「契約の虹」           深見祥弘牧師

November 03, 2018

<今週の聖句> 

すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。            (創世記9章13節)

「契約の虹」           深見祥弘

 古来カトリック教会は、11月1日を殉教者と聖人を覚える祝日、11月2日を逝去者を記念する祝日としました。プロテスタント教会は、聖人崇拝を廃止しましたが、逝去者を記念することはおこなってきました。私たちの教会でも、11月第一日曜日には永眠者記念礼拝を守っています。

 今朝の御言葉は、旧約聖書・創世記9章です。ここにはノアの箱舟の話が書かれています。ノアは神に従う無垢な人でした。ある時、神はノアに命じられました。箱舟を造って、それにノアの家族とすべての生き物が乗り込むようにと言われたのです。箱舟が完成すると、雨が降り始め、やがて水がその世界を被いました。時が過ぎ、水の引いた世界にノアたちが降りると、神はノアたちとすべての生き物に対して契約をお立てになりました。この契約とは、神は再びこの世界を滅ぼすことをなさらないということでありました。また神は契約のしるしとして虹を置かれたのでした。

 私たちの教会には、ノアの箱舟の出来事を覚えるステンドグラスが設置されています。教会は、神に従う無垢な人イエス・キリストによって造られた箱舟です。神が、悪や死が支配するこの世界に教会を造るように命じられました。神はノアとの間に結んだ契約を完成させるために、「イエス・キリストは主です」と信じる人を誰でも教会に迎え入れ、救いを実現してくださいました。その救いの契約のしるしが、十字架です。

私たちは、近江八幡教会箱舟号に乗り込んで、時代という荒海を渡り御国に降り立った514名の召天者を記念しています。神が、この信仰の先達たちと同様に、ここにいます私たちにも契約の虹と十字架を示し、箱舟なる教会において救いの約束を結ぼうとしていてくださることに感謝いたします。 

「イエスにお目にかかりたいのです」     深見祥弘牧師

November 10, 2018

<今週の聖句>

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12章24節)

「イエスにお目にかかりたいのです」     深見祥弘

 礼拝堂にたくさんの野菜や果物を飾りました。教会の畑に植えたさつまいもは、夏の高温と少雨の影響で例年に比べて小さなサイズになりました。立派に成長し実った野菜や果物を見ると、種を蒔き育て世話をした人々のご苦労を思わされます。今朝は、子どもと大人が一緒に守る収穫感謝礼拝です。

 イエスが、子ろばに乗ってエルサレムに入場された後のことです。ギリシャ人たちが、イエスの弟子フィリポを訪ねてきて、「イエスにお目にかかりたいのです」と願いました。フィリポはアンデレにこれを伝え、イエスにギリシャ人の来訪と願いを話しました。これを聞いたイエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われました。二人は、イエスが神の栄光の実現であるイスラエル王国の樹立を宣言されたと思いましたが、イエスは彼らの期待を否定し、こう言われたのです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

一粒の麦は蒔かれると種の形を失いますが、そこに生じる苗によって多くの実を得ることができます。同じようにイエスは、たとえ十字架にかけられて肉の命を失おうとも、神的な命を得て復活し、主イエスとの交わりをもつすべての人々が救われて命を得、そこに神の栄光があらわされるのです。ギリシャ人たちが「イエスにお目にかかりたい」と願い出た時、この主イエスとの出会いと交わりに、自分たち異邦人も加えてくださいと願ったのでした。

 命は大切です。でも私たちが自分の命のことばかりでなく、他の命のために仕えることができるならば、イエスの命の恵みにあずかり、多くの実りをいただくことができます。「イエスにお目にかかりたいのです」、私たちは、いつもこのような思いで礼拝に出席いたしましょう。

「神が与えてくださるチャンス」  安達隆夫牧師

November 17, 2018

「神が与えてくださるチャンス」    安達隆夫                 ヨブ記33:29~30

 

日本の社会は一度失敗するとなかなか復帰するのが難しいと言われます。あんな失敗をする奴はきっとダメに決まっているといったレッテルを貼られてしまうからです。ひとつの失敗で人生のすべてが決められてしまいます。しかし、神様は憐れみ深いお方であって、私達を救いに導くために、何度もそのチャンスを与えてくださるお方なのです。

 神はいったいどんなお方なのでしょうか。

 

1.神は私たちの罪を忘れてくださる

 神は私達の罪ではなく、私達自身に目を留めてくださいます。そして、何度罪を犯そうとも手を差しのべてくださるお方です。私達の罪を赦し、忘れてくださるお方なのです。

 

 2.神のチャンスは無限大である

神は正しいお方ですが、決して正しい者と罪人を分けて、裁くことが目的ではありません。神の目的は私達の救いなのです。だから、愚かな私達には無限大に救いのチャンスがあるのです。神はあなたをあきらめることはありません。

 

 「神の賜物と召命は取り消されることがありません」(ローマ11:29)。だから、祝福は必ず成就するのです。そのために神は何度も罪人である私達の名を呼び、チャンスをくださるのです。そのチャンスは死ぬまでです。今、生きているかぎり、主に仕え、主に従いましょう。

November 24, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも。求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

                 (マタイによる福音書7章7~8節)

「求めよ、探せ、たたけ」      仁村 真司

 「求めなさい。そうすれば与えられる」というイエスの言葉はマタイ福音書(7章7節)とルカ福音書(11章9節)に全く同じ形で記されていますが、ヨハネ福音書にも(ヨハネ福音書では「求める」ではなく「願う」になっている等言葉遣いや言い回しが違っているので気づきにくいのですが)繰り返し記されています(14章13・14節、15章7節・16節、16章23・24節等)。

 またヨハネ福音書には、他の人がこのイエスの言葉について語っている所があります。マルタ(マリアとラザロの姉妹)はイエスに「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と言っています(11章22節)。

 これは、「イエスが神に願うことは何でも、神はかなえてくださると知っている」ということではなく、「『神に願う(求める)ものを、神はかなえて(与えて)くださる』というイエスの言葉を知っている」ということです。

 この時のマルタはラザロが死んでしまい深い悲しみの中にあります。それでも、ラザロを助けてくださいという切実な願いがかなわなかった「今でも、『神に願うものを神はかなえてくださる』というイエスの言葉を、承知しています、信じています」と言っているということです。マルタにとってこのイエスの言葉を信じるとはどういうことだったのでしょう?

 今朝は、「求めなさい、そうすれば与えられる」というイエス・キリストの言葉を信じる、受け止めるとはどういうことなのか、この言葉によって私たちに何がもたらされているのか考えて行きます。

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