「出会いの物語のはじまり」      深見祥弘牧師

January 05, 2019

                        

<今週の聖句>

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。   (マタイによる福音書2章11節)

「出会いの物語のはじまり」      深見祥弘

 主の御降誕の恵みの中で、新しい年を迎えることができました。本日1月6日は、公現日です。公現日は、エジプトにおいて1月6日に祝われていた太陽やナイル川の祭りが起源です。2~3世紀、東方教会は、この日にキリストの誕生を祝い、イエスの洗礼とカナの婚礼を記念するようになりました。また4世紀、東西教会の交流が盛んになると、12月25日に主の降誕を祝う西方教会の習慣にならい、1月6日にはイエスの洗礼等を記念するようになりました。西方教会も東方教会の影響を受け、1月6日を全世界に対するキリストの顕現を記念する日として、東方の博士の来訪とイエスの洗礼を記念する日となったのです。

 今朝の御言葉は、マタイによる福音書2章です。御子イエスは、東方の博士たちの来訪と礼拝を受けました。注目は、御子はそのとき「家」におられたと書かれていることです。ヘロデ王の治世は繁栄の時代で、彼は様々な事業を行い、その象徴がエルサレム神殿の大改修でした。王は神殿の庭を2倍に広げ、新に「異邦人の庭」を設けて改宗した異邦人を招きいれました。しかしそこには、尚、異邦人に対する差別がありました。これに対して御子イエスのおられた最も小さな町ベツレヘムの「家」は、東方の博士たちが喜びをもって主を礼拝することのゆるされるところでした。この「家」(オイコス)は、神殿・家族・共同体という意味をもつ言葉です。御子の誕生と東方の博士たちの礼拝は、イスラエルの民と異邦人改宗者によるエルサレム神殿での礼拝の時代が終わり、主の家(教会)での礼拝の時代のはじまりを告げています。家(教会)、ここにまことの出会いの物語がはじまるのです。

「しかし、お言葉ですから」      深見祥弘牧師

January 12, 2019

 <今週の聖句>

これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

(ルカによる福音書5章8節)

「しかし、お言葉ですから」      深見祥弘 

 ルカによる福音書5章は、イエスがペトロに呼びかけて舟に乗り込み、沖に漕ぎ出させて大漁を体験させ、彼を弟子(ヤコブとヨハネも)としたと書いています。それに対してマルコ・マタイ両福音書は、イエスが湖畔にて漁をしていたペトロと兄弟アンデレに、また網の手入れをしていたゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネに声をかけて四人を弟子としたと記しています。ルカによる福音書が、ペトロに焦点を合わせているのはどうしてでしょうか。

 人々が湖畔のイエスのところに、神の言葉を聞こうと押し寄せてきました。イエスは、漁を終え網を洗っていたペトロに舟を出すように願い、舟から人々に教えました。その後イエスは、彼に沖に漕ぎ出して漁をするように言われました。ペトロは、昨晩不漁であったことを伝え、「しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。ペトロが網を降ろすと大漁となり、岸にいたもう一槽の舟の仲間たちに助けを求めました。ペトロはイエスの前にひれ伏し「主よ」と呼びかけ、主に信頼を寄せることなく暮らしてきた自らの罪を告白しました。その時イエスは、ペトロと仲間を弟子とされました。 

 イエスとペトロの乗る舟は、教会です(マタイ16:18~19)。教会は、世に漕ぎ出してみ言葉を語り、その働きによって救いを求める人々を教会へと招きます。また教会は人々を「イエスは主です」との告白へと導き、伝道と奉仕という召命を人々に与えるのです。今、教会の現状は、むなしく網を洗っているようなものかもしれません。しかしイエスは、そんな私たちに呼びかけ、イエスを信頼して「主」と告白し働くならば、大きな喜びと希望が与えられることを示してくださっているのです。

「明らかになるための光」 仁村真司教師

January 19, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」              (ルカによる福音書2章34~35節)

「明らかになるための光」      仁村 真司

 生後間もないイエスが、母マリアとヨセフに連れられてエルサレムの神殿を訪れると、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26節)シメオンという人が、イエスを腕に抱き、神をたたえて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言います(29~30節)。

 32節の「異邦人を照らす啓示の光」は直訳すると「異邦人が明らかになるための光」、「イスラエルの誉れ」(口語訳は「イスラエルの栄光」)は

「イスラエルの栄光のための光」となります。イエスは、異邦人もイスラエルの人々も全ての人々を照らす神からの光であるということです。

 そして、シメオンはマリアへの言葉(34・35節)によって、神からの光イエス・キリストが全ての人々を照らすのは、多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためであり、心にある思いがあらわにされるため(明らかになるため)であることを示します。

 神からの光に照らされて明らかになるのは、本当は神の前でたってはいられない、すぐに倒れてしまう、神から離れてしまう、私たちの弱さです。

 イエス・キリストは、弱い私たちが何度倒れても立ち上がるように、神のもとに立ち返るようにと、一人一人を導き続けるということだと思います。

『「きっと」のいのち』   浅野献一牧師

January 26, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」     (マタイによる福音書13章31~32節)

『「きっと」のいのち』     室町教会 浅野献一

 天(神)の国は、“けしつぶ”ほどの「からし種」を播いた時に起こる事態と同じであると言われます。

その大切な点は、何の価値(いのち)もなさそうな砂ごときものが、屋根も超えるほど大きな木なったとの、驚きの「大きな結末」にあります。最初は小さくとも、“あっ”という間に圧倒的な大きさとなり、天の国=愛の支配する世界は立ち現われる。それは寝座のない者に羽を休める温かな平安の場所さえ与える、と。この世界に何の希望も愛も見いだせないとしても、すでに神の国は始まっている。愛の支配は始められ、それはとどまることを知らず、そして「大きな結末」が待っている。そういう励まし・エールが主イエスによってたとえられます。

もっと決定的な点は、“今”、「一本の木になる」という現在の事柄として語られていることです。「今、現在に」、その神の国=愛の支配は成ると言われる。それは視点の転換です。今現在は、希望や愛が見えない八方塞がりの状態であったとしても、じつは「大きな結末」・愛の完全なる実現が“既に”約束されている。その「大きな結末」の将来から現在を見ると、今の時をなお耐えて生きることが出来るのではないか。現状に窮して、押しつぶされてしまうのではなく、今の時は変えられて「きっと」良くなる。

むしろ痛み、何も見えない時が、今までもわたしの成長には必要ではなかったか。むしろ望み無きうちにこそ、本当のいのちに・愛に出会ったではないか。今、歩み出そう。そう、主イエスは聴くもの一人ひとりに語り掛けて下さってすら、おられることを感じます。

痛みのふちにあり、望みのない中にいる時こそ、『「きっと」のいのち』、愛に出会う時であることを信じます。

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