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2020.9.13 聖霊降臨節第16主日

<今週の聖句>

ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えてくださるように。                   (創世記27章27~28節)

 「父の祝福」  深見祥弘牧師

                       <今週の聖句>

ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えてくださるように。                                  (創世記27章27~28節)

              「父の祝福」          深見祥弘

 「これで礼拝は終わった。あなたがたは出て行って 主イエス・キリストを証ししなさい。主が世の終わりまで あなたがたと共にあるように。

主があなたを祝福し あなたを守られるように。主が御顔をもって あなたを照らし あなたを恵まれるように。主があなたに御顔を向けて あなたに平安を賜わるように。ア-メン。」

これは、礼拝終了前に行う祝祷文です。この祝祷は、東所沢教会の山下萬里牧師が、礼拝の祝祷として整え用いておられたものです。私が後任として東所沢教会に着任した時、「あなたにこの祝祷を渡します。礼拝で用いてください」と言われ譲り受けました。以来、東所沢・近江八幡両教会で20年間、用いてきました。「これで礼拝は終わった」は、礼拝の終わりを告げる言葉です。「あなたがたは出て行って 主イエス・キリストを証ししなさい。主が世の終わりまで あなたがたと共にあるように」、これはマタイによる福音書28章19~20節、復活の主が弟子たちを祝福し派遣する言葉を、祝祷に整えたものです。「主があなたを祝福し あなたを守られるように。主が御顔をもって あなたを照らし あなたを恵まれるように。主があなたに御顔を向けて あなたに平安を賜わるように」、これは旧約聖書・民数記6章24~26節、アロンの祝祷です(アロンはモ-セの兄で祭司の始祖)。 「ア-メン」(まことにという意味)、このことを、私たちは心から信じますと告白するのです。

私は東所沢教会山下牧師の後任者でしたが、それ以前国分寺教会の副牧師であった時も、先生は主任牧師でありましたし、公私ともにお世話になりました。私にとって教師であり、また父親のような存在でもありました。

 今朝の御言葉は、旧約聖書・創世記27章、祝福を奪い取ったヤコブの話です。まずこの出来事に至るまでの事をお話いたしましょう。

アブラハムとその妻サラとの間に生まれたのは、イサクです。アブラハムは、僕エリエゼルを故郷ハランに遣わし、イサクの嫁を探させました。エリエゼルはハランの町の井戸に来ると、神に祈りました。「この町に住む娘たちが水を汲みに来た時、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と言います。『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになられたものとさせてください」(24:13~14) そして、そう答えたのが、リベカでした。

さてイサクとリベカには、20年間子どもが与えられず、ようやく授かったのが、エサウとヤコブの双子でした。二人は、どちらが先に生まれるかを母の胎内で争い、生まれてきました。はじめに生まれてきた子は、赤くて全身毛だらけでしたので、エサウ(赤い)と名付けられました。続いて生まれた子は、兄のかかとをつかんでいましたので、ヤコブ(かかと)と名付けられました。父イサクは、野に出て狩りをするのが得意な兄エサウを愛しました。また母リベカは、天幕で働くのが好きな弟ヤコブを愛しました。ある時、エサウが狩りから戻って来ると、ヤコブはレンズ豆の煮物を作っていました。空腹であったエサウがそれを食べさせてほしいと願うと、ヤコブは長子の特権を譲ってくれるなら差し上げましょうと言いました。長子の特権とは、父より遺産を受け継ぐ時、長男は他の兄弟より2倍の財産を受け継ぐという特権のことです。「長子の特権などどうでもよい」とエサウが言うと、ヤコブは「では誓ってください」と言いました。エサウは誓い、豆の煮物と引き換えに、長子の特権をヤコブに譲ってしまったのでした。

