≪次月 10月(2020)礼拝説教要旨 前月≫

 

 

2020.10.18 聖霊降臨節第21主日

< 今 週 の 聖 句 >

 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」  (ルカによる福音書11章9-10節)

 

「 求めるときには 」  仁村真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」           (ルカによる福音書11章9-10節)

 

「 求めるときには 」        仁村真司

 前回はマタイ福音書を通して、イエスの言葉「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7章7節~)について考えました。今回はルカ福音書を通して考えて行きます。

 イエス・キリストは律法と預言者(旧約聖書)を完成するために来た、律法の完成者であるとするマタイ福音書は(5章17節)、イエス・キリストによって完成された律法を実践するのがキリスト者であるということですから、その主張は「新律法主義」と言えなくもないですが、ルカ福音書は、イエス・キリストに従おうとする人の思い、意思や努力を認めつつも、原則的に聖霊が与えられるかどうかによるという「聖霊主義」です。

 今日の個所の最後、13節の後半に「まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とありますが、マタイ福音書では「・・まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる」(7章11節)となっています。元々こちらの「良い物をくださる」だったと思いますが、ルカにとっては求める者に神様が与えてくださる「良い物」とは聖霊以外にはないということなのだと思います。

 この他にも違いはありますが、マタイ福音書とルカ福音書の「求めなさい」以下の文言はかなりの程度一致しています。ですが、語られている状況は随分と違っています。

 1)

 マタイ福音書の「求めなさい」は、「人を裁くな」・「神聖なものを犬に与えるな、真珠を豚に投げるな」に続いて、「イエス・キリストによる律法」の一項目として語られていますが、ルカ福音書ではイエスが「祈るときにはこう言いなさい」と言って「主の祈り」を示す所から(1~4節)「求めなさい・・」までは(~13節)一続きになっていると考えられます。

 「主の祈り」と「求めなさい・・」の間の5~8節にはたとえ話がありますが、始めにここを見ておきます。

 この話は、他の多くのたとえ話(例えば、九十九匹の羊をその場に残してまでいなくなった一匹を捜しに行くという話)ほどには訳が分からなくはない、実際には、普通はそんなことはしないという話ではないようです。

 パレスティナは秋から冬にかけては雨季で、昔の人が旅だとか遠出をするのは春から夏にかけての乾季だったそうですが、この時期の暑さは強烈で昼間は45度を超えることもあるらしく、人々が動き出すのは暑さを避けて夕方からです。夕方に出発した人が真夜中に疲れ果てて、食べるものもなくて、何とか辿り着いた家の戸を叩くということ、そしてそういう人を迎え入れるということはそう珍しいことではなく、助け合って生きていた当時の人々の習慣、生活の一コマだったようです。

 2)

 この話を伝えているのはルカ福音書だけですが、ルカがここに持って来たのは、「友よ、パンを三つ貸して下さい」(5節)と「主の祈り」の「わたしたちに必要な糧(パン)を毎日与えてください」(3節)とが、まずは結び付いたからではないかと思います。また、「友達だからということでは起きて何か与えるようなことはしなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(8節)は「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」(4節)と結び付いたのかもしれません。

 友達だからということでは、時に一方が負い目をおわせ、一方がおわされるということになります。

 「友よ、パンを三つ貸して下さい」、「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子どもたちはわたしのそばで寝ています。あなたに何かをあげるわけにはいきません」というやりとりでは(~7節)、「友達なのにくれない」とか「友達だからあげる」とかいうことになって、どう転んでも負い目をおうか、おわせることになりそうです。

 「友達だから」、あるいは「あの人は自分に負い目があるからしてくれる、断れないだろう」ではなく、自分がどうしょうもない所にいることを認めて、そこから求める。そうすれば本当に必要なものは与えられる。

 ルカは、このたとえ話によって「主の祈り」と「求めなさい。そうすれば、与えられる」はつながる、つながっていると考えたのだと思います。

 3)

