「抜け目のないやり方」       深見祥弘牧師

October 05, 2019

<今週の聖句> 

主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。

(ルカによる福音書16章8節)

「抜け目のないやり方」       深見祥弘

 近江商人の「三方よし」は、「売り手よし、買い手よし、世間よし」です。

これは、売り手の都合だけで商いをするのでなく、買い手が心から満足し、さらに商いを通して社会の発展や福利の増進に貢献することです。

 み言葉は、ルカによる福音書16章「不正な管理人のたとえ」です。一人の管理人が、主人の財産を無駄使いし解職されそうになりました。管理人は、解職後を考え、主人に負債のある人々を呼び、証文を書き換えさせ、負債の一部を免除しました。これにより、彼は解職後の生活を守ろうとしました。やがて主人がそれを知ると、主人は管理人の「抜け目のないやり方」をほめたのでした。イエスは、このたとえによって弟子たちに何を伝えようとしたのでしょうか。このたとえは難解で、9節~13節は解釈集になっています。

 私はこれが、聖書版「三方よし」の話だと解釈いたします。不正な管理人は、その行動によって自分を守っただけでなく、借り手にも主人にも利を与えています。律法は、同胞から利息をとってはならないと定めていました。しかし主人は、油や麦の借り手に高い利息を科していたのです。この時、管理人は、その利息分を免除しました。それによって、管理人は自分の身を守るとともに、借り手にも利を与え、さらには主人が律法を破って罪を犯すことを防いだのです。8節には「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と書かれていますが、新しい聖書(共同訳)は「この不正な管理人の賢いやり方を褒めた」と訳しています。管理人とは私たちのことです。私たちは主に罪を犯しましたが、主は悔い改めの時を与えてくださいました。ですから私たちもまた「抜け目のないやり方」、すなわち自らの救いだけでなく、隣人の救いを実現し、さらには主にお仕えする生き方ができるのです。

「あえて選んで、信仰に富ませ」     深見 祥弘 牧師

October 12, 2019

<今週の聖句>

神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。

(ヤコブの手紙2章5節) 

「あえて選んで、信仰に富ませ」     深見祥弘

 関西電力の幹部が、元助役や企業から多額の金品を受け取っていたことが明らかになりました。少し前には、福島第一原発事故の当事者である東京電力の幹部に無罪判決が下りました。原発事故により被災した方々が今なお生活の再建に苦労している中で、電力会社の人々は罪に問われず私利を得ている現実に、正しい裁きがなされることを期待します。

 ヤコブの手紙は、広範囲に離散しているユダヤ人たちに宛てて書かれたものです。著者はイエスの兄弟ヤコブではなく、紀元1世紀末シリア周辺で、「教師」と呼ばれた教会指導者です。2章では、教会の中に人を分け隔てする差別があることを指摘しています。例えば、教会の集まりに金持ちが来たら「こちらの席にお掛けください」と言うのに、貧しい人には「あなたはそこに立っていなさい」と言う人々がいたのです。しかし教会には、貧しい人々がたくさん来ました。それは主が、あえて貧しい人々を選び、信仰に富ませ、御国を受け継ぐものとされたからです。イエスはかつて「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)と教えられましたが、その教えが実現しているのです。律法は「弱い者を偏ってかばったり、力ある者にはおもねってはならない。」(レビ19:15)と定めていました。しかしイエスは、あえて貧しい人を偏りかばって憐れみ、信仰に富ませ、神の国を受け継ぐ者としてくださいました。「憐みは裁きに打ち勝つのです。」

 私たちが教会に連ならせていただいているのは、わたしたちを特別に選んで赦し愛してくださる主の憐れみによるものです。主が憐れんでくださったように、私たちも憐れみ深くあって、豊かな信仰をいただきたいものです。

「ためらわないで一緒に行きなさい」 仁村 真司教師

October 19, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

 「そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。」

(使徒言行録11章11~12節)

「 ためらわないで一緒に行きなさい 」   仁村 真司

 使徒言行録10章には、ペトロがカイサリアのコルネリウスという人の所を訪れ、そこに集まっていた人たちに福音を伝え、洗礼を受けるようにと命じた経緯が記されています。

 コルネリウスは「異邦人」でした。エルサレムに戻ったペトロは。「割礼を受けている者たち」から「あなたは割礼を受けていない者(異邦人)たちのところへ行き、一緒に食事をした」と非難されます(2・3節)。

 「割礼を受けている者たち」というのは、ユダヤ人ならみんな(ペトロもパウロも)割礼を受けているのですが、ここでは異邦人と一緒に食事をしない、割礼を受けていない者は受け入れないという選民思想に固執しているユダヤ主義キリスト者のことだと考えられます。

 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明します。(4節以下)。

 ペトロは自分も「異邦人」を受け入れることに抵抗があったこと、「ためらわないで一緒に行きなさい」(「差別せずに一緒に行きなさい」とも訳せます)という“霊”の言葉に促されて行くことにしたこと(12節)など正直に語っていると思います。そして、神は今までユダヤ人が清くない者と見なしていた「異邦人」も、これからは汚れた者とせずに教会の交わりの中に受け入れることを望んでおられるということを伝えます。

 今朝は、使徒言行録10章・11章の物語を通してペトロとはどんな人だったのか考えて行きたいと思っています。

「 喜びの歌をうたいながら 」       飯 謙 先生

October 26, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は……喜びの歌をうたいながら帰ってる」                   (詩編126編6節)

                 「 喜びの歌をうたいながら 」              飯 謙

 「都に上る歌」との表題をもつ詩編120-134編はエルサレム(都)巡礼に用いられた作品群で、かつては独立した歌集であったと考えられてきました。しかし現在ではどの詩編が巡礼のどの段階で歌われたのか分からなくなっています。元来の形態や意図をいろいろと想像しなければなりません。

 詩編126編には内容上のずれが見られます。原文で、1節は完了形で(捕らわれ人を連れ帰ったとき…となった)捕囚解放後、4節は命令形で(連れ帰ってください)、捕囚中と読めるからです。2節(大きな業を成し遂げた)と3節(…成し遂げてください)も同様に感じられます。このずれは恐らく捕囚後の共同体における分断を反映しています。捕囚後、全てのユダヤ人が故郷に帰還したのではありませんでした。経済的・社会的成功などにより、捕囚の地に留まった人が多数いました。作者はそのような心の傷をかかえながらエルサレムに巡礼し、その思いを自分の言葉で投稿したのでしょう。

 5節は聖書学では「祭司的託宣」(他に詩32:8-9, 55:23など)というグループに分類され、祭司による補筆と考えられてきました。この箇所は原文で「涙と共に種を蒔く人たち」と複数形になっています。たぶん困難に耐える努力を推奨する格言だったのでしょう。しかし努力を重ねた人への「頑張れ」は重荷になりかねません。そこで別の人が6節に「泣きながら出て行った人」と単数形で第二の補筆をしました。背景には、自身の苦境に際し重荷を負ってもらった経験がありました。他者に重荷を負ってもらった人が、やがて他者の重荷を負う――主の愛に出会い、互いに愛し合うことへと導かれる。このメッセージを受け止めたく思います。

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