「キリストはわたしたちの平和」     深見祥弘牧師

August 04, 2018

 <今週の聖句>

こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エフェソの信徒への手紙2章15~16節) 

「キリストはわたしたちの平和」     深見祥弘

 エフェソの信徒への手紙は、「獄中書簡」と呼ばれています。使徒パウロはロ-マの獄中からアジア州エフェソの信徒に手紙を書き、テキコに届けさせました。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(1:23)これが手紙の中心メッセ-ジです。

 エフェソの信徒は、多くが異邦人でした。彼らは以前、神とキリストを知らず救いから遠く離れた者でした。しかし神から遠く離れていたのは、イスラエルの民も同じでした。彼らは強い選民意識を持ちつつ、神と結んだ契約(律法)を守ることができず、キリストを迫害する者だったのです。キリストは、十字架の贖いの死によって彼らを神のもとに導き和解させました。さらにキリストは、イスラエルの民とエフェソの人々の両者を、一人の新しい人に造り上げました。一つの霊に結ばれて神の家族となった人たちは、旧約の預言者たち、そしてエフェソの人々に福音を語った使徒たちを土台にして、聖なる神殿・神の住まいとなるのです。その神の住まいとは、聖なる者たちによって建物全体が組み合わされ、キリストがかなめ石である教会です。

 礼拝で「平和のあいさつ」を実施している教会があります。礼拝出席者が、席の近くの方々と「主の平和」と互いに挨拶し、握手をします。これを行っている伊勢原教会の新井美穂牧師がこう書いていました。「平和のあいさつは、教会が和解の場であることに気づかせてくれます。私たちの罪深さに関係なく、教会は既にキリストの赦しで満ちあふれている場であることに目を開かせてくれます。キリストの平和はキリストご自身が実現してくださる和解と一致であることを知ります。」(「信徒の友」8月号より)

「躍り上がってイエスのところに」  深見祥弘牧師

August 11, 2018

<今週の聖句>

盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところへ来た。

(マルコによる福音書10章50節)

「躍り上がってイエスのところに」     深見祥弘

 イエスと弟子たちが、ガリラヤ地方からユダヤのエルサレムに向かう途中、エリコの町を通過されました。町を出ようとした時、イエスは「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫ぶ声を聞きました。それは道端に座って物乞いをしていた盲人バルティマイの声でした。人々は、イエス様がエルサレムで大切な御用を果たすために急いでおられると思い、彼を黙らせようとしました。しかし、彼は叫び続けたのでした。イエスが立ち止り、「あの男を呼んで来なさい」と言われたので、人々が「お呼びだ」と声をかけました。バルティマイは物乞いをする時に広げていた上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来ました。「何をしてほしいのか」とイエスが問うと、彼は「目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、彼はすぐに見えるようになり、エルサレムに向かうイエスに従ったのでした。

 弟子たちは、イエスがエルサレムでロ-マ軍に勝利し、ダビデ・ソロモンの栄光が回復することを期待していました。イエスが、彼らのために十字架において贖いの死を遂げようとしておられることを知らなかったのです。しかし、バルティマイは、イエスが何のためにエルサレムに向かっておられるのかを知っていて、自分も憐れみの一人にしてほしいと叫びました。イエスが自分を憐れんでくださると知った時、日中は施しを受けるために使い、夜は寒さから身を守るために使っている上着を捨て、躍り上がってイエスのもとに来たのです。イエスが、どのような御方であるのかを見ていたのは、弟子たちではなく、盲人バルティマイでした。イエスが呼んでくださる時、わたしたちも躍り上がって御元にゆけるよう、信仰の目を持ちたいものです。

「『ムナ』のたとえ話」 仁村真司教師

August 18, 2018

< 今 週 の 聖 句 >

 「また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』」

                 (ルカによる福音書19章20~21節)

「『ムナ』のたとえ話」       仁村 真司

 「ムナ」のたとえ話と、大変有名な「タラントン」のたとえ話(マタイ福音書25章14~30節)は、筋書きはよく似ていますが、細かい所はかなり違っています。原文で見ると同じ単語も殆ど使われていません。

 また、12節「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国に旅立つことになった」・14節「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」・27節「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」等によって、「タラント」のたとえ話では語られていない、イエス・キリストは受難・死・復活を経て再びやって来るということ、キリストの再臨についても語られています。

 従って、「タラントン」のたとえ話では僕に大金を預けて度に出る「ある人」とは天の神様のことですが、「ムナ」のたとえ話の「ある立派な家柄の人」はイエス・キリストを現していることになります。

 「ムナ」のたとえ話は、イエス・キリストに否定的な人々、敵対する人々は再臨の時厳しい審判にさらされる(「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」)、イエス・キリストに従って行こうとする人々は再臨までの間イエス・キリストから等しく(一ムナずつ)託された役割(13節「わたしが帰って来るまで、これを商売しなさい」)を担って行かなければならないということを示しています。

「隅の親石となったイエス」   深見祥弘牧師

August 25, 2018

<今週の聖句>

家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。

(マルコによる福音書12章10~11節) 

          「隅の親石となったイエス」   深見祥弘

 ある会社の工場棟起工式の司式をさせていただきました。正面の台に十字架を置き、出席された方々にこんな話をいたしました。「十字架はイエス・キリストを象徴するものです。イエス・キリストは、創造主なる神と私たちをしっかりと結んでくださいます。十字架の縦の棒はそれをあらわしています。また、イエス・キリストは人と人とをしっかりと結んでくださいます。十字架の横の棒はそれをあらわしています。イエス・キリストを土台とするならば、イエス・キリストが神さまと私たちを結び、この建築を神が働いてくださる業として行うことができます。また、イエス・キリストを岩とするならば、イエス・キリストがこの工事に関わるすべての人々をしっかりと結び、これを行うことができます。イエス・キリストは私たちに与えられている志しや力を祝福してくださり、完成へと導いてくださることでしょう。」

 マルコによる福音書12章10節に「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」とあります。これは、旧約聖書・詩編118編22節に記されている預言の言葉です。イエスは「ぶどう園と農夫」のたとえを話される中で、この預言が実現すると言われました。神はイスラエルをつくり、契約(律法)を結んで、指導者たちに委ねました。しかし、イスラエルの指導者たちは神にそむき、遣わされてくる預言者たちを迫害し、神の御子イエスをも捕らえ、十字架に架けて殺し捨ててしまいます。神は、殺され捨てられたイエスを復活させ、イエス・キリストを隅の親石(土台)とする新しいイスラエル(教会)を造り、イエスを信じる人々に委ねられるのです。

 教会は、捨てられたイエスを隅の親石とし、やはり捨てられていた私たちに委ねられ建てられてゆきます。これこそ主の創造の業、救いの恵みです。

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