さて、今朝の御言葉27章には、このように書かれています。イサクは歳をとり、目がかすんで見えなくなりました。彼は、長子の祝福(家の跡継ぎに与える祝福)を、エサウに与えることにしました。イサクはエサウを呼び、狩りで獲物を獲ってきてそれでおいしい料理を食べさせてほしい、それを食べて祝福を与えようと言いました。ところが、二人の話を母リベカが聞いていました。リベカはすぐにヤコブを呼ぶと、子ヤギで料理を作るように命じました。料理ができると、今度はヤコブに、エサウの服を着せ、毛皮を腕や首につけさせて父親のところに料理を持って行かせました。ヤコブが「わたしのお父さん」と呼びかけると、イサクは「わたしの子よ。誰だ、お前は」と尋ねました。声はヤコブのものでしたが、匂いはエサウのものでした。ヤコブが、「エサウです。どうぞ、わたしの獲物を召し上がり、祝福を与えてください」と言うと、「どうして、こんなに早くしとめられたのか」と尋ねました。「主が計らってくださったからです」と答えると、イサクは「触って、お前がエサウかどうか確かめたい」と言いました。イサクは触りながら、「声はヤコブだが、腕はエサウの腕だ」と言い、もう一度「お前は本当にエサウなのだな」と問うと、「もちろんです」とヤコブは答えました。こうしてイサクは料理を食べ終えると、ヤコブを祝福して言いました。「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えて下さるように。多くの民がお前に仕え 多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり 母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ お前を祝福する者は祝福されるように。」

 

 私たちは、手紙などに「祝福を祈ります」と書きます。「祝福」は、神から与えられる幸福のこと、特に命に関わるすべてのこと(誕生、健康、富、繁栄、永遠の命)を意味しています。また神から祝福を受けた者は、今度は祝福する者に変えられます。神は、「あなたは、多くの国民の父となる」(17:4)と言ってアブラハムを祝福しましたが、その祝福は子のイサクに、そして孫のヤコブにと受け継がれていきました。

イサクがヤコブに与えた祝福を見てみましょう。「ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ」、ここでイサクは、神の祝福が神によって創造された世界に、またわが子に与えられることを感謝しています。「どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなものの穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように」では、わが子に神の恵みが豊かに与えられ、その命の日々が祝福されるようにと祈っています。さらに「多くの民がお前に仕え・・」のところでは、神がアブラハムとの約束を実現するように祈っているのです。

ところで、祝福を奪われたエサウは、その後どうなったのでしょうか。獲物を持って帰って来たエサウは、ヤコブに祝福を奪い取られたことを知ると、「このわたしも祝福してください」と願いました。しかし父は「ああ 地の産み出す豊かなものから遠く離れた所 この後お前はそこに住む 天の露からも遠く隔てられて。」(27:39)と答えました。その言葉のとおり、エサウは、父イサクの死後、エドムという異邦人の地に暮らします。イスラエルでは、律法を守らない異邦の人々を罪人と呼び、呪われるとされたのですが、かつて神は、アブラハムに諸国民を祝福すると約束されました。このあい反することを解決するために神がなさったこと、それがイエス・キリスト(人々が罪人と烙印を押し呪う者であると同時に、神が義人とする御方)を与えることでした。すなわちイエス・キリストが、十字架に架けられ呪われて死に、新しい命をもって復活することで、イエスを主として信じるすべての人々が、神の祝福(永遠の命の継承者)の恵みにあずかることができるようになる、これが、神のご計画されたことでした。私たちの教会の祝祷「あなたがたは出て行って、主イエス・キリストを証ししなさい」、この言葉には、私たちが主イエスの命の継承者とされたことの感謝と、遣わされていく私たち自身が祝福する者に変えられ、神の大いなる計画の担い手とされることの喜びがあらわされているのです。

2020.9.20 聖霊降臨節第17主日

< 今 週 の 聖 句 >

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

  (マタイによる福音書7章7-8節)

 

「 何を求めるのか」 仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

                (マタイによる福音書7章7-8節)

 

          「 何を求めるのか 」       仁村 真司

 前回はマタイ福音書(18章12―14節)とルカ福音書(15章4―7節)が共に伝えている百匹の羊の内の一匹がいなくなったら、見つけるまで捜しに行くというたとえ話を見て行きましたが、この他にもマタイとルカが共に伝えているイエスの言葉は沢山あります。

 今回はその中から「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という有名なイエスの言葉について、マタイ福音書はこれをどのように捉えているのか考えて行きます。

