「一緒に喜ぶ」  深見祥弘牧師

July 06, 2019

<今週の聖句>

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。 (ルカによる福音書15章1~10節)

「一緒に喜ぶ」          深見祥弘

 私たちは、礼拝に集い、御言葉を聞き、聖餐を共にいたします。ルカによる福音書15章は、礼拝の恵みと喜びを私たちに教えています。

 イエスの話を聞こうと徴税人や罪人がやってきました。イエスは、この人たちを迎え入れて救いの福音を語り、一緒に食事をしました。しかしファリサイ派や律法学者たちはこれを見て、「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしました。そこでイエスは、ファリサイ派や律法学者たちに対しこんな話をしました。それは「見失った羊」のたとえ話でした。

「百匹の羊をもつ人がいて、一匹がいなくなると、九十九匹を野原に残し、この一匹を捜し回らないだろうか。そして見つかると、この人は喜び羊を肩に担いで家に帰り、友達や近所の人たちを呼んで、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」イエスは、このように罪人が悔い改めるならば、人々が一緒に喜び、さらに天においても大きな喜びがあると話されました。(他に「無くした銀貨」「放蕩息子」のたとえも話された)

 私たちは礼拝に集まりました。私たちはイエスの羊ですが、元はイエスの話を聞こうとしてやってきた罪人でした。イエスは、罪人である私たちに救いの福音を語り、聖餐を備えてくださいました。また私たちは、イエスの群れから迷い出た羊でした。イエスは、私たちを捜し回り、見つけた時には喜び、担いでかえって群れと一緒に喜んでくださいました。さらに私たちは、イエスの傍にいても話を聞こうともせず、不平を言う罪人でありました。イエスは、そんな私たちにも根気よく語りかけ、悔い改めに導いてくださいました。このように主は、罪人の回復を共に喜ぶ礼拝を備えてくださるのです。

「ためらわないで」      深見祥弘牧師

July 13, 2019

<今週の聖句>

すると、霊がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。

(使徒言行録11章12節)

「ためらわないで」         深見祥弘

 使徒たちの語る福音は、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、シリア、そしてロ-マへと広がります。その広がりの原点は、カイサリアに駐留していたロ-マの百人隊長コルネリウスの回心の出来事にあります。

 ペトロは、ヤッファのシモンの家に滞在していました。ペトロが屋上で祈っていると、天から獣や鳥の入った入れ物が下りてきて、「食べなさい」と声がしました。ペトロは宗教上汚れているとされる動物が入っていたので拒否をすると、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と声がありました。ちょうどこの時、百人隊長の使いがこの家を訪れました。神を畏れる人コルネリウスが祈っていると、「ヤッファのペトロを招きなさい」との声を聞いたので、迎えを送ったのです。ペトロは「ためらわないで一緒に出発しなさい」との霊の声にうながされ、ヤッファ教会の人たちと一緒にコルネリウスの家を訪れました。ペトロは、集まっていた人々に「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と説教をすると、一同に聖霊が降り、ペトロは彼らに洗礼を授けました。この出来事を聞いたエルサレム教会の人々は、衝撃を受けました。ペトロはエルサレムを訪れ、この伝道は、神の計画であることを報告しました。すると人びとは、「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と神を賛美したのです。

 今朝のメッセ-ジは、神がユダヤ人と異邦人の壁を取り除かれたことです。この恵みを覚えながら私たちは「あなたがたは出て行って主イエス・キリストを証ししなさい」と祝祷をいただき、「ためらわないで行きなさい」と励ましてくださる霊の言葉を受けて、それぞれの場に出発いたしましょう。

「 ステファノ(前編)」        仁村 真司 教師

July 20, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

 「わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を換えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。    (使徒言行録6章14~15節)

            「 ステファノ(前編)」        仁村 真司

 ステファノはキリスト教最初の殉教者として知られていますが、ステファノとはどのような人だったのでしょうか。

 「そのころ弟子(キリスト教信者)の数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のこと(食事の供給)で、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」(使徒言行録6章1節)とあります。「ギリシャ語を話すユダヤ人」というのはギリシャ語を第一言語、母語とするユダヤ人のことです。

 十二使徒たち「ヘブライ語(アラム後)を話すユダヤ人」とは生まれ育った環境や考え方・感じ方・物事の捉え方等がかなり違う「ギリシャ語を話すユダヤ人」がエルサレムのキリスト教会の出発点に近い段階で既に一定数いて、増えて行くキリスト教信者の中にも多く含まれていたようです。

 「ギリシャ語を話すユダヤ人」から出された苦情に応えてやもめの食事の世話を任されることになったステファノたち七人(2~6節)も殆ど、あるいは全て「ギリシャ語を話すユダヤ人」です。やもめの食事の世話(生活支援)を教会の中で中心となって担っていたのは「ギリシャ語を話すユダヤ人」たちであったと考えられます。

 また、この他にも「ギリシャ語を話ユダヤ人」の働きを窺い知ることが出来る記述が使徒言行録の中には沢山あります。

 今朝は、ステファノを含む「ギリシャ語を話すユダヤ人」たちが、キリスト教の確立、その急速な広がりにおいて果たした役割を見て行きます。

「主が油を注がれた方」    深見祥弘牧師 

July 27, 2019

<今週の聖句>

彼は主が油を注がれた方なのだ。     (サムエル記上24章7節) 

「主が油を注がれた方」       深見祥弘

 御言葉は旧約聖書サムエル記上24章、エン・ゲディでのサウルとダビデの出来事が書かれています。今から3千年程前のこと、サウルは任職の印である油を注がれてイスラエル初代の王となりました。以来彼は外敵を退けるなどめざましい働きをしましたが、それとともに主の命令に従わなくなりました。これを見た主は、預言者サムエルをベツレヘムのエッサイのところに遣わしました。サムエルはダビデを見出し、主の命に従って彼に油を注ぎました。これ以後、主の霊はダビデに臨むようになり、サウルは、ダビデを追跡して命を狙うようになりました。 ある時、ダビデと部下がエン・ゲディの洞窟に身を隠していると、3千の兵と共に追跡してきたサウルが、用を足すため一人洞窟に入ってきました。部下がサウルを殺す好機と進言すると、ダビデはそれを止めました。それは、サウルが主より油を注がれた者であり、裁きは主がなさることであるとの思いがあったからです。ダビデは王に近づき衣の端を切り取り、洞窟の外に出た王にそれを示しながらひれ伏し声をかけました。「わたしの手には悪事も反逆もありません。」サウルはそれを見て泣き、「お前はわたしに善意をもって対した。」と悔い改めを表明しました。

 「油」は主の祝福と聖別の象徴で、主は王や祭司、預言者に油を注いで務めに就かせました。この「油注がれた者」を意味する言葉は、「メシア」(救い主)です。ダビデはサウルを裁かず、主に委ねました。ダビデは後から来られるメシアを知っていたからです。千年の時を経て、ダビデの末裔イエスが、主の平和を実現するメシアとして人々のところに来ました。ダビデがサウル王の前にひれ伏し、自らを主に委ねたように、イエスは苦難の僕としてロ-マ総督ポンテオピラトの前にひれ伏し、自らを主に委ね、人々の罪のゆるしと救い・そして平和を実現してくださったのです。

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