≪次月 12月(2020)礼拝説教要旨 前月≫

 

2020.12.27 降誕節第1主日​​    

< 今 週 の 聖 句 >

 ところが、ヘロデのところへ帰るなと」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(マタイによる福音書2章12節)

「 道がかわる 」  仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

 ところが、ヘロデのところへ帰るなと」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(マタイによる福音書2章12節)

「 道がかわる 」        仁村 真司

 先週私たちはクリスマスを迎えました。今朝はマタイ福音書の遠くの東から、「ラクダにまたがって・・」とも「三人の・・」とも書いてありませんが、やって来た占星術の学者たちがまずエルサレムのヘロデ王の所に立ち寄り、それから生まれたばかりのイエスを訪れ、拝み、贈り物(黄金、乳香、没薬)を献げ、別の道を通って自分たちの国へ帰って行ったという物語からいろいろと考えて行きます。

 マタイ福音書とルカ福音書がイエスの誕生を神の子・キリストの降誕として伝えていますが、マタイとルカを見比べてみると、見比べてみなくても、マタイ福音書の話はとにかく暗い。真っ暗で悲惨とも言えます。

 占星術の学者たちが別の道を通って帰ったのは「ヘロデの所に帰るな」と夢で告げられたからですが、ユダヤ人の王として生まれた子どもを特定出来なくなったヘロデ王はベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させます(16節)。

 もっとも、これは歴史的事実ではありません。ヘロデ王は情け容赦ない残酷な支配者ではありましたが、こんなことはしていません。

 ヘロデがいくら醜いことを沢山やっていたとは言え、やっていないことまでやったことにするのはやっぱり良くないと思いますが、マタイはどうしてそうまでしてイエス・キリストの誕生、御子の降誕をこれ程暗く悲惨な物語として伝えているのでしょうか。

 1)

 マタイ福音書は明らかにモーセの誕生物語を下敷きにしてイエスの誕生物語を記しています。

 出エジプト記によると、イスラエル(ユダヤ)人がエジプトでどんどん増えて強くなって行きます。このままではイスラエル人がエジプトを脅かすことになると考えたエジプト王はイスラエル人を圧迫する政策を打ち出して殆ど奴隷状態に置きますが、ついに「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほおり込め」、殺してしまえという命令を出します。

 そんな時に生まれたモーセが、後にイスラエル(ユダヤ)の人々をエジプトから救い出すことになりますが、このモーセの誕生物語の“拡大版”とでも言うようなものが一世紀には出来ていました。

 そこでは「生まれた男の子は、一人残らず殺せ」とはそもそもモーセを殺すことを目的にした命令であったとか、その他にもマタイ福音書のイエスの誕生物語と重なる所が沢山あります。

 登場人物についてもヘロデ王はエジプト王と、ヨセフとマリアはモーセのお父さんとお母さんと、という具合にわかりやすく重なっているのですが、イエスの誕生物語における占星術の学者たちとはっきりと重なっていると言えそうな人たちはモーセの誕生物語には出て来ません。

 よく言われるのは、異邦人である占星術の学者たちがイエスを拝んだのは、異邦人が将来イエス・キリストに従う予兆であるということですが、ともかく暗く悲惨な物語の中で少し明るい雰囲気を漂わせているのは、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とありますが(10節)、喜んでいるのも、占星術の学者たちだけです。

 2)

 だからかもしれませんが、占星術の学者たちにまつわるいろいろな話が作られて行きます。「東方の3博士」ということになって、6世紀には名前がついて(ガスパール、バルタザール、メルキオール)、12世紀頃からはガスパールは青年、バルタザールは壮年で黒人、メルキオールは老人ということになったり、贈り物については黄金は貧しさに対する支援、乳香は馬小屋の消毒、没薬は赤ちゃんの衛生のためだとか・・。

 そんな中で、中世の教父(正統的な信仰を伝え著し、聖なる生活を生きたと認められた人)で、占星術の学者たちがしたことについてこんなことを言った人がいるそうです。

 イエス・キリストの誕生を喜んだことも拝んだことも大切、贈り物を献げたことも大切。だけれども、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。この「別の道を通って」ということが最も大切だ。

 「別の道を通って・・」とは道がかわる、生き方が変わるということなのでしょう。御子の降誕を知って、イエス・キリストに出会って、生き方が変わる。それが最も大切だというのはその通りだと思います。

 3)

