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2020.9.27 聖霊降臨節第18主日

<今週の聖句>

わたしは羊の門である。・・わたしは良い羊飼いである。

(ヨハネによる福音書10章7・11節)

「わたしは良い羊飼いである」       深見祥弘牧師

 

 2020年度も半分の月日が過ぎようとしています。今年度、私たちの教会は、

年間標語を「安らぎの教会−主の群れとして−」とし、年間聖句をイザヤ書40章11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」としました。また年間讃美歌は、先ほど歌いました120番「主はわがかいぬし」です。羊飼いである主は、私たちを養い、群れから迷い出た者や群れの外にいる者を集め、弱き者をふところに抱き、群れの者を導いてくださいます。私たちの教会は、御言葉のとおり主の導きと養いと守りをいただくことで、ここに安らぎを実現し、この主にある安らぎを、多くの人々に宣べ伝えることを願っているのです。

 

今朝の御言葉は、ヨハネによる福音書10章です。大変有名な箇所で、私は何度もここを読み、お話してきました。しかし御言葉は不思議なもので、読むたびに新たに教えられることがあります。今回は3節「門番は羊飼いには門を開き」という言葉から気づきを与えられました。羊の囲いには門があり、そこに門番がいるのです。羊の囲いとは、木の柵や石を積んでつくった囲いで、そこには出入り口があって、羊飼いの見習いのような者が門番をしていると思っていました。今回調べてみて解ったことですが、「囲い」と訳されている言葉は、「中庭」とも訳されることを知り疑問が解けました。そこは大きな屋敷なのです。この屋敷の主人がたくさんの羊を所有していて、夜の間、屋敷内の中庭に羊を入れています。朝になると主人に雇われた羊飼いたちがきて、門番に中に入れもらい、自分に託された羊たちを連れ出して、水場や草地に連れて行くのです。

随分前のことになりますが、私が聖地旅行に行ったのは、5月下旬の乾季に入った頃でした。ほとんど何も生えていない荒れた丘に、幾層もの横すじが入っているのを見たので、ガイドさんにこれは何かと聞いてみると、ヤギや羊が草を食べながら歩いた道すじだということでした。そうしたところを行くのですから、羊飼いは安全に気を配りながら道を示さなければなりませんし、水場がどこにあり、どこにいけば乾季でも草があるのかを知っていなければならないのです。乾季には水場や草地に限りがあるので、羊飼いが連れて移動するのは、小さな群れでした。平原ではないので、羊飼いが羊を見失うこともありますが、その時は声で羊たちを導きます。そして羊たちは、自分たちを導く羊飼いの声をよく知っているのです。

 

イエスは、ヨハネ福音書10章で、ご自分を2つのものに譬えておられます。まず、「わたしは羊の門である」(7)と言われました。門をくぐって中庭に入る羊たちは、外敵から守られます。同様にイエスを通ってその家(教会)に入る者は守られます。また、門を通って出て行く羊たちは、羊飼いによって水場や草地に導かれますが、同じようにイエスを通って家の外に出て行く人は、豊かな養いをいただくことができます。

次に「わたしは良い羊飼いである」(11)と言われました。羊飼いの多くは、主人に雇われた者たちでしたが、イエスはそうではありませんでした。「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」(15)、「父はわたしを愛してくださる」(17)、「わたしと父とは一つである」(30)と言っておられるように、イエスは主人の息子、すなわち父なる神の息子であるということです。雇われている羊飼いは、狼に襲われると羊を置いて逃げてしまいますが、羊の持ち主である主人の息子(良い羊飼い)は、羊のために命を捨て、さらに迷う羊をもその群れに導き入れるのです。

 「羊飼い」「牧者」、これは、イスラエルの王や祭司といった権力者の呼称でした。エレミヤ書50章は、バビロン捕囚の悲劇を語っています。「わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ、山の中を生き巡らせた。彼らは山から丘へと歩き回り、自分の憩う場所を忘れた」(6) この羊飼いたちとは、イスラエルの王たちのことです。彼らはアッシリアやバビロンといった敵(盗人・強盗)に襲われた時、逃げ出してイスラエルの民を渡してしまったのです。また、エゼキエル書34章は、そうした状況の中、神が一人の牧者をお立てになられることを預言しています。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」(23)、「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。・・わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(11・16)  そして、イザヤ書40章「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(11)は、捕囚の地バビロンからの帰還を語っています。主の御腕は強く、羊飼いとして民を養い、捕囚によって散らされていた人々を集め、弱き者をふところに抱き、民を祖国に導くのです。

