「平和の神は共におられます」      深見祥弘牧師

August 03, 2019

<今週の聖句>

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

(フィリピの信徒への手紙4章4~5節) 

「平和の神は共におられます」      深見祥弘

 今朝の御言葉は、フィリピの信徒への手紙です。パウロは、第二伝道旅行でフィリピを訪れ、ヨ-ロッパ最初の教会ができました。この手紙は、パウロが第三伝道旅行中に滞在していたエフェソで書かれました。その内容は、パウロを助けるためにフィリピの教会が遣わしたエパフロディトを帰すこと、パウロの身に起きている投獄のこと、そしてパウロの再訪問までの心備えのことなどです。

 この手紙の4章を読んで心留めさせられたのは、「主において」という言葉です。フィリピの教会の2人の婦人が、互いに反目していました。これを獄中で知ったパウロは、2人に「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めます。「主において」とは、2人が主イエスの十字架の贖いによって罪赦されたこと、また神の平和(主がすぐ近くにいてくださる)が恵みとして与えられていることです。パウロは、婦人たちがこの主の赦しと恵みを覚えるならば必ず和解できるとし、教会の人々に2人を支えてほしいと願っています。そして、この贖いと平和の主イエスにおいて、教会はどのような状態にあっても常に喜べることを、すべての人々に証ししなさいと励ましているのです。

 8月第一日曜日は、平和聖日です。7月28日に行われたCS夏のお楽しみ会で、カナダのバンク-バ-日系人合同教会に手紙を出しました。かつてこの町に暮らした日系人は、差別を受け、第二次世界大戦下には強制収容所に送られ、カナダへの忠誠を誓った日系人は戦いの前線で日本人と闘わねばならない悲劇の体験をしました。こうした歴史を越えて、この地の日系人教会が「主において」神の平和を得ていることを覚え、感謝で満たされました。

「心備えはできているのか」      深見祥弘牧師

August 10, 2019

 <今週の聖句>

イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」          (ルカによる福音書9章56節)

「心備えはできているのか」      深見祥弘 

 8月6日(火)夜、安土の寺で行われたNPO法人「ア-スキャラバン」主催の平和の集いに出席しました。「ア-スキャラバン」は、国籍・人種・宗教など、あらゆる違いを越えて、平和な世界を創る試みをしています。同法人はサ-ロ-節子さんと共に、3月21日、福岡県星野村にある広島原爆の残り火を持って、バチカンを訪れました。ロ-マ法王は原爆の残り火を吹き消し、平和への祈りをささげました。8月6日の集いでも、ロ-マ法王と面会したア-スキャラバン・ヨ-ロッパのアリスさん(オ-ストリア)の話を聞き、出席者全員で原爆の残り火を吹き消し平和への思いを新たにいたしました。

 御言葉は、ルカによる福音書9章51~62節です。ここから、イエスのエルサレムへの旅が始まります。イエスは、従おうとする人々に心備えができているかを問います。心備えとは、①その旅がどこを目指すものかを自覚することです。それは神の国(安住の地)です。イエスに従う者は、これを知らなければ、そこに至るまでに経験する拒否や苦難によってつまずいてしまいます。②イエスに従う者の務めは、イエスによって神の国に至ることを人々に言い広めることです。たとえ死者を葬る時でも、イエスに委ねるならば、主は死者と共にいてくださり、永遠の命を与えてくださるのです。③イエスに従うことを決心した者は、後ろを振り返ってはいけません。そうするならば、目指す道からそれてしまい、神の国に至ることができなくなるからです。

 「平和を実現する人は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9) 私たちは、イエスと一緒に平和を目指して歩む者です。平和への旅を自覚し、人々にイエスによる平和の実現を言い広めます。そのように平和への道を歩みはじめたら、もう決して振り返ることはしないのです。

「あなたが助けてくれるのですか」 深見祥弘牧師

August 17, 2019

 <今週の聖句>

隣人を自分のように愛しなさい。       (ルカによる福音書10章28節)

「あなたが助けてくれるのですか」    深見祥弘

8月11日、大津教会で行われた滋賀地区「平和の集い」に出席しました。

講師は、沖縄県南城市の佐敷教会牧師、金井創さんでした。金井さんは、北海道の生まれで、2006年に佐敷教会に赴任、以後辺野古新基地建設抗議の海上行動に参加し、2014年からは抗議船「不屈」の船長をしています。同教会に赴任した時、信徒より「沖縄を背負って生きてください」と求められました。イエスはその時代の弱く小さくされた人々と共に生き、その人々の中にこそ神の国があることを告げました。その人は、「イエスは、今沖縄に生きておられる」との確信のもと、イエスが背負っておられる沖縄を、あなたも背負って生きてくださいと願ったのでした。 

 今朝の御言葉は、ルカによる福音書10章「良きサマリア人のたとえ」です。ある人が追いはぎに襲われ、重傷を負って道端にたおれていました。そこに祭司が、次にレビ人が通りかかりました。彼らは日頃、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えているのに、この時、見て見ぬふりをして行ってしまいました。その後に来たのがサマリア人でした。サマリア人とユダヤ人は反目の関係にありましたので、彼もまた通りすぎるかと思いきや、倒れている人を手当てし、宿まで連れていって介抱したのでした。

 私は、良きサマリア人のたとえを読んで、倒れている人とは沖縄の人、見て見ぬふりをした祭司、レビ人とは本土の人(私たち)、そしてサマリア人とは金井さんのことだと思いました。沖縄の人は、金井さんと金井さんが信じるキリストに「あなたが助けてくれるのですか」との思いを持ちました。基地の問題は政治の問題ではなく、命の問題です。金井さんは、世の力に負けて十字架に付けられたけれど、復活されたキリストによってこそ、命を回復することができることを信じ、主と隣人を愛し仕えておられるのです。

「 ステファノ(後編)」      仁村 真司教師

August 24, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右にたっておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。          (使徒言行録7章55~56節)

           「 ステファノ(後編)」      仁村 真司

 今回は「ステファノ(後編)」ですが、「前編」を聞いていなくても、忘れていても大した問題はありません。

 さて、使徒言行録7章2~53節は最高法院でのステファノの陳述として記されていますが、内容的に見て、最高法院で語ったことだけではなく、ステファノが普段人々に語っていたこと、語り合っていたこと等も合わせて、ステファノの思想をまとめたものだと考えられます。

 この中で、特にステファノの主張の特徴が現れているのが48節「けれども(ソロモンは神殿を建てたけれども)、いと高き方(神)は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」です。これは明確な神殿批判です。

 ペトロたちはエルサレム神殿を崇拝していて、日々熱心に出かけていました。パウロもエルサレム神殿を尊重していたと考えられます。

 ユダヤ教社会においてエルサレム神殿は、宗教・政治その他全ての権威を独占していました。神殿批判は神を批判、冒涜することと受け取られました。

 エルサレム神殿は70年にローマ軍によって崩壊しますが、それまでにはっきりと批判しているのは、新約聖書ではイエス(マルコ11章15-18節・13章2節)の他にはステファノだけだと思います。

 神殿批判は、イエスの場合もおそらくそうですが、ステファノが殺される直接の理由になったと考えられます。ステファノが語り終え、天を見つめ、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言うと(56節)、人々は一斉にステファノに襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めます(57-58節)。

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