 ですが、「求めなさい。そうすれば、与えられる・・」とは、マタイでもルカでも与えてくださるのは神であって、人ではありません。

 「負い目」と訳されている言葉は、「罪」という意味にもなりますが、元々は「借金」とか「借財」、要するに「借り」のことです。

 イエスは「罪」を神に対する「借り」と考えています。自然の豊かさやこの世の良いもの全てが、人が等しく神に対して負っている借り、負い目であり、それを神に返すことなど到底出来ない。にもかかわらず、神は一方的にその借りを帳消しにして、惜しみ無く与え続けてくださっている。それによって人は生きて行ける。これはイエスの神への絶対的な信頼の現れですが、そのような神に感謝すら十分に表すことができない私たちが、どのように求めればいいのか・・。

 ここから「主の祈り」と「求めなさい」が、今度は直接つながります。2節に「そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい』」とありますが、イエスは「祈るときには、即ち神に求めるときには、こう言いなさい。『父よ・・』」と言っていることになります。イエスはユダヤ教の祈り方に対してキリスト教の祈り方を示しているのではありません。

 この「父よ」は「アッバ」で、当時の人々の日常生活の言葉のアラム語の俗語で日本語では「父さん、とうちゃん、おやじ」という感じになりますが、「アッバ」だけではなくて全体がイエスが一緒に生きていた人々の日常の生活から自然に出て来る言葉だったはずです。

 イエスの時代のユダヤ教徒は、律法を暗記していたそうですが、毎日全て唱えることは出来ませんから、これにかえて、かなり長い祈りを唱えていました。勿論ヘブライ語でですが、ネヘミア記8章8節に「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた・・」とあります。

 エズラたちユダヤ教指導者が民に律法を伝える宣布式というべき集会でのことですが、「律法の書を翻訳し」ということは一般の人々にとってヘブライ語は翻訳なしには理解できない言葉になっていたということです。

 これは紀元前五~四世紀頃の話ですが、一世紀のイエスの時代には律法や祈りの言葉であるヘブライ語はますます人々から掛け離れ、特に貧しい人々や罪人とされていた人々の心に働きかけることも、そのような人たちの思いを言い表すことも到底できないものになっていたはずです。

 イエスが一緒に生きていた人たちは、祈りの言葉、神の求める言葉がなかった・・と言うよりも奪われていた。イエスが「祈るときには、神に求めるときには、こう言いなさい、アッバ、父さん、とうちゃん・・」こう言ったのは、神に求める言葉、本来の祈りを人々が取り戻すためだと思います。

 そして「求めなさい。そうすれば、与えられる」とは、どんなにみっともない姿、やり方であっても、言葉にはなっていなくても、言葉ではなくても、それが本当の自分からのものならば、神は、イエス・キリストは、必ず受け止めてくださる、聞き届けられるということです。

2020.10.11 聖霊降臨節第20主日

<今週の聖句>

多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。・・目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。

(ダニエル書12章2~3節)

「とこしえに星と輝く」     深見祥弘牧師

     先々週・先週と、教会に連なる二人の兄弟を神さまの御元にお送りいたしました。兄弟たちの召天は、私もひさしぶりに夜空を見上げた中秋の名月の後の出来事でした。お二人が逝かれた後、ダニエル書12章「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。・・目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く」、この言葉が与えられました。 ところで「亡くなった人は、星になる」と言います。例えば母親を亡くした幼い子が、「お母さんはどこにいるの」と問うた時、「お母さんはお星さんになったのだよ。いつも見ていてくれるからね」と答える場面をテレビドラマなので見ます。では亡くなった人が星になると言われるその由来は、どこに見出すことができるのでしょうか。インタ-ネットで検索してみると、ギリシャ神話が由来と出てくるのですが、それがどういうお話かはわかりません。実はダニエル書12章の言葉が由来なのではと私は思います。

 

 ダニエル書は、旧約聖書に収められている書の中で最後に書かれた文書で、BC165年の成立と考えられます。その内容は、1~6章のダニエル物語、7章のダニエルの幻−国々の興亡、そして8~12章の黙示文学的幻、この三つに分けることができます。