 

この預言者たちの預言が、神の子イエス・キリストにおいて実現したと、イエスは譬えによって語っています。神の家(イスラエル)があって、かつてそこに神の民が集っていました。しかし、雇われた羊飼いである王や祭司たちは、自らの利益のために民をむさぼり、都合が悪くなると逃げ出しました。また、この家をしばしば大国(アッシリア・バビロン)という盗人や強盗が襲い、民を連れ去りました。神は、これを見て、一人の牧者をお立てになられました。それがダビデの末裔神の子イエス・キリストでありました。イエスは、弱き人々を愛して門をくぐらせて、その守りと養いのもとに置いてくださいます。また良い羊飼いであるイエスは、御自分の民の救いのために命を捨てられます。さらにまだ囲いの外にいる羊を導くために、声をあげます。その声はイエスのものでありますが、同時にかつて民が神の家で聞いた神の声です。民はその声に導かれて神の家に入り、一つの群れとなるのです。

 

 私たちは、神の家、羊飼い、その群れ、これらによって2つの教会の姿を見ることができます。一つは、散らされていた人々が、イエスの門(イエスを主と告白する信仰)をくぐり、神の家に集められ、一つの群れとされた全体教会の姿です。もう一つは、毎日曜日、イエスの門をくぐってやってくる、雇われ羊飼い(牧師)と小さな群れ(各個教会)の姿です。雇われ羊飼いは限界のある人間ですが、羊飼い自らもイエスの門を通って悔い改め、信仰を告白し、養いと守りをいただきます。では、旧約時代の羊飼いとイエス以降の羊飼いは、どこがちがうのでしょう。それは、イエス以降の羊飼いは、イエスという門をくぐった羊飼いであり、良い羊飼いである主を見て知るものであることです。また旧約時代の民とイエス以降の民は、どこがちがうのでしょう。旧約時代の民は、イエスの門をくぐることなく、その声を聞くことがなかったので迷いでてしまいました。一方、イエス以降の民は、イエスの門をくぐり、その姿を見てその声を聞いたので、その守りと養いを豊かにいただくことができるようになったのです。しかし、イエスの時代にあっても、イエスに敵対するファリサイ派の人々は、イエスの門をくぐることがなかったので、イエスの声に神の声を聞くことができませんでした。たとえ雇われ羊飼いであっても、牧師の声をイエスの声として聞き分けていただけるならば幸いです。さらにイエスの門をくぐった私たち一人一人の声に、世の人々が神の声を聞き分けてくださるならば本当に幸いなことだと思います。

2020年度、私たちの教会の祈りと願いは、ここにあるのです。

2020.9.20 聖霊降臨節第17主日

<今週の聖句>

もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。                          (ヨハネによる福音書10章37~38節)

 

「神の業を信じなさい」       深見祥弘

 「開運!なんでも鑑定団」(東テレ)という番組を見たことがありますか。

古美術や骨董などありとあらゆるものを専門家がみて、今、どれくらいの価値があるのかを鑑定する番組です。家の中に無造作に置かれていたものが、驚くほどの値が付いたり、家宝として長年大切に保管してきたものが偽物であったりします。私もこれはいくらと予想しますが、本物と偽物を見分けることはむつかしいのです。この番組のレギュラ-鑑定士の一人が、中島誠之助さんです。骨董商をしておられた古美術鑑定家で、特に古伊万里など焼き物の専門家です。この方の決めセリフは「いい仕事をしていますねえ」です。古伊万里焼きの皿を鑑定し、その業を見てそのように言うのです。また、鑑定の結果、価値の低いものであっても、その品のよい所を褒め、「大切になさってください」と鑑定依頼者をねぎらいます。人は、箱書きなどからその品が価値あるものと判断するのですが、中島さんはその業を見て真偽を見分けます。今朝の御言葉に出てきた「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」というイエスの言葉から、「いい仕事をしていますねえ」と言ってその業から真偽を見分ける中島誠之助さんのことを思いました。

