「愛の実践を伴う信仰」        深見祥弘牧師

June 30, 2018

<今週の聖句>

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)

「愛の実践を伴う信仰」        深見祥弘 

 1998年6月30日、日本基督教団京都教区と韓国基督教長老會大田(テジョン)老會は、相互交流のための同意書に調印し、以来宣教協議会や交換プログラムなどの取り組みを行ってきました。交流20周年を迎え、今秋11月23日(金・休)開催の京都教区大会で記念式典が開催されます。

 御言葉は、ガラテヤの信徒への手紙5章です。パウロは第三伝道旅行の途中、エフェソでこの手紙を書きました。パウロたちの伝道によって信仰を得、堅実な信仰生活をしていたガラテヤの人々が、その後訪れた律法主義に立つ伝道者に惑わされ、義とされるためには信仰だけでは不十分で割礼を受ける必要があると考えはじめました。これを知ったパウロは、律法主義者の誘いにのって「割礼を受ける」ならば、「キリストに結ばれた」ことが空しいものになると手紙に書きました。キリストは、異邦人であるが故に律法によっては自らの義を獲得できないガラテヤの人々を愛してくださいました。ガラテヤの人々が、キリストへの信仰によって「互いに仕える」ことを実践するならば、それが小さな業であっても、主は彼らを豊かに育んでくださるのです。

 大田老會と京都教区の相互交流同意書には次のように書かれています。「大田老會は過去の暗く痛ましい韓日関係の歴史を直視し、京都教区は過去に朝鮮半島の植民地化という甚大な罪を犯した日本の国策に加担したことに深い謝罪の念を抱きつつ、ここにイエス・キリストの和解の福音によって新たに兄弟姉妹の交わりを持ち、相互の宣教協力を通じて、この世の正義と平和、愛が溢れる神の国を実現しようと努力する。」

私たちの交流は小さなものですが、主が結んでくださった愛の恵みに感謝して、愛の実践を伴う信仰によって平和の礎を築いてゆきたいと願っています。

「イエスの手」          深見祥弘牧師 

July 07, 2018

<今週の聖句>

そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきて

いやされ、何でもはっきり見えるようになった。

(マルコによる福音書8章25節)

「イエスの手」          深見祥弘 

 今朝の御言葉は、マルコによる福音書8章「ベトサイダで盲人をいやす」物語です。イエスとその一行は、舟でガリラヤ湖を渡り、ベトサイダに来ました。到着すると人々が、一人の盲人を連れてきて、イエスに触れていただきたいと願いました。イエスが盲人の手をとって村の外に連れ出し、その目に唾をつけ両手を置くと、盲人の目はぼんやりと見えるようになりました。そこでイエスが、もう一度両手を目に当てると、今度ははっきりと見えるようになりました。イエスは癒されたこの人に、「この村に入ってはいけない」と言って家に帰しました。

 物語を読み、気になることがありました。イエスが、盲人の癒しに一度失敗しているように思えることです。盲人は、初めの手当てでぼんやりと見えるようになり、二度目の手当てではっきりと見えるようになりました。このように書いているのには、理由があります。弟子たちは、イエスについて無理解でした。主が彼らを導かれたのでぼんやりとわかるようになったのです。ペトロは、「あなたは、メシアです」と告白しますが、そこには本当の理解はありませんでした。そのペトロら弟子たちが、はっきりとイエスのことを理解したのは、復活されたイエスの十字架に傷ついた手を見た時だったのです。 

 イエスは、私たちの手を取って導き、十分に配慮しながら見える者にしてくださいました。イエスのことがぼんやりとしかわからなかった私に手を置いてくださり、御自分が私たちの罪を贖う救い主であることを明らかにしてくださいました。この物語は、イエスの手が私たちの信仰を導いていてくださることを、愛する人々に伝えているのです。

「失われた息子」        仁村 真司教師

July 14, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

 「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」    (ルカによる福音書15章31~32節)

            「失われた息子」        仁村 真司

 ルカ福音書15章は、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言い出した」(1~2節)

という場面でイエスが三つのたとえ話を語るという構成になっています。

 一つ目(4~7節)は百匹の羊の内一匹を見失えば、その一匹を見つけ出すまで捜し回る「失われた羊」のたとえ話です。

 二つ目(8~10節)はドラクメ銀貨十枚を持っている女性が、その内の一枚無くしたら見つかるまで捜す「失われた銀貨」のたとえ話です。

そして、三つ目は「放蕩息子」と呼ばれて来たたとえ話ですが、「放蕩の限りを尽くして」と訳されている所(13節)には、原文ではそこまでの意味合いはなく、「安定を欠く(不安定な)生活をして」ということです。