 ただ、物語の全体から見てみると占星術の学者たちは真っ暗な物語を少し明るくするために出て来ているのではありません。

 占星術の学者たちがエルサレムに立ち寄り「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。その方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)と言ったことによってヘロデ王、エルサレムの人々も不安を抱き(3節)、不安に囚われ、暗く悲惨な物語が展開して行きます。

 ヘロデ王が民の祭司長や律法学者を集めて聞いてみると(4節)「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばんちいさなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」と聖書(ミカ書5章1節)に示されていることが明らかになります。それなのに・・とマタイは言いたいのだと思います。

 マタイからすれば、「道がかわる」と言うのなら、それはヘロデ王やエルサレムの人々(=ユダヤ教の人たち)にとってだ。神に選ばれ、神が示した道を歩んで来て、歩み続けるべきなのにイスラエルの民、ユダヤ教徒は、イエス・キリストの降誕によって神が新たに示した道を、不安に囚われ、自分たちの思いで勝手に変えようとしているということになります。

 マタイ福音書が書かれたのは、後70年にローマによってエルサレムの町全体とともに神殿も破壊され壊滅状態になったユダヤ教が必死に建て直しを図っていた、ユダヤ教徒たちの“熱心”が盛り上がっていた時期と重なると考えられます(後80~90年頃?)。

 そんな時にユダヤ教の側からすれば、ユダヤ人(=ユダヤ教徒)であるはずのマタイたちは、よりによってローマ帝国の極刑、十字架刑によって殺されたイエスがキリスト、神の子だと主張している。キリスト者に対する怒り、憎悪は大変なもので、マタイたちは厳しい迫害を受けていました。

 明るい見通し、希望など持てないような現実に置かれている、そのことが、真っ暗で悲惨なマタイ福音書の降誕物語に現れているのではないか・・。

語られているのはマタイたちが置かれていた状況でもあるということです。

 だとすれば、この世の圧倒的な力が生まれたばかりのイエスを殺そうとしている、イエスをキリストと信じる私たちを滅ぼそうとしている。しかし、イエス・キリストは死なない、私たちは滅びない・・。こう信じていると言うよりも、そのことを知っている。マタイが一番伝えたかったのはこれだったのかもしれません。

 マタイは御子の降誕を過去の出来事としてだけではなく、むしろ現在、今の出来事、大きな困難の中に置かれている自分たちがそれでも守られている、導かれている。その根拠として受け止め、語っている・・。そして、マタイ福音書を読む人たち、今の私たちにも、クリスマスを現在、今の出来事として受け止めるように促しています。

 今回は「道が変わる」という説教題でお話しして来ましたが、このようなマタイ福音書に沿って言うのならば、クリスマスの出来事はどんな時代、どんな状況であっても、そしてどんな人にとっても、いつも現在、今、神によって示される新しい、そして確かな道であるということです。

2020.12.20 降誕前第1主日​​ 
クリスマス礼拝  

<今週の聖句>

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

(ルカによる福音書2章10~12節)

「さあ、ベツレヘムに行こう」  深見祥弘牧師

                        <今週の聖句>

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

(ルカによる福音書2章10~12節)

「さあ、ベツレヘムに行こう」      深見祥弘

 クリスマスおめでとうございます。主の年2020年は、コロナに始まり、コロナに終わる、そのような年でした。暗いニュースが多いこの一年でしたが、12月になって明るいニュースも届きました。小惑星探査機「はやぶさ2」搭載のカプセルが、地球と小惑星リュウグウとの往復52.4億キロの旅を終えて、12月6日帰還しました。ロケットが打ち上げられたのは、今から6年前2014年12月のことでした。2018年6月リュウグウに到着、2回の着陸によって表面物質と地下物質を採取し、2019年11月小惑星を出発、2020年12月5日カプセルを地球に向けて分離しました。カプセルは、まるで長い尾をもつ流れ星のようにオーストラリア南部の砂漠ウーメラに到着し、発見回収され、すでに日本に持ち帰られました。カプセル内の小箱からは、数ミリの黒い石が多数確認できたとのことです。今後こうした物質から、地球の生命誕生の謎の解明につながる有機物質が発見されることが期待されています。 記者会見で担当者が、回収されたカプセルを「玉手箱」と呼んでいました。リュウグウから持ち帰ったものであるからです。これを報じる新聞に「玉手箱」の語源は、「魂出匣」(タマデバコ)で、昔、魂を身の外に出して保存すると不死身になるという信仰(外魂信仰)に由来すると書かれていました。浦島太郎が竜宮城で長い年月を過ごし、故郷にもどり、持ち帰った玉手箱を開けると老人になったことも、自分の魂の入った箱と知らずに開けた話と解釈できます。