まず1~6章のダニエル物語は次のとおりです。BC605年、ユダの王ヨヤキムの時、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、ユダの人々をバビロンに連行しました。若いダニエルもその一人で、彼は宮廷で教育を受け、仕えるようになりました。さらにダニエルは、王の夢を解いたことにより高い地位が与えられ、バビロン全州を治めることになりました。そのような彼ですが、神の律法に忠実で、バビロンの王がつくった金の像を拝むことをしませんでした。そのことで燃え盛る炉に投げ込まれる体験をしましたが、神はみ使いを送って彼を救いました。また、ダレイオス王の時代、ダニエルにねたみをもつ者が、王の署名を得て、「王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ、獅子の洞窟に投げ込まれる」との禁令を出しました。しかし、ダニエルは、日に三回、エルサレムに向かって開かれた窓辺にひざまずき、神に祈りと讃美をささげました。間もなく王は、自ら署名した禁令が、ダニエルを陥れるためにつくられたものであることに気づきますが、一度署名したものを変更することはできません。その結果、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれることになりましたが、不思議なことに、何の害も受けませんでした。王はこの禁令を無効にするために、新たな勅令を出しました。「わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし、その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い、ダニエルを獅子の力から救われた。」(6:27) ダニエルは、バビロンの王ネブカドネザル、ダレイオス、その後バビロンを征服したペルシャのキュロス王の治世に活躍しました。

 

7章はダニエルの幻−国々の興亡について書かれています。バビロンの王ベルシャツァル(ネブカドネザル王から3代目の王)の時代、ダニエルはある夢を見ました。それは、これから起こる、国々の興亡に関する幻でした。四頭の獣が次々に現れてきて、殺され、燃え盛る火に投げ込まれます。獅子(バビロン)、熊(ペルシャ)、豹(ギリシャ)、そして巨大な鉄の歯をもち、10本の角を持つ獣(ロ-マ)です。さらにダニエルは「人の子」のような御方が、天の雲に乗って来られ栄光をお受けになられる幻を見たのでした。

最後に、8~12章は終末の幻について書かれています。ダニエルはさらに三つの幻を見ました。8章は、雄羊(ペルシャ王)を雄山羊(ギリシャのアレクサンダー大王)が征服する幻です。次に雄山羊の角が折れて小さな角(アンティオコス4世エピファネス)が現れ、エルサレム神殿を侵略し迫害をする幻です。9章は、ダニエルの祈りと迫害の予告、そして10~12章は、ペルシャによる支配から終末までのことが語られています。ペルシャ王キュロスの治世3年(ユダヤ人のエルサレム帰還の2年後、BC534年)、ダニエルは、祖国に帰った人々のことなどを思い、3週間にわたり祈りをしました。彼は、すでに高齢であり、またペルシャ政府の公務の責任上ペルシャに残ったのです。BC534年1月24日、この日も彼はチグリス川の岸辺で祈っていました。するとそこに「麻の衣を着、純金の帯を腰に締め、体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようで」(10:5~6)と表現されている御方が現れました。その御方こそイエス・キリストでありました。(ヨハネの黙示録1章12~16節にも同様のことが記されています) ダニエルはこの御方を見ると、意識を失い、地に倒れました。すると、この方がダニエルを起こしてこう言いました。「ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉を理解せよ。そして立ち上がれ。」(10:11)「神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た」(10:12) ダニエルの祈りは聞かれ、その御方が来たのはその祈りに応えるためであると言われました。この幻の中で特に意識されているのは、アンティオコス4世によるエルサレム及び神殿への迫害(BC168年)です。「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる」(11:31)といった記述はアンティオコス4世のことを意識しています。これに対して祭司マタティアらが立ち上がることでマカバイ戦争が起こり、エルサレムの奪還に成功するのです。

その後も多くの闘いを経験しながら、終末の時を迎えるのです。反キリストの勢力は、地上軍と大船団をひきいて押し寄せ、この勢力に敵対する者たちをことごとく打ち倒します。そして、反キリストの軍勢はついに、地中海とエルサレムとの間に宿営して、最後の決戦の備えをいたします。

