「神の恵みによって」         深見祥弘牧師

March 31, 2018

<今週の聖句>

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、・・キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 (コリントの信徒への手紙第一15章3~5節)

「神の恵みによって」         深見祥弘 

イ-スタ-おめでとうございます。主の復活の恵みの中で、新年度の働きを始めることができます幸いを感謝いたします。

 パウロは、紀元54年春、滞在中のエフェソからコリントの信徒に宛てて手紙を書きました。執筆理由の一つは、コリントの信徒の中に「死者の復活などない」と言う者がいると知ったからです。それは、人は肉体の中に霊魂を宿して生きており、死ぬと霊魂は肉体から解放され、宇宙の大霊の中に呑みこまれるというギリシャの考えに影響を受けている人たちでした。パウロは、この手紙の中で、コリントで宣べ伝えた福音をもう一度確認しています。その福音とは、キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと、そして月足らずで生まれたようなパウロ自身にも現れたことです。キリストの死も復活も、神が御計画され(旧約)聖書に予告されたことでありました。パウロは、神がわたしたちの救いために何をしてくださったのか、これが「最も大切なこと」であると言っています。そして、「この神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と述べ、復活のキリストとの出会いと交わりが、自らに新しい命と力を与えてくれていると証をしています。

「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」これはわたしたち一人一人の告白でもあります。神は、わたしたちのためにキリストを十字架に架け、葬り、復活させられました。この大いなる恵みによって、わたしたちは日々新たにされ、来るべき日の復活を確信することができるのです。

「あなたがたに平和があるように」    深見祥弘牧師

April 07, 2018

<今週の聖句>

そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。              (ヨハネによる福音書20章19節)

「あなたがたに平和があるように」    深見祥弘

 復活のイエスは、早朝の墓でマグダラのマリアに現れ、その後、ユダヤ人を恐れて家に身を隠していた弟子たちや、その時いなかったトマスのところにも来られました。マグダラのマリアは、イエスに悪霊を追い出していただいて以来、ずっと主に従っていた女性です。復活のイエスは彼女の後ろに立って「マリア」と名を呼び、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。そして彼女は「わたしは主を見ました」と弟子たちに証言しました。一方弟子たちは十字架のイエスのもとから逃げ出し、ユダヤ人を恐れてある家に身を隠していました。復活のイエスはこの家を訪れ真ん中に立たれ「あなたがたに平和があるように」と言って、弟子たちに聖霊を与え派遣されました。また八日後、家にいなかったトマスにも訪れ、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っていた彼に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。

 マグダラのマリアはこれまでの信仰者たちを、家に集まる弟子たちは現在の信仰者たちを、その時家にいなかったトマスは未来の信仰者たちを象徴しています。復活のイエスは過日、信仰の先達たちの背後にあって名を呼び送り出してくださいました。復活のイエスは現在、教会に集まるわたしたち信者の真ん中に立って平和を与え、宣教へと遣わしてくださいます。さらに復活のイエスは教会に導かれてくる未来の人々の前に立たれ「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と信仰への導きを与えてくださいます。 

 「信仰」は、復活のイエスの存在を信じて送り出されるところに、また「わたしは主を見ました」と証しするところにあります。私たちの信仰は、復活のイエスが共におられるところであるならば、どこにでも存在するのです。

「子羊、羊の門、羊飼い」 仁村真司教師

April 14, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

                  (ヨハネによる福音書10章16節)

          「小羊、羊の門、羊飼い」       仁村 真司

 今朝は、以下の箇所も参照しながら、イエス・キリストが「小羊」、「羊の門」、「羊飼い」であるとはどういうことか考えて行きます。

 食事が終ると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロはイエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。・・・

(ヨハネによる福音書21章15~17節、P211~212)

 その翌日、ヨハネは自分の方へイエスが来られるのを見て言った。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

          (ヨハネによる福音書1章29節、p164)

 朝早くまだ暗い内に、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そしてガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

(マルコによる福音書1章35~39節、P62~63)

「神は愛です」  深見祥弘牧師

April 21, 2018

<今週の聖句>

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

・・・目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。(ヨハネの手紙第一4章19~21節)

「神は愛です」        深見祥弘

 かつてキリシタンは、神の愛と神への愛を「ご大切」、隣人への愛を「大切」と言い表しました。「大切」は、「大イニ切(セチ)ナリ」(こころからそれを欲する)という和語を、室町期に音読みした和製漢語です。人間のために十字架で死んだキリストの無限無償の愛に、実践をもって応える相互愛の翻訳として「ご大切」「大切」が用いられました。(キリシタン文書「サントスの御作業の内抜書」1591)                     

 ヨハネの手紙第一は、1世紀末から2世紀初めに小アジアで書かれました。当時の教会指導者が論敵に対してキリスト教の正統的立場を述べるためです。その立場とは、①肉体をとって来られたイエスは神の子である。②人は自らの罪の告白と、イエスの血による贖いによってのみ罪ゆるされ清められる。③神の愛は兄弟愛によって実現する。この3つです。

 「神は愛です」(4:16)、このみ言葉は、神がまじりもののない愛そのもの(神の子イエス)をもって、私たちを愛してくださったということです。そのイエスはひそかに神の御旨の犠牲になっていると思いながら、義務と責任において十字架の愛を実現してくださったのではありません。「ご大切」にという言葉に表されているように、イエスもまた心から望んでそれをなしてくださいました。また、神の愛が私たちに注がれていることを知らせたのは聖霊です。私たちは聖霊によって「イエスは主である」と信仰を告白するのです。「完全な愛は恐れを締め出します」(4:18)、私たちは神の愛を知ることで終わりの日の救いを確信し、心から兄弟姉妹を愛することができるのです。

 

「弱い時にこそ強い」  深見祥弘牧師

April 28, 2018

<今週の聖句>

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。     (第二コリント12章9節)

「弱いときにこそ強い」       深見祥弘

 礼拝後、私たちは教会総会を開催します。総会で「弱さを分かち合う-信仰の継承と宣教-」を今年度の標語とすること、またコリントの信徒への手紙第二12章9節を年間聖句とすることを提案いたします。私たちは、教会員の減少や高齢化等によりこれまで行ってきたと同じように奉仕することができなくなり、それを「弱さ」と感じています。

コリントの信徒への手紙第二は、使徒パウロによって紀元54~55年頃、エフェソで書かれました。コリントはパウロたちによって伝道が行われた町です。パウロたちが去った後、巡回伝道者たちが訪れ、パウロの使徒性を否定したので、パウロと教会との関係は悪くなりました。パウロは関係回復のためにコリント訪問を計画しましたが、滞在中のエフェソで投獄され訪問できなくなったので、この手紙を書いたのです。パウロは巡回伝道者たちの批判に対し「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と告白します。また思い上がることのないように、主から一つのとげを与えられたことも述べています。しかし同時にパウロは「楽園にまで引き上げられた」体験と、主より「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との言葉をいただいた体験についても書いています。パウロの宣教は苦難に満ちたものでしたが、その苦しみは天の国にむかう苦しみにほかならないことを、信仰と希望をもつて伝えているのです。

 私たちも教会の今を見る時、「弱さ」を感じるものです。しかし私たちは、弱さこそがキリストの力のあらわれる契機となることを知り、主に対する私たちの謙遜と信仰と希望が、これからの働きのために大切であることを学びました。「わたしたちは弱いときにこそ強い」(10節)、これは真実です。

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