「交わりの食卓」      深見祥弘牧師

February 02, 2019

                        

<今週の聖句>

そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」    (ルカによる福音書5章34節)

「交わりの食卓」         深見祥弘

 想像してみてください。わたしたちは結婚式の披露宴に出席しています。乾杯の後、料理が次々に運ばれてきます。ところが、あるテ-ブルの人たちは、グラスにも料理にも手をつけません。そればかりか、彼らは他の客に「わたしたちは断食しているのに、なぜあなたたちは飲んだり食べたりするのか」と言って、新郎・新婦のいるこの喜びの宴席を空しくしています。

 ルカによる福音書5章には、これによく似た出来事が書かれています。イエスが収税所に座っていたレビに「わたしに従いなさい」呼びかけると、彼はすべてを捨てて立ち上がり、イエスの弟子になりました。レビはイエスに対する感謝の思いをもって宴会を催し、また仲間である徴税人や罪人たちを招きました。さらにこの宴会にはファリサイ派や律法学者たちもおりましたが、イエスもレビも彼らを拒みませんでした。しかし彼らの目的はイエスの正悪を見極めるためでありましたから、レビの用意した食事に手をつけることはしませんでした。さらに人々がイエスの弟子に「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人らと飲んだり食べたりするのか。」と問うと、イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と答えられました。またイエスは「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならない」とも答えられました。

 私たちは「わたしに従いなさい」とイエスより呼びかけていただいて、この家(教会)に来ました。ここにはイエスよりいただいた救いを感謝する、交わりの食卓があります。私たちは古いままの自分ではなく、御言葉によって新たにされた時、この主イエスの恵み(永遠の命)に満たされるのです。

「安息日に心をとめよ」      深見祥弘牧師

February 09, 2019

<今週の聖句>

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。                (出エジプト記20章2節)

「安息日を心に留めよ」       深見祥弘

 ジェイムズ・ウォ-トンは、イエスを「十戒の人」と呼びました。イエスは十戒を守り、また私たちにどのようにして十戒に従うのかを教えています。

 十戒は、まず神ご自身がどのような御方であるのかを示します。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」神は、愛をもってエジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民を解放されました。十戒はこの神の愛が先行し、人は戒めを守るごとに神の愛を覚えるのです。これこそ神が人々に十戒を与えた理由です。第一の戒めから第四の戒めは、神と人との関係について教えています。この戒めは、人々が神に創られ救われた者であること、そして愛されている者であることを示しています。ですからこの四つの戒めは、神の愛に対する応答として守られるのです。次に第五の戒めから第十の戒めは、人と人の関係を教えています。神に創られ救われ愛される人は、何人もこの神の愛を空しくすることはゆるされません。この戒めは人と人が互いに愛し合うことによって守られるのです。

 ルターは、十戒の中にイエスの声を聞くことができると述べました。(教理問答)イエスは人を愛する時、盗んだり偽証したりしないことにとどまらず、下着を求めるものには上着を与え、敵をも愛するように教えられました。そればかりか、御自分を十字架にささげることで、人々に神の深い愛をお示しになられました。そのようにしてイエスは、父なる神を愛し、全ての人を救いに導きたいという神の御意志に従い、十字架によって敵をも愛されたのです。私たちは、「十戒の人」イエスを愛することで、「十戒」の教える神を愛し、人を愛することができます。それは、強いられてではなく、主イエスの愛に押し出されてできることなのです。

「 心の中に保っていた 」       仁村 真司教師

February 16, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

 「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた」

                 (ルカによる福音書2章50~51節)

         「 心の中に保っていた 」       仁村 真司

 「私イスラエル人トマスは異邦のすべての兄弟に、私達の主イエス・キリストの幼児の頃のこと、またその大いなる業、イエスが私達の国に生まれて行ったすべてのことを語らなくてはならないと思います。・・・」

 これは聖書には入っていない「外典」、「トマスによるイエスの幼児物語」という文書の冒頭です。

 これにはイエスが五歳の時から、聖書の中ではルカ福音書だけが伝えているイエスが十二歳の時の神殿での出来事までが記されていますが、ルカ福音書の「(マリアとヨセフが神殿で学者たちの話を聞いたり質問しているイエスを見つけた時)聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」(2章47節)という所が、「幼児物語」では「みなが注意を向けて、どうして子供でありながら律法の要点や預言者たちの比喩を解釈し、長老たちや民の教師たちの口をつぐませたりできるのか驚いていた」となっています。

 十二歳のイエスが長老たちや教師たちの口をつぐませて周りの人を驚かせたということですから、賢い受け答えで驚かせたというルカ福音書が伝えていることとは幾分(随分?)意味合いが違うようです。

 今朝は、「トマスによるイエスの幼児物語」という大変面白い(と私は思います)文書も見ながら、ルカ福音書が伝えている十二歳のエルサレムの神殿でのイエスについて、そしてその後の両親に仕えて暮らしたナザレでのイエスも、イエスの一切のことを「心に納めていた」(2章51節、直訳「心の中に保っていた」)母マリアについて考えて行きます。

「もう少し経ったなら」       安部 勉教師

February 23, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

 今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと

会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。

                 (ヨハネによる福音書16章22節)

           「もう少し経ったなら」       安部 勉

誰もが「出会い」と「別れ」があることを知っています。しかし「その時」が差し迫るまで「出会い」も「別れ」も他人事ではないでしょうか。

 自ら他の場所へ、時に天の国に旅立つ人、別れて行く人、今までの歩みを振り返る中、いろいろな思い出が蘇り、別れの現実を前に寂しさ切なさが募ります。でも送り出す者にとってその切なさ、寂しさに共感することはできません。

 イエスは十字架の死を前に弟子たちへ「別れ」を告げました。イエス自身、死と別れ、苦しみや神にさえ聞き入れてもらえないとの思いの中にあって弟子たちに「希望」を語りました。それは「心から喜ぶ時がくる」と。それは復活と再会、永遠の命の確信の時。

 聖書では弟子たちの戸惑い、イエスと別れる時が来ることを受け止められない様子が伝わります。イエスの思いとの違いに「切なさ」を覚えます。

 私達はいつもこの「切なさ」の中にあります。後に「わかってあげられなかった」と後悔を覚える者です。しかし、旅立つ者が「悲しみが喜びにかわる」と告げてくださったならば。

 イエスとの別れに直面し、後悔、失望、自らの価値観の喪失、弟子にとって過去を悔やむ者であったでしょう。しかしイエスは「今」に向き合うように、そして永遠の命、主の復活の栄光の日が来るとの確信を示されました。

悲しみや寂しさを尊び、大切にしたいと願います。悲しみの中に優しさ、共感を見出すことができますように。未来を語ることが慰めではありません。今、この時の思いを尊ぶ中に、そして主が示した希望があるとの言葉に信頼する中に今この時を歩めますように。

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