「イエスの働き方改革」       深見祥弘

August 31, 2019

 <今週の聖句>

安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。

(ルカによる福音書13章16節)

「イエスの働き方改革」       深見祥弘 

 昨年6月、国会で「働き方改革関連法」が可決成立し、今年4月より施行されました。この法律は、①長時間労働の是正、②正規・非正規の不合理な処遇差の解消、③多様な働き方の実現、この3つを柱としています。このように「働き方改革」は、労働人口の減少、少子高齢化、社会保障費の膨張などの社会問題への対応と、企業の業績を向上させ、働く人の生活の質を高めることを目的とするものです。

 エルサレムへの旅の途中、イエスは安息日にある会堂で教えられました。この会堂には、18年もの間、病気のため腰の曲がったままの女がおりました。イエスはこの女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って曲がった腰に手を置きました。するとすぐに女の腰が伸び、彼女は神を賛美しました。ところが会堂長は、イエスが安息日に女を癒したことに腹を立て、群衆に言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」彼は自らの管理する会堂で、イエスが安息日には働いてはならないと定められている法律を破ったことに腹を立てたのです。これに対しイエスは、彼らが安息日の法律に例外を設け、家畜に水を与えていることを指摘します。そのうえで人間は家畜以上のものだから、「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と教えられました。

 この話は、イエスの働き方改革といえる内容です。イエスは、安息日とは神が愛をもって働いてくださる日だと教えました。イエスは、御前に集う一人一人にまなざしを向け、「治った」と言い、手を置いて癒してくださいます。そして私たちは、この神の愛の業に目を向け、救いの恵みにあずかった人々と共に神を賛美するのです。働き方改革には、愛が欠かせません。

「わたしは主のものです」      深見祥弘牧師

September 07, 2019

   <今週の聖句>

キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。          (ロ-マの信徒への手紙14章9節)

「わたしたちは主のものです」      深見祥弘

 今朝のみ言葉は、ロ-マの信徒への手紙14章です。ここには、キリストが死に生きたのは、死んだ人も生きている人にも主となられるためであること、また私たちキリスト者は、生きている時も死んだ後も主のものであり、主のために生き、そして死ぬことを記しています。 

 紀元50年代はじめ、ロ-マには、異邦人信徒を主流とし一部ユダヤ人信徒を含む教会が存在しました。このロ-マ教会の創立者は不明です。使徒パウロは、かねてよりこの教会を訪問したいと願いましたがかなわず、コリント滞在中(55年頃)にこの手紙を書きました。ここでパウロは、ロ-マ教会内で異邦人信徒とユダヤ人信徒が裁きあっていることについて、助言をしています。ロ-マの町では異教の神に献げられた肉が店に払い下げられ、売られることがありました。ユダヤ人信徒(弱い人)は、肉を食べることは偶像崇拝に参与することになると考え、野菜しか食べませんでした。異邦人信徒は、全ては神によって創られ偶像と呼ばれるものは実際には存在しないのだから、肉を食べても問題ないと考えました。このことで互いに軽蔑したり裁いたりしたのです。パウロは、肉を食べる人も食べない人も、「主のために」そうしているのであって、それは、主が十字架と復活(死と生)によって各自を「主のもの」としてくださったことへの感謝によるのだと教えました。そのようにして主が救い受け入れた兄姉を、あなたがたが裁くならば、最後の審判の際に主の裁きを受けねばならなくなると、パウロは戒めました。

 主が私たちを生にあっても死にあっても「主のもの」として下さっていることは、大きな慰めであり希望であります。私たちは、生きるにしても死ぬにしても、感謝をもつて「主のために」お仕えいたしましょう。

 

「今か今かと待ってくださる神さま」 深見祥弘牧師

September 14, 2019

 <今週の聖句>

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。    (ルカによる福音書15章20節)

「今か今かと待って下さる神さま」    深見祥弘 

 本日は、近江兄弟社高校吹奏楽部の皆さんと礼拝を守ることができ感謝いたします。ご一緒に聖書のお話を学び、私たちに対する神さまの思いや愛を知ることができれば幸いです。お話は、「放蕩息子のたとえ話」です。

 ある人に二人の息子がおりました。その息子の弟が父親に「わたしがいただくことになっている財産をください」と願いました。父は願いを聞き息子たちに財産を分けると、弟は譲り受けた財産をすべてお金に換えて遠い国に旅立ちました。弟はそのお金を思うがままに使い果たし、一文なしになってしまいました。運悪く飢饉がその地方を襲い、弟はある人のもとで豚の世話をしましたが、豚の餌でも食べたいと思うようになりました。そうした中で弟は父のことを思い出し、父の家の雇い人でもよいので帰りたいと思いました。帰路につくと、父はまだ遠く離れていたのに息子を見つけ、自ら走り寄って抱きしめました。弟が「わたしは罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言うと、父親は使用人たちに命じて良い服を着させ、手には指輪を足には履物を履かせた上で、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたに見つかった」と言って祝宴を開いたのでした。

