「麦が実りました」       深見祥弘牧師

June 02, 2018

<今週の聖句>

ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、

あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

(マタイによる福音書13章8節)

「麦が実りました」       深見祥弘 

今日は、私たちの教会の子どもの日花の日です。礼拝堂に花を飾り、子どもと大人が一緒に礼拝を守ります。この花の一つ一つは、神さまが与えてくださった命の力と、種蒔きやお世話をする人々の働きによって美しく花を咲かせました。礼拝後、教会員のお宅や施設にこの花を届けます。神さまの与えてくださる命や愛をお伝えすることができれば嬉しく思います。

 イエスさまは、湖畔に集まった人々に「種を蒔く人」のたとえを話しました。種を蒔く人が種蒔きをしました。ある種は道端に落ち、鳥が食べました。またある種は石地に落ち、すぐに芽を出しましたが、日が昇ると石が熱くなり枯れてしまいました。ある種は茨の間に落ち、芽を出しましたが、茨にふさがれて実を実らせることはできませんでした。しかしある種は、良い土地に落ちて成長し、思いもかけぬほどに実をつけることができました。

 この話はたとえです。「種を蒔く人」とはイエスさまのことを、「蒔かれた種」とは御言葉(「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」マルコ1:15)のことを、「道端、石地、茨の地、良い土地」とは私たちの生涯をたとえています。私たちの生涯には、外からのものを受け入れることのできない時があります。またかたくなさを隠している時、欲望の芽を秘めている時もあります。でもイエスさまは私たちがどんな状態にあっても、御言葉の種を蒔いてくださいます。「悔い改めて福音を信じなさい」は、これまでの私たちの在り方を方向転換して、イエスを救い主と信じなさい、そうするならばあなた方の思いをはるかにこえる救いの恵みをいただくことができるという事です。実った麦に、神さまの変わらぬ愛を知ることができます。

「祈りの道で振り向いて」       深見祥弘牧師

June 09, 2018

<今週の聖句>

彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。

「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」         (使徒言行録16章18節)

「祈りの道で振り向いて」       深見祥弘 

 パウロ、シラス、ルカ、テモテらは、第二伝道旅行でフィリピを訪れました。パウロたちは町の川岸の祈りの場所で出会った、リディアと家族に洗礼を授けました。このあとパウロたちはリディアの家に滞在し、祈りや伝道に出かけました。ある日のことです。彼らが祈りに向かう途中、占いの霊(未来を予見する力を持つ悪霊)に取りつかれた女奴隷に出会いました。彼女はパウロたちにつきまとって「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と叫びました。これが幾日も続いたので、パウロがたまりかねて振り向き、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」と命じるとそのようになりました。このことでパウロとシラスは、女から利益を得ていた主人たちの訴えによって捕らえられ、投獄される事になりました。

「占いの霊」はパウロたちを町から追い出すことを願い、彼らが祈るときにも叫びました。また「女奴隷」は、悪霊と主人たちからの救いを心から願って叫び続けました。パウロは祈りの場所への道で叫びながらついてくる彼女の方を振り向き、イエス・キリストの名によって救いを与えたのでした。

 ルカ福音書には、ペトロが大祭司の中庭で三度イエスを知らないと誓った時、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」とあります。イエスの振り向きには、愛があり、その愛とは<あなたのことはなんでも知っています、わたしに委ねなさい>ということです。パウロの振り向きはいらだちによるものでしたが、同時にイエス・キリストの愛があなたにもあるようにという願いと「イエス・キリストの名」に全てを委ねるという表明でもあったのです。

「イエスの祈り」        仁村 真司教師

June 16, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

 イエスはある所で祈っておられた。祈りがおわると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこでイエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』」

                  (ルカによる福音書4章1~2節)

            「イエスの祈り」        仁村 真司

 弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願います。これは、「洗礼者ヨハネの弟子たちには定められた祈りがある。わたしたちにも定められた祈りを与えてください」ということです。

 当時のユダヤは強力な宗教支配の社会です。祈りについても事細かに議論されていましたし、多くの定められた形式の祈りがありました。その中に、現代でもユダヤ教の会堂で用いられていて、その基本形はイエスの時代までさかのぼる「カデイシュ(聖められんことを)」という祈りがあります。

 「大いなる御名があがめられ、聖められんことを、御心のままに創造された世界にて。汝らの生涯と汝らの時代において、またイスラエルのすべての家の生命有るうちに、その御国が一刻も早く実現されんことを。(これに対して人々は)アーメン(と唱えよ)。」

 「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように・・・』」と祈り示して行くイエスの念頭に「カデイシュ」等の定められた形式の祈りがあったことは確かです。しかし、イエスは弟子の求めに応じて祈りの形式を定めているのではないと思います。

 イエスが示した祈り、「イエスの祈り」は当時の虐げられている人々、そして今の私たちの心、その中にある一人一人の祈りに結び付いています。

「聞きたいのは福音だ」       深見祥弘牧師

June 23, 2018

<今週の聖句>

神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。            (使徒言行録13章23節)

「聞きたいのは福音だ」       深見祥弘

 牧師を一言でへこませる言葉、それは「○〇牧師の説教に福音がない」です。これを聞くと牧師は、福音が聞かれてないことに打ちのめされ、自らの未熟さと主と会衆に対して申し訳なさを強く感じることになります。このように言う会衆の思いは、一週間の働きを終え疲れている自分たちをさらに礼拝で疲れさせてどうするのだ、聞きたいのは悔い改めを求める言葉や裁きの言葉ではなく自分たちを肯定し励ます言葉・福音なのに。牧師が会衆の求める心地良い言葉を語ることは容易です。しかし、「福音」には悔い改めや裁きの言葉が伴います。イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたように、悔い改めを求めない福音はありません。

  パウロとバルナバは、第一伝道旅行でピシディア州のアンティオキアを訪れました。安息日にパウロは、会堂長より「何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください。」と求められ説教しました。彼が語った「福音」は、①出エジプトからダビデに至るイスラエルの背信と苦難の歴史において、神は人々を見捨てることなく共にいてくださったこと、また②神の約束である救い主イエス・キリストを与えてくださり、死者の中から復活させられたこと、③このイエスを救い主と信じる人はだれでも義とされ救われるのだから、この神の恵みの下に生き続けるように、というものでした。パウロがこの時語った福音には、イスラエルの人々の背信とイエス・キリストを十字架に架けた罪に対する赦しが語られているのです。

 私たちが聞きたい福音と神がわたしたちに聞かせたい福音は違います。神が私たちに聞かせたい福音とは、十字架に死に復活したイエスこそ救い主で、この主を信じる人は誰でも義とされ永遠の命を受けるということなのです。

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