 

 今からおよそ2千年前、ナザレの町にヨセフとマリアという若い夫婦がおりました。ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にありましたが、ある時、皇帝アウグストゥスの命令で人口調査が行われることになりました。これは徴用や徴税のために行われるもので、人々はそれぞれの故郷で登録をしなければなりません。ヨセフの故郷はベツレヘムでしたので、二人は旅をしなければなりませんでしたが、この時マリアのお腹には、赤ちゃんが宿っていました。以前、主の天使がマリアにあらわれ、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。・・・聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生れる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げていたのです。二人は、ベツレヘムに到着すると宿を探しました。しかし、どの宿も登録で来た人々によって満室で、泊まる場所がありません。二人は、家畜を入れておく場所を借り、滞在中にマリアは月が満ちて男の子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのでした。

さてこの出来事は、天使によってこの地方で夜、羊の群れの番をしていた羊飼いたちに知らされました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシヤである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」 羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、急いで行って、飼い葉桶に寝かせてある御子を探し当て、飼い葉桶の御子を礼拝しました。

 

世々の教会は、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」との天使の御告げと、羊飼いの「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」との呼びかけを、自分たちへの言葉と受け止め、信仰をもって飼い葉桶の御子を探しました。

 パトモス島の受胎告知修道院(正教会)にある絵画「主の誕生」は、洞穴の中にあり、御子を布にくるんだ遺体のように、飼い葉桶を棺のように描いています。洞穴は墓を現わし、御子は死ぬ者として生まれられ、復活して墓を開く御方であることを現わしています。すなわち信者たちは飼い葉桶の御子を礼拝することによって、復活のキリストを礼拝したのです。

 パレルモのパラティナ礼拝堂(カトリック教会)のモザイク画は、飼い葉桶を祭壇のように、御子を聖餐のパンのように描いています。ベツレヘムは、パンの家という意味の言葉です。信者たちは飼い葉桶の御子を礼拝することによって、その御身を裂かれた十字架のキリストを礼拝したのです。

 中世のドミニコ修道会修道院(カトリック教会)では、修道女が入会する際、ロウで造った御子を持参しました。そしてクリスマスになると、修道女たちはその御子を抱き、世話をするのです(「イエスの子守り」と呼ばれる)。すなわち彼女たち自身が飼い葉桶となり、御子を抱き礼拝することによって、インマヌエルのキリストを礼拝したのです。(インマヌエルとは、神は我々と共におられるという意味)

 宗教改革者ルタ-(プロテスタント教会)は、「聖書はその中にキリストが横たわる飼い葉桶である。母親が赤ん坊を見出すためにゆりかごに行くように、

わたしたちはキリストを見出すために聖書を読むべきだ」と言いました。聖書は飼い葉桶であり、その中にキリストを見出すことができるのです。ですから信者たちは、飼い葉桶の御子を礼拝することによって、民全体を救いに入れようとする神の愛を見出し、愛のキリストを礼拝したのです。

 

 先日、立石嘉子さんの納骨式をメモリアルホ-ルで行いました。その際に、

「幼子イエスは、墓であるこの場にその身を横たえられ、共にいてくださいます。十字架に死んだイエスも、墓であるこの場にその身を横たえ共にいてくださいます。復活のイエス・キリストは、この墓を開き、立石さんの御霊を神の国に迎え入れ、そこに共にいてくださいます。そして終わりの日、再臨の主イエス・キリストが来て下さり、立石さんの亡骸を復活させ、まったき体としてくださり、ご栄光を讃える者としてくださるのです。」とお話しさせていただきました。

 それでは立石さんと共にいてくださる主を、私たちはどこに見出すことができるのでしょうか。まず私たちは、私たち一人ひとりの腕の中に、インマヌエルの御子を見出すことができます。私たちを飼い葉桶とし、御子はいてくださるのです。次に私たちは、日々読む聖書の中に、神の愛の実現である御子を見出すことができます。聖書を飼い葉桶として、御子はいてくださり、み言葉をもって励ましてくださいます。さらに私たちは、教会の聖餐の中に、その身を裂かれた十字架の御子を見出すことができます。教会を飼い葉桶として、御子はいてくださり、裂かれたパンとして私たちを養ってくださいます。最後に私たちは、自らの墓と棺の中に、復活と再臨の御子を見出すことができます。墓を飼い葉桶として御子はいてくださり、墓を開いて永遠の命を与えてくださるのです。