 この話は、たとえ話です。父とは神さまのこと、弟とは私たちのことです。私たちは時として、自分を神のように振る舞い、神から遠く離れてしまうことがあります。しかし神(イエス)は、私たちがどこにいてもいつも思っていて下さり、戻ってくることを信じて待っていてくださいます。神は悔い改めた私たちを赦して神の子とし、神の国の祝宴に招いてくださいます。父は弟が出て行ったその日から、必ず戻って来ると信じ、今か今かと待って下さっていたのです。これは、私たちに対して先行する神の愛を教えています。

 

「 散らされた人々 」       仁村 真司教師

September 21, 2019

< 今 週 の 聖 句 >

さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。

(使徒言行録8章4節)

           「 散らされた人々 」       仁村 真司

 ステファノの殺害に続いて、エルサレム教会に対する大迫害が起こります。その結果、「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」(8章1節)。

 最後の「散って行った」は直訳では「散らされた」です。「使徒たちのほかは皆・・・散らされた」、つまり使徒たちは散らされなかった、無事だったということになりますが、エルサレム教会そのものに対する迫害が起こったのなら、教会の指導者である使徒たちが無事でいられるはずはなかったと思います。現に、後の話ですが、ヘロデ王は教会を迫害する際、まずヨハネの兄弟ヤコブを殺し、ペトロを投獄しています(使徒言行録12章1~5節)。

 「エルサレム教会に対する大迫害」は、ステファノが最高法院で語ったこと、特に「いと高き方(神)は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」(7章48節)という神殿批判に激昂したユダヤ教の人たちによって引き起こされた、主にステファノと同じギリシア語を話すユダヤ人(ヘレニスト)キリスト者に対するものであったと考えられます。

 使徒たちは神殿を批判しておらず、むしろ崇拝していました。ですが、神殿に対する態度その他に違いはあってもイエス・キリストを信じる同じキリスト者です。使徒たちが無事だったのは単に神殿を崇拝していたからではなく、ステファノ・ヘレニストたちとの関係を否定したからだと思います。

 このようにして迫害され、散らされることとなった人々はしかし、イエス・キリストを宣べ伝え続けます。

 「散らされた人々」によってより広い範囲で、より多くの、様々な人たちに福音が告げ知らされることになります。

 

「愛はすべてを完成させるきずな」 深見祥弘牧師

September 28, 2019

 <今週の聖句>

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

(コロサイの信徒への手紙3章12節)

「愛はすべてを完成させるきずな」     深見祥弘 

 今朝のみ言葉は、コロサイの信徒への手紙です。この手紙は、紀元61年頃ロ-マで軟禁中であったパウロによって書かれました。手紙の送り先は、アジア州のコロサイ教会です。コロサイには、パウロの同労者エパフラスが伝道し、教会が創立されました。エパフラスはロ-マにいるパウロを訪ね、信徒が信仰による愛を実践していることを伝えましたが、同時に偽教師によって惑わされることもあると知らせました。パウロはこの手紙に、キリストが世界の創造者であり保持者であり神の充満(プレ-ロ-マ)であると書きました。そして、キリストだけでなく「世を支配する諸霊(ストイケイア)」をも礼拝することで完全になれるという偽教師の教えは誤りであり、ただキリストに従うことによってのみ完全な者になれると伝えたのでした。

 またパウロは、どのようにすれば人々が完全な者になれるのかも書いています。あなたがたは、神によって選ばれ、聖なるものとされ、愛され、そして主に赦されているのだから、「憐みの心」、「慈愛」、「謙遜」、「柔和」、「寛容」を身に着け、「互いに忍び合い」、「赦し合いなさい」と勧めています。この7つは、キリストが人々に与えてくださったものです。ですから、キリストが人々のためになしてくださったように、私たちも互いに赦し、愛し合い、キリストの平和を実現してゆくのです。私たちはこれらを義務としてではなく、キリストへの感謝をもって実行するのです。「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(14)この御言葉は、私たちが生活の全域においてキリストの恵みを覚え従うために、御言葉を自らのうちに豊かに宿し、神を賛美し、すべてのことをキリストの名によって行うように教えているのです。

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