 

今朝の御言葉はヨハネによる福音書10章です。先週9月27日の説教でお話ししたのですが、イエスは、あなたは何者なのかと問うユダヤ人たちに「わたしは羊の門である」(7)「わたしは良い羊飼いである」(11)と答えられました。しかし、その言葉の意味を理解できない彼らとイエスとのやり取りが、22節~38節に記されています。

神殿奉献記念祭は、毎年キスレウの月(11~12月)にエルサレム神殿で8日間行われる祭りです。かつてシリア王アンティオコス4世によってエルサレムが攻撃され、神殿の物品が略奪される出来事がありました。これに対し、BC165年、祭司マタティアらがエルサレムと神殿を奪還し(マカバイ戦争)、神殿を清めて礼拝を献げました。以来この出来事を記念し、祭りがおこなわれるようになりました。

この祭りでのことが記されているのは、イエスがユダヤ教指導者たち(ユダヤ人たち)から神殿を奪還し清めることを暗示しています。イエスが神殿の境内を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲み「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と迫りました。するとイエスは、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」と言われました。イエスは、これまでご自分を「わたしは命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは羊の門である」(10:9)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)とご自分が何者なのかを紹介してこられました。しかしユダヤ人たちは、これを受け入れ信じようとしなかったのです。すなわち彼らは、イエスより永遠の命を与えるパンを受け取ろうとはせず、光の中を歩もうともしませんでした。また悔い改めてイエスという門をくぐり神の家に入ろうとしませんでしたし、良い羊飼いであるイエスの声に聴き従うこともしませんでした。父なる神が、神の子イエスによって、信じる人々に与えようとする恵み(永遠の命)を、彼らが拒み、神の家を汚していたのです。

 

これを聞いてユダヤ人たちは、石を手に取り、イエスを打ち殺そうとしました。イエスが、いったいなにをしたので(どの業によって)石で打ち殺そうとするのかとたずねると、彼らは業ではなく、自分を神とし神を冒涜したこと(「わたしと父とは一つである」と言ったこと)が理由だと答えました。旧約聖書の律法レビ記24章15~16節には、「神を冒瀆する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す」と定めているからです。するとイエスは、同じ律法に「わたしは言う。あなたたちは神々である」(詩編82:6)と書かれていて、神殿で働きをするあなたがたは、自分たちが神々と呼ばれることを受け入れているではないか。父なる神の元から遣わされてきたわたしが、神の子であると言ったからといってどうして神を冒瀆していると言えるのかと反論されました。この「神々」と呼ばれるのは、神殿で務めにあたる人々のことです。そのうえで、イエスは「もし、わたしが父の業を行ってないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」と話されました。

 

「イエスとは何者か」これは、ヨハネによる福音書1章から12章までの中心テ-マです。ユダヤ人たちは「もしメシヤなら、はっきりそう言いなさい」と迫ります。しかしこの時、イエスはユダヤ人たちに対し、そう言うあなたがたは自分を何者と言うのかと問うています。あなた方は、神殿において神に仕え務めにあたる者であるにもかかわらず、「神々」との称号により与えられた働きの領域を超え、神のごとき者となってその業をなし、神を冒瀆しているではないか、このことに気づけと、イエスは言われるのです。イエスは、メシヤという称号によって存在を示すのではなく、その業によって、すなわち「わたしは命のパンである」「わたしは世の光である」「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」という業によってご自分がどのような者であるのかをお示しになられました。そして、その業によって人々がイエスを信じるように導かれるのです。人々はイエスによってなされる業によって、父なる神の存在を、すなわち人々に対する神の愛を知るのです。

 