飼い葉桶に眠る御子は、天から届けられた玉手箱です。そこには、私たちにとって大切な命が宿っていて、私たちがこの御方を探し出し礼拝するならば、若々しい命の恵みをいただくことができるのです。

「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか。」 この呼びかけに応え、新しい年、命の御子のもとにあって賛美の日々を過ごしてまいりましょう。

2020.12.13 降誕前第2主日​​    アドベント第3主日

<今週の聖句>

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

(マタイによる福音書1章23節)

 「神は我々と共におられる」      深見祥弘

                       <今週の聖句>

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

(マタイによる福音書1章23節)

 

「神は我々と共におられる」      深見祥弘

 アドベントクランツに、三つ目の光が与えられました。もう一つ光が与えられると、私たちはクリスマスを迎えることになります。旧約聖書・イザヤ書9章に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」と書かれています。コロナ禍にあって、私たちは、まさに闇の中を歩む民でありますが、御子の誕生によってもたらされる喜びの預言を信じるものでありたいと願います。

 先週、東広島教会よりお便りをいただきました。礼拝後の祈祷会で、お祈りさせていただいたことに対するお礼状です。「近江八幡教会祈祷会の皆様 祈りの中に私たちを覚えて下さりありがとうございます。4月に新しい牧師を迎えましたが、直後に礼拝堂での礼拝休止、それでも7月にはささやかながら就任式を行いました。無牧の時、『新しい牧師を招いたら』といろいろな企てがありました。しかし今は、『思い通りにいかない歩み』の傍らにこそ、主が共にいてくださると信じています。クリスマスを迎えようとされている皆様の傍らに主が共におられますように。」と書かれていました。また、濱田裕三牧師が自筆で、「学生時代、野洲の第2びわこ学園で臨時職員として働きました。近江八幡へも何度か足を運びました。とても嬉しいです。」とお書きくださっておりました。不安や恐れの中で過ごしてきた一年でありましたが、両教会において、主が共にいてくださることを信じ、祈りをささげることができます恵みに感謝いたします。

 

 今朝の御言葉は、マタイによる福音書1章18~25節です。ここにはヨセフに対するキリスト誕生の告知とキリストの誕生の出来事が記されています。ナザレに住むヨセフは、婚約者のマリアが身ごもっていることを知りました。マリアに神の力(聖霊)が働いて身ごもったのですが、ヨセフはそのことを知りませんでした。マリアが他の男性と不倫をしたと思い、怒りや悩みを抱きましたが、マリアを問い詰めたり、誰かに相談することはしませんでした。聖書には、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19)と書かれています。この「正しい人」とは、律法を守る人のことです。律法で姦淫の罪は、石打ちの刑(死刑)に処せられることになっていました。それでは、ヨセフは「正しい人」としてマリアを裁いたのかというと、それはできませんでした。なぜなら彼は、マリアを愛していたからです。では「愛の人」ヨセフは、マリアをゆるすことができたのかというと、それもできませんでした。彼は、「正しい人」と「愛の人」との間に立って深く悩み、見出した結論が「ひそかに縁を切る」ことでした。すなわち、マリアを彼のもとから、すなわちナザレの町から追放することで解決を図ろうとしたのです。でも追放されるマリアと生まれてくる赤ちゃんは、いったいどうなるのでしょうか。

ヨセフが決心したその夜、主の天使が彼の夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(20・21)  ヨセフが恐れていたのは、自分が正しい人であるか否か、愛の人であるのか否か、そして人から良く見られているのか否かが明らかなることでした。ヨセフは、主の天使の言葉に従い、マリアを妻に迎え入れ、生れてきた子にイエス(主は救うという意味)と名付けました。ヨセフは、この出来事を自分の正しさや愛、人の意見によって判断するのではなく、神のご意志に従おうと、決心をしたのでした。ヨセフは、自らが正しくあろうとすればするほど、愛そうとすればするほど、悩みが深くなることを経験しました。そこで彼は、天使の言葉に従うことにしたのです。イエスは、このような人の悩みや罪の中にお生まれになられます。人々を罪から救い、悩みから解き放つためです。

