「床を担いで歩きなさい」      深見祥弘先生

February 03, 2018

  <今週の聖句> 

「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。

(マルコによる福音書2章11~12節)

「床を担いで歩きなさい」      深見祥弘

 今朝の御言葉は、マルコによる福音書2章1~12節、イエスが中風の人を癒す話です。この日イエスは、カファルナウムのある家におられ、大勢の人が集まっていました。そこに四人の男が、イエスに中風の人を癒してもらおうと床のまま連れて来ましたが、人々に阻まれて近づくことができません。そこで彼らはその家の屋根をはがして穴をあけ、床ごとこの人をイエスのところにつり降ろしました。イエスは、四人の男の信仰を見て中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。そこには律法学者たちもいて、心の中で「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と思いました。イエスはこの思いを知り、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と命じられました。するとこの人は、すぐに床を担いで、皆の前を出て行ったのでした。

 私たちは、この話から中風の人の苦しみ(病気や罪人と言われる苦しみ)と、この人に与えられる愛(四人の友やイエスの癒しと赦し)を見出すことができます。この人の「床」は、苦しみと愛を表すものです。イエスは癒されたこの人に、「床を担いで家に帰りなさい」と言われました。床は、苦しみだけでなく愛を表すものですから、それを担いで帰り、与えられた愛を家族に証ししなさいと命じられたのです。私たちも苦しみを担うものですが、それと共に愛が与えられています。イエス御自身が苦しみと愛を象徴する床(十字架)を担い、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)と呼び掛けて下さるので、私たちも自らの床を担いで歩くことができるのです。

「ヨナとイエス」         深見祥弘先生

February 10, 2018

 <今週の聖句> 

イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

(マルコによる福音書4章40節)

「ヨナとイエス」         深見祥弘

 2月11日は、私たち日本基督教団の定める「信教の自由を守る日」です。

教区宣教部は教団「戦責告白」50年を覚え、12日、関田寛雄教師(神奈川教区巡回教師)を講師に、宣教セミナ-(洛南教会)を開催いたします。

 今朝の御言葉はヨナ書です。ヨナは北王国イスラエル・ヤロブアム二世の時代に働きをした預言者です。主は、彼にイスラエルの脅威となっている大国アッシリアの都ニネベに行き、悔い改めを告げるよう命じました。ヨナはこの務めを嫌い、タルシシュ行の船に乗り主から逃れようとしました。主が大風を送ると船は沈みそうになりました。この嵐の原因がヨナにあることを知った乗員たちは、ヨナを荒海に投げ込み凪を得ました。ヨナは巨大な魚に飲み込まれ、三日三晩そこにいて陸に吐き出されました。その後、ヨナがニネベで悔い改めを告げると人々は悔い改めたのでした。 もう一つの御言葉はマルコ福音書4章、イエスが突風を静める話です。イエスと弟子たちは、舟で湖の向こう岸ゲラサ人の地に向かう途中嵐に襲われました。弟子たちは、艫の方で眠っておられたイエスを起こし、助けを求めました。イエスが湖に向かって「黙れ。静まれ。」と命じられると凪になり、弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われました。

 教会は、その信仰を脅かされる戦争という荒海を渡る経験をいたしました。戦後、私たちは主の前に悔い改めをなし、赦されて新たな船出をしました。私たちはヨナのように、一度死んで復活したものです。今、この時代の雲行きがどんどんとあやしくなり、恐れを感じます。しかし、教会には一度死に、三日目に復活されたイエスが共にいてくださいますから、恐れることなく、すべてを信じて、平和の宣教を行いながら航海を続けてゆきましょう。

「『命を救う』とは?」      仁村 真司教師

February 17, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

 「そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこでイエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を慈しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと手は元どおりになった。」           (マルコによる福音書3章4~5節)

           「『命を救う』とは?」      仁村 真司

 安息日にイエスが手の萎えた人をいやす物語はマルコ・マタイ・ルカの各福音書にありますが、「安息日に律法で許されているのは・・・命を救うことか、殺すことか」というイエスの突きつけるような鋭い問いかけを記しているのはマルコだけです。マタイやルカではこのようにはなっていません。

 マタイは、これを「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12章11~12節)という「説明」にかえています。これはユダヤ教のラビが律法の解釈を語る際の形式です。このようにすることによって、律法の解釈・実践においてもイエス・キリストに権威があることを示そうとしていると考えられます。

 ルカは「命を救うことか、殺すことか」の「殺すことか」を抽象的な「滅ぼすことか」(6章9節)にしてイエスの問いかけを和らげ、更に腰の曲がった婦人のいやしのエピソードを記し、イエスが安息日にいやしを行った際のユダヤ教指導者たちの反応・態度の変化を通して、「律法の支配」が退き始め「神の支配」・「神の国」が広がって行くことを示そうとしています。

 では、マルコ福音書の「命を救うことか、殺すことか」、このイエスの問いかけによって何が示されているのでしょうか?。

「ちゃんと背負ってくれている」   宇田 慧吾牧師

February 24, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

                      (イザヤ書46章4節)

       「ちゃんと背負ってくれている」   宇田 慧吾牧師

わたしは3年程、近江八幡に住んでいたことがあります。とはいっても実際には3年に満ちず、神学生時代は2年目の途中で信仰生活に挫折して逃げ出しました。2度目に住んだときもやはり途中で逃げ出してしまいました。そんなわたしですが、神さまに導かれてなんとかここまでたどり着いています。神さまの導きは不思議です。そんな不思議な導きを感じられる今日の聖書には大事なポイントが三つ書かれています。

一つ目は「わたしはあなたたちを造った」です。こういうとき、聖書の大前提として、神は良いものとしてすべてのもの、すべての人を造りました。わたしたちは自分や他人やこの世界を良くないものだと思うことがありますが、神は間違いなく良いものとして、この世界を造っています。

でも一方で、わたしたちは信じることができずに苦しみます。良いものだと本当に分かっていたら苦しむ余地なんてないじゃないですか。病気も老いも失恋も欠点も、良いものとして造られていると信じることができたら、それはもう何の苦しみもないですよね。でも、わたしたちが苦しむのは、信じる力がないからです。そこで、二つ目にそういうわたしたちのことを神は「担い、背負う」と言っています。それは上から「信じなさい」と指示するのではなく、信じられなくて苦しんでいるわたしたちを、やさしく担い、背負ってくれるということです。

そして三つ目に、わたしがあなたたちを「救い出す」と宣言しています。担い背負って連れて行ってくれる先は「救い」です。神さまはちゃんと責任をもって最後まで背負って行ってくれます。だから今、どんな不安や苦しみがあったとしても大丈夫です。今も神さまがあなたをちゃんと背負ってくれています。

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