私たちは、教会創立120周年を覚え、礼拝で用いていますハルモニウムオルガンの修理を行うことにいたしました。このオルガンは、91年前の1929年、フランスから海を渡って私たちのもとに届けられました。私たちは、これを創ったフランス・デュモン社の職人さんの名前を知りません。私は昨年そして今年、オルガンの内部を見ましたが、これを創った職人さんの業がどうであるのかもわかりません。しかし、オルガンから奏でられる音が、長い年月を経て楽器として衰えは見せても再起不能になるようなことはなく、礼拝において私たちの賛美をしっかりと支え仕えてくれていることは、私にもわかります。このオルガンの音によって、職人さんとその業を知ることができるように思うのです。また、この度、新たな職人さんの手がこのオルガンに加えられることとなりますが、日仏両国の職人さんの業によって、礼拝する私たちの信仰が強められ、イエス・キリストと父なる神の愛を深く知ることへと導かれますようにと心から願っています。

 「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」(38)、名前でも肩書でもなく職人がどのような人かは、仕事をみればわかります。「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」というイエスの言葉は、職人の言葉です。イエスのなされた業が、腕の良い職人の残した仕事のように見えるならばすばらしいことです。イエスは、この世的に価値の低いとされる者に対しても、良い所を見つけてくださり、周りの人々に「大切になさってください」と言ってくださいます。また、イエスは価値の低いその者のために業(十字架と復活)をなし、信じる者になりなさいと呼びかけてくださっています。取るに足らぬ私を見る者が、「いい仕事をしていますね」と言い、その業をなしたイエスや父なる神を知り、信じることに導かれるならばまことに幸いなことです

2020.9.13 聖霊降臨節第16主日

<今週の聖句>

ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えてくださるように。                   (創世記27章27~28節)

 「父の祝福」  深見祥弘牧師

                       <今週の聖句>

ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えてくださるように。                                  (創世記27章27~28節)

              「父の祝福」          深見祥弘

 「これで礼拝は終わった。あなたがたは出て行って 主イエス・キリストを証ししなさい。主が世の終わりまで あなたがたと共にあるように。

主があなたを祝福し あなたを守られるように。主が御顔をもって あなたを照らし あなたを恵まれるように。主があなたに御顔を向けて あなたに平安を賜わるように。ア-メン。」

これは、礼拝終了前に行う祝祷文です。この祝祷は、東所沢教会の山下萬里牧師が、礼拝の祝祷として整え用いておられたものです。私が後任として東所沢教会に着任した時、「あなたにこの祝祷を渡します。礼拝で用いてください」と言われ譲り受けました。以来、東所沢・近江八幡両教会で20年間、用いてきました。「これで礼拝は終わった」は、礼拝の終わりを告げる言葉です。「あなたがたは出て行って 主イエス・キリストを証ししなさい。主が世の終わりまで あなたがたと共にあるように」、これはマタイによる福音書28章19~20節、復活の主が弟子たちを祝福し派遣する言葉を、祝祷に整えたものです。「主があなたを祝福し あなたを守られるように。主が御顔をもって あなたを照らし あなたを恵まれるように。主があなたに御顔を向けて あなたに平安を賜わるように」、これは旧約聖書・民数記6章24~26節、アロンの祝祷です(アロンはモ-セの兄で祭司の始祖)。 「ア-メン」(まことにという意味)、このことを、私たちは心から信じますと告白するのです。

私は東所沢教会山下牧師の後任者でしたが、それ以前国分寺教会の副牧師であった時も、先生は主任牧師でありましたし、公私ともにお世話になりました。私にとって教師であり、また父親のような存在でもありました。

 今朝の御言葉は、旧約聖書・創世記27章、祝福を奪い取ったヤコブの話です。まずこの出来事に至るまでの事をお話いたしましょう。

アブラハムとその妻サラとの間に生まれたのは、イサクです。アブラハムは、僕エリエゼルを故郷ハランに遣わし、イサクの嫁を探させました。エリエゼルはハランの町の井戸に来ると、神に祈りました。「この町に住む娘たちが水を汲みに来た時、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と言います。『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになられたものとさせてください」(24:13~14) そして、そう答えたのが、リベカでした。

