「すべての人が神の救いを仰ぐ」    深見祥弘 牧師

November 30, 2019

<今週の聖句> 

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は

王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。 (イザヤ書52章7節)

「すべての人が神の救いを仰ぐ」    深見祥弘

 先週、フランシスコ・ロ-マ教皇が長崎・広島を訪れ、核兵器廃絶に向けたメッセ-ジを世界に向けて発信しました。広島で教皇は、「平和の巡礼者として、この場所を訪れる義務を感じていた。戦争のため原子力を使用することは犯罪以外の何物でもない。原子力の戦争目的の使用は倫理に反する。・・原爆と核実験、あらゆる紛争の犠牲者の名により、声を合わせて心から叫ぼう。戦争はもういらない。・・こんな苦しみはもういらない。」と訴えました。

 今朝のみ言葉は、イザヤ書52章です。バビロンに捕囚(BC597、587)となったユダの民は、50年を経て祖国への帰還をあきらめていました。そうした中、預言者(第二イザヤ)は神の救済の業として、民に解放と帰還が実現すると告げました。主なる神は捕囚の民にこのように言われます。「あなた方は、立ち上がって塵を払い、首の縄目を解いて備えをしなさい、出立のその日、あなたがたはこの捕囚地においてもわたしが共にいたこと、わたしが神であることを知るようになる。」 さらに預言者は、祖国シオンに告げしらせます。「あなたの神は王となられた。主はシオンに帰られる。主はその民を慰め、エルサレムを贖い、その力を国々の民にあらわされた。地の果てまで、すべての人々がわたしたちの神の救いを仰ぐ。」

 私たちは、この日より主の到来を待ち望むアドベントに入りました。今、核を巡る脅威は増し、世界はとても不安定な状況にあります。しかし平和の到来を確信し、これを告げるために訪れた教皇の声に応えて、私たちも共に喜び歌いたいと思うのです。「長崎・広島よ、汚れた者があなたたちの中に攻め込むことは再び起こらない。主はその民を慰め、この町を贖われた。」

「わたしは荒れ野で叫ぶ声」      深見祥弘 牧師

December 07, 2019

 <今週の聖句>

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシヤではない」と言い表した。

(ヨハネによる福音書1章19~20節)

「わたしは荒れ野で叫ぶ声」       深見祥弘

ヨハネによる福音書は、バプテスマのヨハネについて、光(イエス・キリスト)を証しするために来た、その証しによってすべての人が光を信じるようになるために来たと紹介しています。(1:7) 「証し」(マルチュリア)とは、法廷で用いられる言葉です。事件を目撃した人が喚問され、裁判官の前で問われることをありのままに述べることを言います。

それでは、ヨハネの証しとはどういうものであったのでしょうか。まず、ヨハネの証しは、問われたことに答えるものでした。エルサレムの最高法院は、祭司やレビ人を遣わし、ヨハネに「あなたはどなたですか」と問うと、彼はありのまま証ししました。また、ヨハネの証しは、自己否定の証しでした。彼は祭司やレビ人の問いに、「わたしはメシアではない」「エリヤでも、あの預言者でもない」と答えました。そして、ヨハネの証しは、荒れ野の声でした。祭司やレビ人が「それではいったい、だれなのです」と問うと、彼は預言者イザヤの言葉を用いて「わたしは『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」(イザヤ40:3)と答えました。

 私たちは、再臨の主の到来を前にして、ヨハネと同様「あなたはどなたですか」と世の人に問われています。私たちは、寄り頼むべきは私たちの中にすでにいてくださる救い主イエス・キリストであると確信し、この御方の再臨を告げ知らせる者であることを証ししましょう。主の再臨に伴う最後の審判の時、私たちの中に救い主イエス・キリストがおられ、生きて働いてくださるという信仰によって、私たちは救いへと導かれるのです。

「 神の子の低さ 」      仁村 真司教師

December 14, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も 私を幸いな者と言うでしょう、」

(ルカ福音書1章46~48節)

「 神の子の低さ 」       仁村 真司

 今朝は、伝統的に「マリアの賛歌」と呼ばれている、イエスの母となるマリアが洗礼者ヨハネの母となるエリザベトを訪れた際の出来事について考えて行きます。

 「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです」(48節)は直訳では「はしための低さに 目を留めてくださったたからです」

となります。神はマリアの「低さ」に目を留めたということです。この「低さ」とは、マリアが聖霊によって身ごもっていることではないかと思います。

 ユダヤ教社会では婚約と結婚は法的に同等の効力を有していたので、ヨセフと婚約中の「男の人を知らない」マリアが身ごもれば、それは姦淫・姦通、律法では死刑(石打ちの刑)が定められた重罪を犯した結果と見なされます。