 加えてイエスは、普通の人としてお生まれになられます。イエスという名は、当時のユダヤではごく一般的な名前でありました。ナザレは、当時ユダヤの人々から「ナザレから何のよいものが出ようか」と言われていた町でありました。主の天使は、そんなナザレに住むヨセフに、預言者イザヤの預言(イザヤ7:14)を伝えました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この救い主は、普通の人々のところに、恐れ悩む人々のもとに、罪人の中に、そして人々から顧みられることのない人々のところにお生まれになられ、共にいてくださるのです。「イエス」、この御方の別名は、イザヤが到来を預言していた「インマヌエル(神は我々と共におられるという意味)」です。

 

ある病院のチャプレンが、こんなことを書いておられました。患者さんが医師や看護師に「もう私はだめなのでは」と問いかけた時、「そんなことを言わないで。血圧を測りましょう」と言って医療行為に逃げてしまうことがある。患者さんが牧師に「わたしは死んでしまいたい」と訴えると、牧師は話を聞きますが、答えるすべを見出せないとわかると、そこから逃れるように「それじゃあ聖書を読んでお祈りしましょう」と話を切ってしまうことがある。「そんなとき、どれほどカウンセリングの知識と援助技術をもっていても役に立たない。ただ、患者さんが生き死にに関わるような深刻な問いを発するときは、自分にとって重要でない人に向かってそのような深刻な問いはしないものだ。もし患者さんから深刻な、答えに窮するような質問を受けたときは、その人は患者さんから見れば、なくてはならぬ重要な存在なのだ。その人の存在そのものが患者さんに必要なのだ。」その上で、「もう少しだけ病人のそばにいて、話を聞いてあげればよいのにと思うことがある」と書いておられました。どのような状況であっても、愛をもって共にいることがどれほど難しいことかを、私たちは知っています。もう語る言葉もなく、ただ傍にいるだけで、自分も不安でたまらない。しかしそんな時、そこにインマヌエルの御方・イエスが共にいてくださる、そのことで私たちもそうした人々の傍らにいることができるのです。

 

神がヨセフとマリアを選ばれたのは、このふたりが悩み恐れる人であったからでした。さらに普通の人であり、蔑まれていたナザレの人であったからです。主イエスは、多くの苦悩する人々と共にいて下さいます。ですから私たちも、インマヌエルなる御方が共にいてくださることに信頼し、「共にいる」というプレゼントを、救いを待ち望む人々に差し上げたいものです。

2020.12.6 降誕前第3主日
​アドベント第2主日

<今週の聖句>

​家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

(マタイによる福音書2章11節)

『献げ尽くす人生』

ヴォーリズ記念病院チャプレン

​​          中村信雄教師

『献げ尽くす人生』

ヴォーリズ記念病院 チャプレン 中村信雄

 

 救い主が誕生なさったとき、2つの反応がありました。そのことを喜んだ人たち、そのことで不安を抱いた人たちです。

喜んだ星占いの博士たちは、輝く星を頼りに救い主のもとへ向かいました。そして人生の中で手に入れた高価な宝物、黄金、乳香、没薬を献げました。飼い葉桶の救い主と出会い、すべてを献げ、なお喜んで帰って行きました。

不安を抱いた王様は、子どもたちの命をすべて絶とうとします。地位、名誉、財産…、自分が手にしたものをいつか奪われてしまうと思ったからです。多くを手に入れましたが、失うことを非常に恐れていました。

 私たちは、この世に誕生してから、様々なものを手に入れました。努力してやっと手にしたものもあります。苦労すればするほど自分にとって大切な宝物となるでしょう。しかし、自分の力では守りきれないときが必ずやってきます。年齢を重ねたり、病を得たり。それでも必死に握りしめていると、自分の手から「奪われる」、「もぎ取られる」、そう感じるかもしれません。無力さを突きつけられ大きな痛みが生じます。

そんなとき神様にお献げすることが大切です。何も持たずに生まれてきた私たちに、必要なものを与えてくださったのは神様なのですから。やがてこの世の命を終えるとき、そのすべてを神様にお返しするのです。どこかに失ったり、誰かに奪われるのではありません。

神様に1つずつお献げしていくときに気付くはずです。神様がこの私をどれほど愛してくださっているのか、ということを。そのとき私たちができることは1つだけです。神様への感謝です。「神様、この命を、この人生をありがとうございました。」感謝してすべてを献げたとき、なお喜んで帰っていくのです。神様のもとに。安らかな気持ちで。

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