに視点に立つことによって、隔てのないイエスの愛を「共に知る」者たちの「良心の共同体」の構築をパウロは目指していると言うこともできるだろう。

【参考文献】同志社大学 良心学研究センター編『良心学入門』(岩波書店)

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