 1)

 マタイ福音書では、7節の「求めなさい」から11節の「・・まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物くださるにちがいない」まではルカ福音書(11章9―13節)とほぼ同じ文章ですが、その後(12節)に「黄金律」と呼ばれる「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」が来て、そして「これこそ律法と預言者である」・・ここで一区切りという感じになっています。

 この“一区切り”は、5章17節に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とありますが、ここから始まっていると考えられます。

 イエス・キリストは「律法と預言者」(=旧約聖書)を完成するために来た、律法の完成者であるとするマタイ福音書は、旧約律法に対してイエスが「しかし、わたしは言っておく」という形で語る「腹を立ててはならない」・「姦淫してはならない」・「敵を愛しなさい」等の「反対命題」や「主の祈り」等、イエスが語ったこと、語ったと伝えられていたことを、教会の倫理、キリスト者が従うべき「イエス・キリストによる律法」としてまとめて記して、「・・これこそ律法と預言者である」と締めくくっています。

 つまり、「求めなさい。そうすれば与えられる」を「イエス・キリストによる律法」の一部、一つとして捉えているということになります。

 2)

 そういったことで、本当は5章17節の「律法や預言者を・・完成するためである」から7章12節の「・・これこそ律法と預言者である」までを通して見て、その流れの中で「求めなさい・・」について考えるのが良いのでしょうが、今回は手前の7章1節「人を裁くな」から見て行くことにします。

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」、3節「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(梁)には気づかないのか。」

 おが屑と丸太では比べるまでもなく丸太の方が大きいですし、おが屑は文字通り「屑」で、捨てるものですが、丸太(梁)は捨てるものではなくて、建築物の一部・・という辺りにもポイントがあるような気がしますが、とにかく「人を裁くな」。人を切り捨てるな、決めつけるな、偏見を持つな、差別するな・・ということです。

 これに続いて6節には「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」とあります。「人を裁くな」で人との関わり方、そしてその次に犬や豚、動物との関わり方・・ということでは勿論ありません。「犬」も「豚」も明らかに人のことです。

 では、どういう人のことか・・。異邦人のことだとか非キリスト教徒のことだとかいろいろと考えられていますが、「あなたがたにかみついてくるだろう」は「あなたがたを引き裂くだろう」とも訳せますから、「犬」や「豚」は「あなたがた」にとって大きな脅威になる人たちのことのようです。マタイはここで自分たちを迫害する人たちのことを考えているのかもしれません。マタイたちはユダヤ教徒から厳しい弾圧を受けていました。

 それならば、こういうことを言わずにはいられないのも無理はないとも思いますが、「人を裁くな」―切り捨てるな、決めつけるな、偏見を持つな、差別するな―このすぐ後に、人を犬や豚呼ばわりするというのはどうなんだろうとも思います。

 マタイが沢山の、矛盾していると思えるようなものも含む、イエスの言葉を記して来て、最後に12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」とまとめているのは、「人を裁くな」という時もある、「神聖なものを犬に与えるな。真珠を豚に投げるな」という時もある。けれども、どんな状況であっても、根本は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」、これに拠らなければならないということだと思います。

 

 3)

 この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と、パウロが言った「律法の全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)には通じる所があるような気がします。

 そうすると、聖書にはいろいろなことが書いてあるけれども突き詰めれば、どんな状況であっても、イエス・キリストに倣って、また隣人愛あるいは黄金律に拠って、どうするのか決める、決断する、それがキリスト者であるということなのでしょうか。

 私は「キリスト者としての決断」、「キリスト者に相応しい決断」というようなものは本来ないと思っています。

 イエスは私たちに「自分で決めなさい」とか「決断しなさい」とは言っていません。そうではなく、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言っているのだと思います。

 マタイ福音書が伝える「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とは、苦しみの時、悩みの時、どうすれば良いのかわからない時、私たちが知っている事柄、智恵や知識に拠って、あるいは(本当には出来ないのですが)神の御心を推し量って、忖度して、決める・決断する、そんなことはしなくて良い、してはならない。そうではなく「求めなさい」ということだと思います。