さてイサクとリベカには、20年間子どもが与えられず、ようやく授かったのが、エサウとヤコブの双子でした。二人は、どちらが先に生まれるかを母の胎内で争い、生まれてきました。はじめに生まれてきた子は、赤くて全身毛だらけでしたので、エサウ(赤い)と名付けられました。続いて生まれた子は、兄のかかとをつかんでいましたので、ヤコブ(かかと)と名付けられました。父イサクは、野に出て狩りをするのが得意な兄エサウを愛しました。また母リベカは、天幕で働くのが好きな弟ヤコブを愛しました。ある時、エサウが狩りから戻って来ると、ヤコブはレンズ豆の煮物を作っていました。空腹であったエサウがそれを食べさせてほしいと願うと、ヤコブは長子の特権を譲ってくれるなら差し上げましょうと言いました。長子の特権とは、父より遺産を受け継ぐ時、長男は他の兄弟より2倍の財産を受け継ぐという特権のことです。「長子の特権などどうでもよい」とエサウが言うと、ヤコブは「では誓ってください」と言いました。エサウは誓い、豆の煮物と引き換えに、長子の特権をヤコブに譲ってしまったのでした。

さて、今朝の御言葉27章には、このように書かれています。イサクは歳をとり、目がかすんで見えなくなりました。彼は、長子の祝福(家の跡継ぎに与える祝福)を、エサウに与えることにしました。イサクはエサウを呼び、狩りで獲物を獲ってきてそれでおいしい料理を食べさせてほしい、それを食べて祝福を与えようと言いました。ところが、二人の話を母リベカが聞いていました。リベカはすぐにヤコブを呼ぶと、子ヤギで料理を作るように命じました。料理ができると、今度はヤコブに、エサウの服を着せ、毛皮を腕や首につけさせて父親のところに料理を持って行かせました。ヤコブが「わたしのお父さん」と呼びかけると、イサクは「わたしの子よ。誰だ、お前は」と尋ねました。声はヤコブのものでしたが、匂いはエサウのものでした。ヤコブが、「エサウです。どうぞ、わたしの獲物を召し上がり、祝福を与えてください」と言うと、「どうして、こんなに早くしとめられたのか」と尋ねました。「主が計らってくださったからです」と答えると、イサクは「触って、お前がエサウかどうか確かめたい」と言いました。イサクは触りながら、「声はヤコブだが、腕はエサウの腕だ」と言い、もう一度「お前は本当にエサウなのだな」と問うと、「もちろんです」とヤコブは答えました。こうしてイサクは料理を食べ終えると、ヤコブを祝福して言いました。「ああ、わたしの子の香りは主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えて下さるように。多くの民がお前に仕え 多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり 母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ お前を祝福する者は祝福されるように。」

 

 私たちは、手紙などに「祝福を祈ります」と書きます。「祝福」は、神から与えられる幸福のこと、特に命に関わるすべてのこと(誕生、健康、富、繁栄、永遠の命)を意味しています。また神から祝福を受けた者は、今度は祝福する者に変えられます。神は、「あなたは、多くの国民の父となる」(17:4)と言ってアブラハムを祝福しましたが、その祝福は子のイサクに、そして孫のヤコブにと受け継がれていきました。

イサクがヤコブに与えた祝福を見てみましょう。「ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ」、ここでイサクは、神の祝福が神によって創造された世界に、またわが子に与えられることを感謝しています。「どうか、神が天の露と地の産み出す豊かなものの穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように」では、わが子に神の恵みが豊かに与えられ、その命の日々が祝福されるようにと祈っています。さらに「多くの民がお前に仕え・・」のところでは、神がアブラハムとの約束を実現するように祈っているのです。

ところで、祝福を奪われたエサウは、その後どうなったのでしょうか。獲物を持って帰って来たエサウは、ヤコブに祝福を奪い取られたことを知ると、「このわたしも祝福してください」と願いました。しかし父は「ああ 地の産み出す豊かなものから遠く離れた所 この後お前はそこに住む 天の露からも遠く隔てられて。」(27:39)と答えました。その言葉のとおり、エサウは、父イサクの死後、エドムという異邦人の地に暮らします。イスラエルでは、律法を守らない異邦の人々を罪人と呼び、呪われるとされたのですが、かつて神は、アブラハムに諸国民を祝福すると約束されました。このあい反することを解決するために神がなさったこと、それがイエス・キリスト(人々が罪人と烙印を押し呪う者であると同時に、神が義人とする御方)を与えることでした。すなわちイエス・キリストが、十字架に架けられ呪われて死に、新しい命をもって復活することで、イエスを主として信じるすべての人々が、神の祝福(永遠の命の継承者)の恵みにあずかることができるようになる、これが、神のご計画されたことでした。私たちの教会の祝祷「あなたがたは出て行って、主イエス・キリストを証ししなさい」、この言葉には、私たちが主イエスの命の継承者とされたことの感謝と、遣わされていく私たち自身が祝福する者に変えられ、神の大いなる計画の担い手とされることの喜びがあらわされているのです。

