「神への向き合い方」     深見祥弘牧師

March 02, 2019

                        

<今週の聖句>

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

(ルカによる福音書18章13節)

「神への向き合い方」        深見祥弘

 イエスは、エルサレムへ向かう道中、自分が正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に、たとえを話しました。そのたとえは「ファリサイ派の人と徴税人」の話です。ある時、ファリサイ派の人と徴税人が祈るために神殿にきました。ファリサイ派の人は聖所に近い「ユダヤ人の庭」に入り「神様、わたしは・・徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。徴税人は聖所から遠い「異邦人の庭」に入り、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。イエスはうぬぼれ見下す人々に対し、義とされたのは徴税人である、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と教えられました。

 「徴税人は遠くに立って」(13)と書かれています。徴税人はユダヤ人でありながら、支配国ロ-マに納める税の徴収を仕事にしていたので、人々から差別されていました。ですから神殿で祈る時も、彼はユダヤ人でありながら聖所から遠い「異邦人の庭」で祈らざるをえなかったのです。しかし、聖所から遠くに立ちながら、彼はただ神にのみ心を注ぎ、憐みを求める祈りを献げました。聖所におられる神は、遠くで胸を打って祈る彼のもとに神の子イエスを遣わし、救いの恵みを与えたのでした。

 「へりくだる者は高められる」(14)、イエスは神の子でありながら自らを低くして私たちのところに来て下さり、十字架の死によって私たちの罪を滅ぼし、ただ救い主イエスを信じる信仰によって救いへとまねいてくださいます。私たちは、ともにいて下さる救い主イエスに、憐みを祈りましょう。

「人は何によって生きるのか」      深見祥弘牧師

March 09, 2019

 <今週の聖句>

イエスは「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」とお答えになった。                (ルカによる福音書4章4節) 

「人は何によって生きるのか」      深見祥弘

 日本基督教団石巻栄光教会より便りが届きました。「石巻栄光教会は、132年前に設立され、110年前の飢饉、70年前の戦争、そして8年前の震災をくぐり抜けながら、今日も活動を続けています。とりわけ震災において石巻は、3200名を超える死者・行方不明者を数えました。教会も津波で浸水しましたが、全国からの支援を得て、発災直後から被災者に寄り添う活動を行うことができました。しかし教会の建てられている地域は、津波浸水地域のため人口の流出を生じ、2018年3月「栄光幼稚園」を廃園いたしました。教会は新たな形で地域に仕えることを祈っておりましたところ、(社福)牧人会が呼応してくださり、旧幼稚園舎を用いて発達面で支援を必要とする幼児・児童と家庭に仕える「栄光まきびと園」の働きを始めることができました。この働きのために皆さまの温かいお心を賜れば誠に幸いに存じます。」

 イエスは、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた後、霊に導かれて荒れ野に行き、40日間悪魔の誘惑を経験しました。それは、かつてイスラエルの民が、奴隷であったエジプトを脱出し、紅海を渡り(水をくぐり抜け)、40年間の荒れ野の旅の中で誘惑を経験し、罪を犯しながらも赦され、約束の地に到着したことを追体験するためでした。イエスは、悪魔の3つの誘惑を、かつてイスラエルの人々に語られた神の言葉によって退けました。ルカ福音書4章は、イエスこそ私たちを誘惑や試練から守り約束の地に導く救い主、この御方と共に歩む旅こそ私たちが生きるということと教えているのです。

 石巻栄光教会は、水をくぐり抜け、多くの試練の中、イエスの言葉に生かされ、人々の支援に励まされ、新しい歩みを始めておられます。「人は何によって生きるのか」、人はイエスの御言葉と罪の赦しによって生きるのです。

「どんな罪も赦される」       仁村 真司教師

March 16, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

 「同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」           (マルコによる福音書3章26~28節)

          「どんな罪も赦される」       仁村 真司

 イエスが、病いを癒したり悪霊を追い出すことについて、「ベルゼブルに取りつかれている」・「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」等と言う人たちにたとえを用いて語る「ベルゼブル論争」は、マルコ・マタイ(12章22-32節)・ルカ(11章14-22節)の三つの福音書に記されていますが、マルコ福音書の記述にははっきりとした特徴があります。

 「論争」の前に「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(3章21節)とあります。また「論争」の後には「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(31節)とあります。