 何を求めるのか、何を求めるのがキリスト者として正しいのか・・。わからなくても、考えなくても良い。ただ神に求める、それがキリスト者である。そして、そうすれば神は良いものを与えてくださる、答えてくださるということです。

 このように考えると「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」よりも「求めなさい、そうすれば与えられる。これこそ律法と預言者である」と締めくくった方がピッタリと“収まる”ような気もして来ます。

 しかしそれ以上に、「律法と預言者」というようなことには収まり切らない、奥行きと言うか、深さと言うか、広がりと言うか、そういうものがイエスの言葉から、「求めなさい、そうすれば与えられる」からは感じられます。

 次回は「求めなさい。そうすれば与えられる」について、ルカ福音書を通して更に考えて行きたいと思っています。

2020.9.6 聖霊降臨節第15主日

<今週の聖句>

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エフェソ5章19~20節) 

「キリストはあなたを照らさる。」      深見祥弘牧師

  <今週の聖句>

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エフェソ5章19~20節) 

 

「キリストはあなたを照らされる」      深見祥弘

 かつて教会では、9月第一日曜日を「振起日」と呼び総員礼拝を行いました。暑い夏が終わり、弱さを覚える時、主が与えてくださる新しい力によって、もういちど信仰を振い起こしていただくことを願って礼拝を守りました。

 私は高校2年生の夏にプチ家出をしました。学校のことなどがいやになって、そこから逃れようとしたのです。和歌山から大阪に行き、自分を受け入れ救ってくれるものを求めて、何時間もさまよい歩きました。しかし、そうしたものなどなく、夏の強烈な光の中で、心身ともにどろどろになって家に戻ったのでした。やがて、私に示され、与えられたのは神学校への入学でした。神は私を教会ではなく、伝道者を養成する学校に導かれたのです。私には、その時、信仰がありませんでした。神は闇の中にいて、救いを求めてさまよい出た私を、強烈な光で打ち、伝道者として立てようとされたのです。まさに生きて働かれる聖霊の働きによるものでした。神はこのように思われたにちがいありません。この者は、自我の固まりのような存在なので、他の人のように教会へ招いて、洗礼へと導き、時を経て献身の決意を与え伝道者にするという道ではだめだろう。途中で挫折するかもしれないし、あたかも自分で信仰を勝ち取ったように思い上がるかもしれない。

以来私は夏が来るたびにこの出来事を思い出し、私の救いの原点に立たせていただき、信仰を振い起こしていただいているのです。あの時、闇の中にいた私は、キリストの光に照らし出されたかのような経験をしました。その時与えられた恵みを証しするように、今こうして立てられているのだと思います。ですから、闇の中から明るみに出された私の罪の姿を見て、つまずかないでほしいのです。キリストがそのような私を悔い改めに導き、新しい命に生かし立たせてくださる、そのことをしっかりと見てほしいと願います。

 

 聖書を読むようになった私は、聖書の中に自分と同じような体験をした人物、使徒パウロがいることを知りました。パウロは、かつて教会の迫害者でした。ある時彼は、迫害を逃れてダマスコに向かった信者を捕らえるために、出かけました。ダマスコに近づいた時、突然天からの光に打たれ、地に倒されると「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」との声を聞きました。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ」との答えがありました。光に打たれてパウロの目は3日間見えなくなりましたが、主の命令によってアナニアが彼のもとを訪ね、その目を開き洗礼を授けました。洗礼後、聖霊に満たされたパウロは、ダマスコの諸会堂で「イエスこそ神の子である」と宣べ伝えはじめたのです。この回心は、パウロにとって強烈な体験でした。生きておられるキリストが、突然天からの光として臨み、実を結ばない暗闇の業に加わっていた彼を明るみに出して打倒し、立ち上がらせて伝道者としました。それゆえにその後のパウロは、どんな闇の力が挑み来ても絶望することはありませんでした。人の目には、パウロが「眠りについている者、死者」(5:14)に見えても、彼はキリストの復活の光で照らされて、死から立ち上がらせてくださることを知っていたからです。

 