 マリアは聖霊によって身ごもったことによって、社会的に極めて低い位置に置かれたことになります。

 「マリアの賛歌」にはまず、マリアが神から与えられたこの世での「低さ」を自らの低さ、「はしための低さ」として受け入れたことが示されています。

 マリアが受け入れた「はしための低さ」を通して、神は恵みによりイエスを神の子としてこの世に遣わします。

 そしてまた、「マリアの賛歌」には私たち一人一人が、この世の低さに生まれ、この世での低さを生き、十字架へと歩んだイエスを、神の子として受け入れ、神に、イエス・キリストに本当の意味で従って行くことが出来る、その可能性が示されていると思います。

「光は闇の中で輝いている」    深見祥弘 牧師

December 21, 2019

<今週の聖句>

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。

それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

(ヨハネによる福音書1章14節)

「光は暗闇の中で輝いている」      深見祥弘 

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。

嬉しいご挨拶をいたしましたが、私たちはこのように喜んでよいのだろうかとも思います。なぜなら、台風で被災し思うように生活の再建ができないでいる方々がおられることを知っていますし、私たちの国と隣国との関係も悪化したままです。しかし、それにもかかわらず「クリスマスおめでとうございます。」と挨拶をいたしました。それは、私たちが今朝「光は暗闇の中で輝いている。」(1:5)との御言葉を聞いたからです。

 ヨハネによる福音書1章には、御子イエス・キリストに対する信仰告白が書かれています。ここに「言」という表現が出てきますが、これはイエス・キリストをあらわす言葉です。その信仰告白とは、まずイエス・キリストが、父なる神と同質であり、天地創造の業に参与されたお方ということです。二つ目にイエス・キリストは、人間を照らす光として人の罪をあらわにすると共に命であり、この方を救い主と信じる人に命を与えてくださることです。そして、イエス・キリストは、暗闇に住む人々のところに人間と同じ姿をとって来て下さり、十字架に架けられ裁きを受けることで、神と人の間に和解を、また人と人の間に平和を与えるお方であるという告白なのです。

 イエス・キリストは、被災された方々と私たちとの間に宿られます。またイエス・キリストは私たちと隣国の人々との間に宿られます。父なる神は、互いの救いを求める祈りを聞き、光を与えてくださるのです。天地創造において働きをされた神とキリストと聖霊が、今ここに、新しい天地創造の業を始められます。「クリスマスおめでとう」と心から挨拶いたしましょう。

「神の子とされて」 深見祥弘 牧師

December 28, 2019

 <今週の聖句>

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。            (ガラテヤの信徒への手紙3章26~27節)

「神の子とされて」        深見祥弘

 12月24日、一人の兄弟が洗礼をお受けになられ、兄弟もご家族も大きな喜びに包まれました。この日、御子イエスは兄弟のところを訪れ、兄弟が愛する人々の信仰によって神の子としてくださいました。

 今朝のみ言葉は、ガラテヤの信徒への手紙3章~4章です。パウロは第三伝道旅行中、エフェソでこの手紙を書きました。パウロが伝道したガラテヤの教会に、人間は信仰だけでは不十分で律法をも大切にしなければ救われないと主張する人々が来て、信徒たちを惑わしていると聞いたからです。パウロは、この手紙で、ガラテヤの人々を正しい信仰に引き戻そうとしました。

 ガラテヤの人々は、過日、洗礼を受けました。それまでは、律法の支配下に、また諸霊の奴隷となっていましたが、神がアブラハムに約束されていたことが実現し、神の子とされたのです。アブラハムに与えられた約束とは、時が満ちると神が女から御子を生まれさせ、律法や諸霊から人々を救い出し、神の子としてくださることでした。この御子の誕生によって、人々は御子の霊を与えられ、「アッバ、父よ」と呼びかけて祈ることができるようになったのです。このことによって人々は、神の子とされ、また、神の恵みの相続人とされたのです。しかし、パウロは、再び律法の支配に戻ろうとするガラテヤの人々に対し、御子の恵みである神の子であることを手放し、再び奴隷の生活に戻るのかと問うているのです。

 御子の誕生の恵みは、「アッバ、父よ」と呼ばせてくださる御子の霊が与えられることです。私たちは、御子の霊によって父なる神を呼び、神の子の恵みを享受いたしましょう。来る年が、恵み豊かな日々であることを祈ります。

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