 また、このたとえ話では、息子は自ら父親の元に戻って来ますが、「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて」(20節)とありますから、見失われていた息子を見つける「失われた息子」のたとえ話と言うことも出来ます。

 ルカ福音書15章では、これら三つの「失われたもの」を見つけるたとえ話が結び付けられ、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)・「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)とあるように、悔い改め・罪の赦しについて示されています。

「共に喜び共に苦しむ」        深見祥弘牧師

July 21, 2018

<今週の聖句>

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

(コリントの信徒への手紙第一12章26節)

「共に喜び共に苦しむ」        深見祥弘

 西日本豪雨は、各地に甚大な被害をもたらしました。この豪雨によって東中国教区、西中国教区、四国教区内の教会と信徒宅、そして私たち京都教区内の教会と信徒宅も被災いたしました。教団社会委員会と兵庫教区長田センタ-から「被災者生活支援募金のお願い」が届いています。全国の教会が、被災された教会や付帯施設、教師・信徒のために祈り、献げ、痛みや苦しみを共にできればと思います。

 今朝の御言葉は、コリントの信徒への手紙第一12章です。ここには、教会はキリストの体であり、私たちはその部分(手、足、目、耳といった肢体)であると述べられています。実際、教会には牧師や信徒が所属しています。教会に属する牧師や信徒は、一つの体になるために、洗礼を受け、神の霊を自分の内に宿すのです。パウロはまず、一つの体にさまざまな賜物をもった肢体があるように、教会にもさまざまな賜物を持つ牧師や信徒がいることを喜んでいます。またパウロは、多様な肢体が互いに互いを必要としていることを教えます。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22)強い肢体は、自分の強さや賜物を顕示することで一つの体に仕えるのではなく、同じ体に連なる弱い肢体に仕えることで、一つの体に仕えることがなされるのです。教会も、そこに連なる牧師・信徒がその賜物を直接教会のために用いて仕えるのではなく、兄弟姉妹にお仕えする、特に弱さや苦しみを覚える兄弟姉妹に仕えることで、キリストの体なる教会にお仕えするのです。今、地震や豪雨災害で苦しみの中にいる兄弟姉妹がいます。この方々にお仕えすることで、キリストの体なる教会にお仕えいたしましょう。

「自分の内に塩を持ちなさい」   深見祥弘牧師

July 28, 2018

 <今週の聖句>

自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

(マルコによる福音書9章50節) 

「自分の内に塩を持ちなさい」     深見祥弘

 猛暑が続きます。血圧が高く医師から塩分を控えめにと言われていますが、熱中症予防で、朝食に梅干一個と味噌汁をいただきます。

 今朝の御言葉は、マルコによる福音書9章42~50節です。イエスは「わたしを信じるこれらの小さな者をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」と言われました。この「小さな者」とは子ども(36)であり、イエスの名を使って悪霊を追い出している者(38)です。イエスは、弟子たちの間で、誰が一番かという議論がなされているのを聞き、言われました。弟子である自分たちが一番と考えて、その他の「わたしを信じるこれらの小さな者」を排除するならば、神の審判を受ける。そして、からだ(イエス)に連なる片方の足(弟子)が、自分こそ一番と言って他の肢体をつまずかせるならその片足を切り捨てなさい、そうでないとからだごと地獄に投げ込まれることになる。地獄では、外からの火と体の内からの蛆によって、苦悶を経験することになると教えられました。

さて49節に「人は皆、火で塩味を付けられる」とあります。この火は、地獄の火ではなく、信仰ゆえの試練の火のことです。この試練の火(塩)は、弟子たちを清めます。弟子たちは、試練によって与えられる火や塩によって、腐敗と誘惑から守られ、イエスを信じる小さな者に平和を与えるのです。

 「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:6)使徒パウロの言葉です。塩で味付けされた神の言葉を宣べ伝えるならば、御言葉は塩によって人々の魂の奥深くにまで浸透し、人々を清め生かします。「イエスを信じる小さな者」である私たちこそ、人々に試練で味付けされた御言葉を宣べ伝え、そして互いに平和に過ごすことができるのではないでしょうか。

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