 今朝の御言葉エフェソの信徒への手紙は、獄中書簡の一つです。パウロは

61~62年頃、ロ-マで投獄されていました。その彼が、エフェソの教会に書き送ったのがこの手紙です。パウロは闇と表現するにふさわしい状況にいましたが、やはり迫害などの困難の中にいるエフェソの信徒たちを思い、どのような心備えをして生活をすればよいかを教えたのです。その心備えとは、次の四つです。まず、「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(5:15)です。キリストが人の罪を赦し、憐みをもって救ってくださったように、あなたたちも互いに親切にし、赦し合いなさい。決して、あなたがたの考えや感情によって、人を裁いてはいけないと教えました。

次は、「時をよく用いなさい」(5:16)です。私(パウロ)自身も諸教会も、置かれている状況は、闇の中にいるように見えます。しかし、キリストはあなたがたを照らしてくださっているのですから、与えられている時を用いて、キリストを証ししなさいと勧めています。実際パウロは獄の中にいても、その時を用いて、自分を闇の中から立ち上がらせて下さったキリストを証ししたのです。

さらに「酒に酔いしれてはなりません」(5:18)「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(5:19)と教えています。あなたがたは、苦難の中にあってもそこから逃れるために飲酒に走ってはなりません。なぜなら酔いがさめた時、その不安はさらに大きくなり、やがて飲酒から逃れられなくなってしまうからです。あなたがたを苦難としっかりと向き合わせ、苦難の中にあってもあなたがたを喜びと感謝に導くのは、詩編と賛歌と霊的な歌であると述べています。

 

エフェソはじめ初代教会は、「詩編と賛歌と霊的な歌」によってそれぞれ苦難と向き合い、弱くなっている信仰を振い立たせました。この「詩編」とは、旧約聖書におさめている150編の詩編のことです。教会の礼拝において、詩編を会衆全員で歌ったり、聖歌隊が歌うのを聴いたり、また交唱したりいたしました。次に「賛歌」とは聖書に収められている賛美の歌です。旧約聖書には、モ-セの歌(出エジプト15章、申命32章)、ハンナの祈り(サムエル上2章)、ハバククの祈り(ハバクク3章)、イザヤの祈り(イザヤ26章)、シオンへの帰還を喜ぶ歌(イザヤ35章)、ヒゼキヤの歌(イザヤ38章)、主のしもべの歌(イザヤ53章など)、ヨナの祈り(ヨナ2章)があります。また新約聖書には、ザカリヤの歌(ルカ1章)、マリアの賛歌(ルカ1章)、天使の歌(ルカ2章)、シメオンの歌(ルカ2章)があります。 最後に「霊的な歌」は、信徒たちによって生み出される信仰告白や教会を歌う、新しい歌のことです。その一つが、洗礼式の歌としてつくられたエフェソ5:14「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」です。このように、教会では「詩編」と「賛歌」と「霊的な歌」が共に歌われ、聴かれ、交唱(語り合う)されることで、集う人々が再び霊に満たされ、苦難と向き合い、あらゆることについて主の名によって感謝し、まことの喜びを分かち合うことができるように導かれたのです。

 

 先にお知らせしましたように、教会のハルモニウムオルガンの大修理を行うこととなりました。1929年、フランスから海を渡ってこの教会に来たオルガンには、様々な出来事がありました。戦時下において、また会堂火災に際しては、火と水をくぐり抜ける体験をいたしました。しかし、このオルガンは91年にわたって礼拝に集う人々の信仰に寄り添い、その賛美を支え続けてきたのです。

今、コロナ禍にあって先行きの見えない闇の中に置かれていますが、主は救いを求める私たちをキリストの光で照らしてくださっています。パウロが教えたように、互いに赦し合い、時を用いてキリストを証しし、詩編と賛歌と霊の歌をもって主をほめ歌い、あらゆることについて主イエス・キリストの名により、父である神に感謝をささげてゆきましょう。すべてのものに満ちておられる主が、私たちの信仰を振るい起し、私たちに必要なすべてのものを満たしてくださることでしょう。

2020.8.9 聖霊降臨節第11主日

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2020.8.2平和聖日礼拝

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