12章は、最後の決戦に際し大天使ミカエルが立ち上がり、反キリスト勢力に勝利したことが書かれています。神の民は守られたのです。神の民は、これまで反キリスト勢力によって多くの苦難を経験してきましたが、ついに終末の時をむかえ、命の書に名を記されている者として救われるのです。終末の時、眠りについているすべての人々は目覚めを経験しますが、その中で主にあって眠っていた者は永遠の命をいただき、この人々は大空の光のように輝き、多くの人に愛を注いだ人々はとこしえに星と輝くことになるのです。 

 

先週葬儀が行なわれたA兄は、昨年クリスマスに洗礼を受け、10か月後に神さまの御元に逝かれました。長い期間、施設や病院でお過ごしになられましたが、コロナ禍でもあり、面会することもできずにおりました。ご家族の皆さんも同様であったことでしょう。しかし、病院から教会に来られて葬儀が行われるまでの3日間、A兄は教会でゆっくりとした時を過ごし、ご家族との交わりの時もお持ちになられて旅立たれました。ダニエル書12章13節に「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい」と書かれていますが、まさに神より与えられた道を歩み、すべてを神に委ねて御元にゆかれたのだと思います。

イエス・キリストが、A兄のところに来て立ち上がらせてくださり、兄が大空の光のように輝き、とこしえに星と輝くことを、今、実現してくださったのです。A兄が、天の星々の一つとなって神の創造の偉大さを讃えるとともに、御家族や私たちをあらためて救い主のところに導く星となられたことを心から喜びたいと思います。

2020.10.4 聖霊降臨節第19主日

<今週の聖句>

もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。                          (ヨハネによる福音書10章37~38節)

「神の業を信じなさい」       深見祥弘牧師

 「開運!なんでも鑑定団」(東テレ)という番組を見たことがありますか。

古美術や骨董などありとあらゆるものを専門家がみて、今、どれくらいの価値があるのかを鑑定する番組です。家の中に無造作に置かれていたものが、驚くほどの値が付いたり、家宝として長年大切に保管してきたものが偽物であったりします。私もこれはいくらと予想しますが、本物と偽物を見分けることはむつかしいのです。この番組のレギュラ-鑑定士の一人が、中島誠之助さんです。骨董商をしておられた古美術鑑定家で、特に古伊万里など焼き物の専門家です。この方の決めセリフは「いい仕事をしていますねえ」です。古伊万里焼きの皿を鑑定し、その業を見てそのように言うのです。また、鑑定の結果、価値の低いものであっても、その品のよい所を褒め、「大切になさってください」と鑑定依頼者をねぎらいます。人は、箱書きなどからその品が価値あるものと判断するのですが、中島さんはその業を見て真偽を見分けます。今朝の御言葉に出てきた「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」というイエスの言葉から、「いい仕事をしていますねえ」と言ってその業から真偽を見分ける中島誠之助さんのことを思いました。

 

今朝の御言葉はヨハネによる福音書10章です。先週9月27日の説教でお話ししたのですが、イエスは、あなたは何者なのかと問うユダヤ人たちに「わたしは羊の門である」(7)「わたしは良い羊飼いである」(11)と答えられました。しかし、その言葉の意味を理解できない彼らとイエスとのやり取りが、22節~38節に記されています。

神殿奉献記念祭は、毎年キスレウの月(11~12月)にエルサレム神殿で8日間行われる祭りです。かつてシリア王アンティオコス4世によってエルサレムが攻撃され、神殿の物品が略奪される出来事がありました。これに対し、BC165年、祭司マタティアらがエルサレムと神殿を奪還し(マカバイ戦争)、神殿を清めて礼拝を献げました。以来この出来事を記念し、祭りがおこなわれるようになりました。

この祭りでのことが記されているのは、イエスがユダヤ教指導者たち(ユダヤ人たち)から神殿を奪還し清めることを暗示しています。イエスが神殿の境内を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲み「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と迫りました。するとイエスは、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」と言われました。イエスは、これまでご自分を「わたしは命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは羊の門である」(10:9)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)とご自分が何者なのかを紹介してこられました。しかしユダヤ人たちは、これを受け入れ信じようとしなかったのです。すなわち彼らは、イエスより永遠の命を与えるパンを受け取ろうとはせず、光の中を歩もうともしませんでした。また悔い改めてイエスという門をくぐり神の家に入ろうとしませんでしたし、良い羊飼いであるイエスの声に聴き従うこともしませんでした。父なる神が、神の子イエスによって、信じる人々に与えようとする恵み(永遠の命)を、彼らが拒み、神の家を汚していたのです。

