「彼らは皆その杯から飲んだ」     深見祥弘牧師

March 03, 2018

 <今週の聖句>

また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。(マルコによる福音書14章22節)

「彼らは皆その杯から飲んだ」     深見祥弘

 寒かった冬も終わり、春3月を迎えました。ユダヤの過越しの祭りは、

この3月から4月に行われます。

 弟子たちがイエスに「過越しの食事をどこに用意しましょうか」とたずねました。イエスは部屋を用意しておられたので、弟子たちはそこに食事の準備をし、夕方そこで食事をしました。イエスはその席で「あなたがたの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われました。弟子たちが代わる代わる「まさかわたしのことでは」と問うと、イエスは「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者が、それだ。」と言われました。この時、鉢に手を入れていたのは、イスカリオテのユダでありました。イエスはパンを取り、祈り、裂き、与えて「取りなさい。これはわたしの体である。」と言われ、また杯も同様にして「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。弟子たちは皆そのパンを受け取り、その杯から飲みました。最後に、一同は賛美の歌を歌い、オリ-ブ山に出かけました。

 この時、イスカリオテのユダは、イエスの差し出すパンと杯を受け取ったのでしょうか、それとも裏切りを指摘された時、部屋を出て行ったのでしょうか。マルコ・マタイ・ルカ各福音書には、ユダが部屋から出て行ったとは書かれていません。ヨハネ福音書には、イエスはユダにパンを与えたとあり、彼は受け取るとすぐ出て行ったと書かれています。このことは、イエスの十字架の贖いの恵みが、ユダにも与えられ、この時救いの道が備えられたことをあらわしています。神の小羊イエスの贖いの力が及ばない、人の罪はありません。この日、主は私たちのために聖餐の席を用意してくださいました。私たちは、皆パンと杯を受け取り、賛美の歌を歌って、出発いたしましょう。

「若者は亜麻布を捨てて」       深見祥弘牧師

March 10, 2018

 <今週の聖句>

 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

(マルコによる福音書14章51~52節)

「若者は亜麻布を捨てて」       深見祥弘

 今日は3月11日、東日本大震災より7年をむかえました。私たちは、この時、深い悲しみや弱さを負いながら、新しい生活を立ち上げていこうとする方々のおられることを知っています。

 今朝の御言葉は、マルコによる福音書14章43~52節です。イエスは弟子たちと過越しの食事(最後の晩餐)を守り、その席でイスカリオテのユダの裏切りを告げました。食事の後、一行はオリ-ブ山に出かけ、ゲッセマネの園で祈りをささげました。イエスはそこでユダに導かれてきた大祭司の手下たちによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連行されました。イエスが捕らえられると弟子たちはみな、逃げてしまいましたが、素肌に亜麻布をまとった一人の若者が、イエスについて来ていました。人々が、彼を捕らえようとすると、その若者は亜麻布を捨て裸で逃げていったのでした。

 「裸」は、人の弱さをあらわし、「亜麻布」は、人の弱さを被い隠す世の義や権威をあらわします。イエスは十字架にかけられた時、この若者と同じ裸の姿になられました。イエスの遺体は素肌に亜麻布をまとい、死んだすべての人々と同じ姿で墓に葬られました。しかしイエスは3日目に、亜麻布を残して復活し、以後、多くの人々にその姿を現しました。

 この若者は、マルコ福音書の著者であると言われます。彼は十字架のイエスを救い主と信じ、キリストという真の義と権威を身にまとい、新たにされて、主の復活を告げ知らせました。私たちも弱さを被ってきた亜麻布を捨て、キリストの衣をまとい、傷つき悲しむ人々に主の慰めと復活の福音を証ししましょう。なぜなら十字架と復活の主は、この人々の中におられるからです。

「いやしの意味」   仁村真司教師

March 17, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」              (マルコによる福音書1章41~42節)

           「いやしの意味」        仁村 真司

 日本語の聖書では、以前は「らい病」、今は「重い皮膚病」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「ツァーラアス」です。

 この「ツァーラアス」の元々の意味は「打たれた者」、つまり「神に罰せられて、打たれた者」ということです。

 律法はツァーラアス(重い皮膚病)について事細かに、そして厳しく規定しています(旧約聖書レビ記13・14章)。「もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人をアロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れて行く。祭司はその人の皮膚の患部を調べる。幹部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に『あなたは汚れている』と言い渡す」(13章2・3節)。

 そして、「あなたは重い皮膚病である、あなたは汚れている」と言い渡された人は、「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(13章45・46節)。つまり重い皮膚病に罹った人は自らを「死者」とすることを強いられていたということです。

 今朝は、「ツァーラアス(神に罰せられて、打たれた者)」という社会的に死をもたらす病に罹った人がいやされるとはどういうことなのか、そしてイエス・キリストによるいやしの意味、その力について考えて行きます。

「主の十字架を担いだ人」        深見祥弘牧師

March 24, 2018

<今週の聖句>

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。     (マルコによる福音書15章25~26節)

「主の十字架を担いだ人」       深見祥弘

 今日は、棕梠の主日、人々が棕梠の葉を打ち振り「ダビデの子にホサナ(救ってください)」と叫ぶ中、イエスがろばの子に乗りエルサレムに入場されたことを記念する日です。この時イエスは、馬に乗って凱旋する強い王としてではなく、ろばの子に乗る柔和な王としてエルサレムに来られました。

 ろばの子に乗るイエスは、従来の王とまったく違っていました。これまでの王は、自分を救うが他人を救うことなく、また自国を救うのに他国を救いません。しかしイエスは、他人を救っても自分を救わない王であり、疎外されていた罪人や異邦人を救っても、ユダヤの国を救うことはしませんでした。ユダヤの人々は、この十字架に架けられた「ユダヤの王」の姿に衝撃を受け、イエスをこれまでの王の姿に引き下ろそうと、ののしって言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシヤ、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と。

 ゴルゴタへの途中、兵士たちは通りかかったキレネ人シモンに無理やりイエスの十字架を担がせました。後にシモンは、十字架を担ったことを恵みとして信仰に導かれ、妻や二人の息子と共に主の福音(十字架に架けられたイエスこそ真の王であり救い主である)を伝えました。最近、他人に責任を押しつけて保身を図り、自国の利益のみに心を向けて政治や外交を行っている為政者がいます。しかし私たちは、こうした為政者とは全く異なる王、十字架のイエスを知っています。この王は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」と招いておられます。「自分の十字架」とは、主の福音を宣べ伝えることです。私たちは、王なるイエスによってのみ平和と救いが与えられることを信じ、自分の十字架を背負って従いたいものです。

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