「わたしはこの目であなたの救いを見た」   深見 祥弘牧師

November 02, 2019

<今週の聖句>

主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

(ルカによる福音書2章29~30節) 

「わたしはこの目であなたの救いを見た」   深見祥弘

 教会は、11月第一日曜日を永眠者記念日として、天上の兄弟姉妹を覚えて記念礼拝を行ってきました。本日、私たちは600名の兄弟姉妹を記念して礼拝を守っています。特に昨年の記念礼拝から今日までの間に逝去された4名の兄姉の御霊の平安と、御家族の上に慰めをお祈りいたします。

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(2:29~30)

これは、預言者シメオンの言葉です。彼は主より「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない。」と告げられていました。ある日、幼子を連れた父母が、宮もうでのためにエルサレムの神殿にやってきました。シメオンも神の霊に導かれて神殿の境内に来ました。そしてこの子を見た時、主が告げられたメシヤとはこの幼子だとわかり、腕に抱いて神を賛えました。また、神殿には84歳になる女預言者アンナもいて、幼子が来ると神を賛美し、救いを待ち望んでいる人々に、この幼子こそ救い主であると知らせました。シメオンもアンナも自分たちの生きる目的・使命は、救い主を見出し、神を賛美し、人々に救い主の到来を告げ知らせることでした。

「あえて選んで、信仰に富ませ」     深見 祥弘 牧師

November 09, 2019

                        <今週の聖句>

あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。「刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください」と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりました。

(ルツ記2章6~7節)

「落ち穂拾い」          深見祥弘

 今日は、子どもと大人が一緒に守る収穫感謝合同礼拝です。聖壇には、たくさんの秋の実りを飾りました。ここには、教会学校の子どもたちが植えたサツマイモもあります。でも、台風や豪雨により、東日本の農家の方々は、いよいよ収穫という時にそのすべてを失ってしまうという体験をされました。

 今朝のみ言葉は、旧約聖書ルツ記です。ベツレヘムにエリメレクと妻ナオミ、そして二人の息子が暮らしていました。その地方が飢饉に襲われ、この家族は隣国モアブに逃れました。ナオミはその地で夫を亡くし、モアブの女と結婚した息子たちも亡くなりました。やがて、飢饉が去り、ナオミは故郷に帰ることにしました。嫁のオルパとルツには、実家に戻り新しい生活を始めるように勧めましたが、ルツはナオミと共にベツレヘムに行くことを願い、一緒に帰りました。ちょうど大麦の刈り入れの季節で、ルツは落穂拾いに出かけることにしました。刈り入れの時に落ちた穂は、貧しい人や旅人のものになると法律で決められていたからです。ルツが行ったのは、エリメレクの親戚ボアズの畑でした。ボアズは、落穂を拾う女がナオミについてきたルツであることを知ると、刈り入れをする人々がわざと落ち穂を落とすように、計らいました。こうしてルツは、ボアズの畑の収穫が終わるまでそこにいて、たくさんの落ち穂を持って、ナオミのところに帰ることができたのです。

 神さまからたくさんの実りをいただいた私たちは、台風で被災し絶望的な思いの中にいる人々のために祈り、いただいた恵みを分かちあって支援したいと思います。この愛の業をもって、神様に収穫の感謝を献げましょう。

「 ガリラヤの人イエス 」      仁村 真司教師

November 16, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは。善を行うことか悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。                    (マルコ福音書3章4節)

「 ガリラヤの人イエス 」      仁村 真司

 イエスが安息日に会堂に入ると、そこに片手が麻痺した人がいます。周囲の人々はイエスがこの人をいやせるかどうか、イエス(の力)が本物かどうかではなく、律法によって休息し労働せずに過ごすよう命じられている安息日に、「治療行為」という労働をするかどうかに注目しています。

 イエスは片手が麻痺している人に「真ん中に立ちなさい」と言い、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問いかけますが、人々は黙っています。イエスは怒り、悲しみながら、手を麻痺していた人をいやします。

 ここでのイエスの言動を、今の私たちがそのまま受け入れることは難しいと思います。手の麻痺が、緊急の、一刻を争うような状態であるとは考えられません。安息日にいやすかどうかで「命を救うことか、殺すことか」という二者択一を迫られるようなことではないと思います。イエスの怒りや悲しみがピンと来ない、わからないのではないかと思います。

 今朝はもう一つ、エルサレム神殿でイエスがローマ帝国への税金を納めるべきか否かを問う人々に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えるエピソードについても考えて行きます。(マルコ12章13~17節)。

 イエスはユダヤ教指導者たちに、あなたがたがしていることもローマ帝国がしていることと同じだ、人々の身も心も締め付けて苦しめている、そう言っているのだと思います。ここで示されているのは、「安息日に許されているのは、命を救うことか、殺すことか」と問いかけた時と同じ、イエスが貧しく虐げられていた人々と苦しみ、痛みを共にしていたという事実です。

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