 31節は21節の続きで、イエスの母と兄弟たちは、取り押さえることは出来なくても、何とか説得してイエスを止めようとしたのかもしれません。

 ともかく、マルコ福音書の「ベルゼブル論争」は、イエスの身内とイエスの母と兄弟たち、つまりイエスの家族の話に挟まれていることになります。

 このような記述の仕方はマルコ福音書によく見られ、二つの話を一つの物語とすることによって二つの話の(3章20節―35節では「ベルゼブル論争」と家族の話の)共通する要素を強調しょうとしていると考えられます。

 今朝は、「ベルゼブル論争」を、家族の話に挟まれた、家族の話と一続きの物語として捉えて、この物語によって何が示されているのか考えて行きます。

「神の言葉はつながれていません」    深見祥弘牧師

March 23, 2019

 <今週の聖句>

次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」      (テモテへの手紙第二2章11節)

「神の言葉はつながれていません」    深見祥弘 

 今、徴用工や従軍慰安婦の問題などで韓国と私たちの国の関係が悪くなっています。私たちの国はこうした問題を解決済みとしますし、韓国はまだ解決していないと主張します。わたしはこうした状況に心を痛める一人です。最近出版されたエマニュエル・カトンゴレ、クリス・ライス著「すべてのものとの和解」(教団出版局)に次のような言葉をみいだしました。「神は教会に『新しいわたしたち』(New We)を与えてくださるのです。そして今、このわたしたちの時代にも、教会に『新しいわたしたち』を与えようとしておられます-国家と国家、集団と集団、文化と文化、過去の痛みや不正義によって分断した、人と人とのあいだの分断を食い止めようと模索する『新しいわたしたち』を。」「悔い改めをまっとうするとは、共に生きることなのです。」

 パウロは、獄から弟子のテモテに手紙を書きました。その内容はこうです。わたしたちの福音は、イエス・キリストがダビデの子孫で、死者の中から復活されたこと、すなわちわたしたちの歴史の中に生き、わたしたちのために苦難を担って死に、復活されたことです。今、わたしは鎖につながれていますが、復活されたイエス・キリストの言葉(福音)は、つながれることはなく、時代や場所などあらゆる障壁を超えて働き、選ばれた人々に救いを与えています。わたしたちがキリストの名による洗礼を受け、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」と賛美するなら、救いと栄光をいただくことができるのです。(11~13節洗礼の讃美歌)       神は、この神の言葉(福音)により韓国と日本の教会に「新しいわたしたち」を創り出してくださいます。教会が、キリストと共に死に、共に生きることで悔い改めを全うし、「新しいわたしたち」に導かれることを信じます。

「主の霊のおられるところには」  深見祥弘牧師

March 30, 2019

 <今週の聖句>

ここでいう主とは、霊のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。             (コリントの信徒への手紙二3章17節)

「主の霊のおられるところには」     深見祥弘

 皆さんは、聖霊なる神をどのような御方と受け止めておられるでしょうか。聖書は、主なる神、主イエス・キリスト、主の霊、この三つはいずれも主であり、父なる神とキリストと聖霊とが、同質であると告白しています。

 コリントの信徒への手紙第二の差出人はパウロとテモテであり、受取人はコリント教会とアカイア州に住む聖なる者たちです。パウロたちは、第二伝道旅行でコリントを訪れ、第三伝道旅行で再び訪問するまでの間に、コリント教会に何通かの手紙を書きました。理由は、パウロたちが去った後、ユダヤ人キリスト者である巡回伝道者たちが来て、律法を重んじる教えをし、コリント教会が彼らの教えに影響を受けたからです。

コリント第二2章14節~7章4節は、その手紙の一つです。この手紙でパウロは、自身が寄って立つキリストによる新しい契約と巡回伝道者たちが寄って立つ古い契約を対比します。古い契約(律法)は神によって与えられたもので、それには輝きがあった。しかしキリストがもたらした輝き(霊)に比べれば、それは弱々しい。パウロはコリント教会の人々に、主の霊の働きによって主なる神に立ち返り、キリストを主と告白し、自由と栄光をあらわすものとなってほしいとよびかけています。 

主の霊とは、どのような御方なのでしょうか。主なる霊の大いなる働きは、過去のキリストの出来事を、わたしたちの出来事とすることです。主の霊が、私の内に宿るならば私を「イエスは主である」(Ⅰコリント12:3)との告白に導きますし、信じる人々に降るならば教会をつくります。さらに主の霊は、私たちに使命を与えて宣教へと送り出します。主の霊のおられるところには、主の自由な働きと私たちに対する大いなる恵みを見出すことができます。

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