 

これを聞いてユダヤ人たちは、石を手に取り、イエスを打ち殺そうとしました。イエスが、いったいなにをしたので(どの業によって)石で打ち殺そうとするのかとたずねると、彼らは業ではなく、自分を神とし神を冒涜したこと(「わたしと父とは一つである」と言ったこと)が理由だと答えました。旧約聖書の律法レビ記24章15~16節には、「神を冒瀆する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す」と定めているからです。するとイエスは、同じ律法に「わたしは言う。あなたたちは神々である」(詩編82:6)と書かれていて、神殿で働きをするあなたがたは、自分たちが神々と呼ばれることを受け入れているではないか。父なる神の元から遣わされてきたわたしが、神の子であると言ったからといってどうして神を冒瀆していると言えるのかと反論されました。この「神々」と呼ばれるのは、神殿で務めにあたる人々のことです。そのうえで、イエスは「もし、わたしが父の業を行ってないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」と話されました。

 

「イエスとは何者か」これは、ヨハネによる福音書1章から12章までの中心テ-マです。ユダヤ人たちは「もしメシヤなら、はっきりそう言いなさい」と迫ります。しかしこの時、イエスはユダヤ人たちに対し、そう言うあなたがたは自分を何者と言うのかと問うています。あなた方は、神殿において神に仕え務めにあたる者であるにもかかわらず、「神々」との称号により与えられた働きの領域を超え、神のごとき者となってその業をなし、神を冒瀆しているではないか、このことに気づけと、イエスは言われるのです。イエスは、メシヤという称号によって存在を示すのではなく、その業によって、すなわち「わたしは命のパンである」「わたしは世の光である」「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」という業によってご自分がどのような者であるのかをお示しになられました。そして、その業によって人々がイエスを信じるように導かれるのです。人々はイエスによってなされる業によって、父なる神の存在を、すなわち人々に対する神の愛を知るのです。

 

私たちは、教会創立120周年を覚え、礼拝で用いていますハルモニウムオルガンの修理を行うことにいたしました。このオルガンは、91年前の1929年、フランスから海を渡って私たちのもとに届けられました。私たちは、これを創ったフランス・デュモン社の職人さんの名前を知りません。私は昨年そして今年、オルガンの内部を見ましたが、これを創った職人さんの業がどうであるのかもわかりません。しかし、オルガンから奏でられる音が、長い年月を経て楽器として衰えは見せても再起不能になるようなことはなく、礼拝において私たちの賛美をしっかりと支え仕えてくれていることは、私にもわかります。このオルガンの音によって、職人さんとその業を知ることができるように思うのです。また、この度、新たな職人さんの手がこのオルガンに加えられることとなりますが、日仏両国の職人さんの業によって、礼拝する私たちの信仰が強められ、イエス・キリストと父なる神の愛を深く知ることへと導かれますようにと心から願っています。

 「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」(38)、名前でも肩書でもなく職人がどのような人かは、仕事をみればわかります。「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」というイエスの言葉は、職人の言葉です。イエスのなされた業が、腕の良い職人の残した仕事のように見えるならばすばらしいことです。イエスは、この世的に価値の低いとされる者に対しても、良い所を見つけてくださり、周りの人々に「大切になさってください」と言ってくださいます。また、イエスは価値の低いその者のために業(十字架と復活)をなし、信じる者になりなさいと呼びかけてくださっています。取るに足らぬ私を見る者が、「いい仕事をしていますね」と言い、その業をなしたイエスや父なる神を知り、信じることに導かれるならばまことに幸いなことです。

© OMI HACHIMAN CHURCH. All rights reserved. W.M.ヴォーリズが愛した教会