「満ちあふれるキリストの恵み」     深見 祥弘牧師

January 04, 2020

      <今週の聖句>

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に

恵みを受けた。            (ヨハネによる福音書1章16節)

「満ちあふれるキリストの恵み」     深見祥弘 

 御子イエス・キリストの御降誕の恵みの中で、新年を迎えました。満ちあふれるキリストの恵みの中で、喜びの賛歌をお献げいたしましょう。

 今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書1章です。1章1~18節には、ロゴス賛歌と呼ばれる詩が三つ載せられています。第一賛歌は1~5節「神である言」、第二賛歌は10~12節「人間となった言」、第三賛歌は16~18節「恵みと真理をもたらした言」です。福音書記者ヨハネは、自らが属す教団の中で歌われていたこれらの賛歌(信仰告白)を福音書の冒頭に記しました。目的は、神の壮大な救いの歴史(天地創造と人間の罪、御子の誕生と神の国の実現)をこの福音書を読む人々に知らせるためです。この福音書は、紀元90~110年頃にまとめられました。教会は、70年ロ-マによりエルサレムが陥落、85~90年ユダヤ人によるキリスト教徒に対する迫害を経験しました。しかし彼らは苦難の中にあっても、キリスト降誕の恵みに始まる神の救いの計画が、豊かに展開していることを実感していたのです。

 御子の誕生(14節)は、私たちにとっても神の愛の表れです。第三賛歌は、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(16節)「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(17節)と歌います。「恵みと真理」とは、神の救いの計画のこと、すなわちすべての人に永遠の命と神の国を与えることです。神はキリストとの出会いの時を与え、生涯を通して恵みと導きを与えて下さいます。キリストは、ありのままの私のところに来て下さり、恵みに恵みを重ねてくださるのです。この年、私たちはこのキリストの恵みに感謝し、ヨハネたちがそうであったように、御前に賛歌をささげてまいりましょう。

「わたしはそれを見た」       深見 祥弘牧師

January 11, 2020

<今週の聖句>

わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

・・わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。             (ヨハネによる福音書1章32節、34節)

「わたしはそれを見た」       深見祥弘 

 祭司やレビ人が洗礼者ヨハネのところに来て、「あなたは、どなたですか」と問いました。ヨハネは、自分についてメシヤやエリヤだという評判を否定し、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答えました。また彼は、後から来られる方の「その履物のひもを解く資格もない」ものであると言いました。

 ヨハネがそのように答えた翌日、待ち望んでいたその方が自分の方へやって来るのを見ました。ヨハネは、イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」「この方こそ神の子である」と告げました。「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」という言葉には、①かかげる、②担う、③取り除くという3つの意味があります。イエスは世の罪を明らかにし、その罪を自分の身に担い、そして罪を取り除かれる御方です。また、「神の小羊」という言葉には、①黙って苦しみに忍耐する主の僕、②その血によって罪をゆるす過越しの小羊という2つの意味があります。イエスの到来は、あらかじめ預言者イザヤによって告げ知らされたもので、ヨハネはそれを信じ待っていたのです。では、どうしてヨハネはイエスを見て約束の御方だとわかったのでしょうか。それは、ヨハネに水の洗礼を授ける使命を与えた神が、あらかじめ「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人」こそ、神の小羊であると告げていたからです。ヨハネは、その方に聖霊が降るのを見て、「この方こそ神の子である」と証をしたのでした。

 私たちのところにもイエスが来てくださいます。私たちは聖霊によってその方が救い主であることを知り、人々に「わたしは神の小羊を見た」と告げ知らせることができます。聖霊が、私たちを新たにしてくださいますように。

「 天が裂けて・・・ 」        仁村 真司教師

January 18, 2020

< 今 週 の 聖 句 >

 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて〃霊"〃が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

(マルコによる福音書1章9~11節)

「 天が裂けて・・・ 」        仁村 真司

 イエスの誕生を神の子の降臨として描くクリスマスの物語がないマルコ福音書では、イエスが洗礼を受けた後の「『あなたはわたし(神)の愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(11節)によってイエスが神の子であることが示されています。

 マタイ福音書・ルカ福音書のそれぞれに、内容は違いますが、記されているクリスマスの物語は、歴史的事実、本当にあったことを伝えていると言うよりも、イエスは神の子・キリストであるという「本当のこと」を伝えるために記されていると考えられます。

 勿論、最古の福音書であり、冒頭に「神の子イエス。キリストの福音の初め」(1章1節)とあるマルコ福音書もイエスは神の子・キリストであると伝えていますが、イエスが洗礼をヨハネから受けたこと、「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)は、そのまま歴史的事実、本当にあったことだと考えられます。

 イエスが、ヨハネが宣べ伝えていた「悔い改めの洗礼」(4節)を受けたということは、神の子であるということと矛盾するとも考えられますから、事実、それも広く知られていた事実でなければ、福音書に記されることはなかったかもしれないと思います。

 イエスが洗礼を受けたことによって何が現されているのか・・・。今朝はまず、このことから考えて行きます。

「わたしたちのまじわり」  深見祥弘 牧師

January 25, 2020

<今週の聖句>

わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

(ヨハネの手紙第一1章3節)

「わたしたちの交わり」       深見祥弘 

 み言葉は、ヨハネの手紙第一1章です。この手紙は、ヨハネ福音書が書かれた少し後の1世紀末から2世紀初め頃、小アジア(エフェソと周辺地域)で書かれました。その地域の教会指導者が、論敵(グノ-シス主義者)に惑わされ、交わり(互いに愛し合うこと)が損なわれている状況を憂い、教会の交わりの回復を願ってこれを書きました。キリスト者は受肉のイエスをキリスト(救い主)と信じ告白しますが、論敵は、神の受肉を否定し、天的なキリストと地上のイエスを分けて考えます。また、キリスト者は自らが罪人であり、御子イエスの血のあがないによって赦され救われると信じますが、論敵は、人は神から生まれた存在であるので神との交わりをもつ限り罪はないと主張します。さらにキリスト者は、交わりは互いに愛し合うことで実現すると信じていますが、論敵は個人の救いを重んじ兄弟愛を軽んじました。

 キリスト者は、自らを見捨てられた卵に例えることができます。見捨てられた卵は、温め守る親がなければ死んでしまいます。そんなわたしたちを父なる神とキリストが見つけてくださり、愛をもって温め、命をかけて守ってくださいました。やがてわたしたちは卵の殻を破り(洗礼)、ひなとなって生まれました。ひなは、生まれて最初に見たものを親とすると言います。わたしたちが最初に見たのは、受肉したイエスでした。わたしたちは、この方に従いならい、愛に生きることで神の子とされるのです。

  わたしたちの交わり(コイノ-ニア)の基に、父なる神とキリストの交わりがあります。それは見捨てられた命を守り、永遠の命へと導こうとする神の愛の交わりです。わたしたちは自らの愛の体験を兄姉に伝え、互いに愛し合うことで、あらゆる罪から清められ永遠の命に与かることができるのです。

Please reload

© OMI HACHIMAN CHURCH. All rights reserved. W.M.ヴォーリズが愛した教会