2020.9.6 聖霊降臨節第15主日

<今週の聖句>

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エフェソ5章19~20節) 

「キリストはあなたを照らさる。」      深見祥弘牧師

  <今週の聖句>

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エフェソ5章19~20節) 

 

「キリストはあなたを照らされる」      深見祥弘

 かつて教会では、9月第一日曜日を「振起日」と呼び総員礼拝を行いました。暑い夏が終わり、弱さを覚える時、主が与えてくださる新しい力によって、もういちど信仰を振い起こしていただくことを願って礼拝を守りました。

 私は高校2年生の夏にプチ家出をしました。学校のことなどがいやになって、そこから逃れようとしたのです。和歌山から大阪に行き、自分を受け入れ救ってくれるものを求めて、何時間もさまよい歩きました。しかし、そうしたものなどなく、夏の強烈な光の中で、心身ともにどろどろになって家に戻ったのでした。やがて、私に示され、与えられたのは神学校への入学でした。神は私を教会ではなく、伝道者を養成する学校に導かれたのです。私には、その時、信仰がありませんでした。神は闇の中にいて、救いを求めてさまよい出た私を、強烈な光で打ち、伝道者として立てようとされたのです。まさに生きて働かれる聖霊の働きによるものでした。神はこのように思われたにちがいありません。この者は、自我の固まりのような存在なので、他の人のように教会へ招いて、洗礼へと導き、時を経て献身の決意を与え伝道者にするという道ではだめだろう。途中で挫折するかもしれないし、あたかも自分で信仰を勝ち取ったように思い上がるかもしれない。

以来私は夏が来るたびにこの出来事を思い出し、私の救いの原点に立たせていただき、信仰を振い起こしていただいているのです。あの時、闇の中にいた私は、キリストの光に照らし出されたかのような経験をしました。その時与えられた恵みを証しするように、今こうして立てられているのだと思います。ですから、闇の中から明るみに出された私の罪の姿を見て、つまずかないでほしいのです。キリストがそのような私を悔い改めに導き、新しい命に生かし立たせてくださる、そのことをしっかりと見てほしいと願います。

 

 聖書を読むようになった私は、聖書の中に自分と同じような体験をした人物、使徒パウロがいることを知りました。パウロは、かつて教会の迫害者でした。ある時彼は、迫害を逃れてダマスコに向かった信者を捕らえるために、出かけました。ダマスコに近づいた時、突然天からの光に打たれ、地に倒されると「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」との声を聞きました。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ」との答えがありました。光に打たれてパウロの目は3日間見えなくなりましたが、主の命令によってアナニアが彼のもとを訪ね、その目を開き洗礼を授けました。洗礼後、聖霊に満たされたパウロは、ダマスコの諸会堂で「イエスこそ神の子である」と宣べ伝えはじめたのです。この回心は、パウロにとって強烈な体験でした。生きておられるキリストが、突然天からの光として臨み、実を結ばない暗闇の業に加わっていた彼を明るみに出して打倒し、立ち上がらせて伝道者としました。それゆえにその後のパウロは、どんな闇の力が挑み来ても絶望することはありませんでした。人の目には、パウロが「眠りについている者、死者」(5:14)に見えても、彼はキリストの復活の光で照らされて、死から立ち上がらせてくださることを知っていたからです。

 

 今朝の御言葉エフェソの信徒への手紙は、獄中書簡の一つです。パウロは

61~62年頃、ロ-マで投獄されていました。その彼が、エフェソの教会に書き送ったのがこの手紙です。パウロは闇と表現するにふさわしい状況にいましたが、やはり迫害などの困難の中にいるエフェソの信徒たちを思い、どのような心備えをして生活をすればよいかを教えたのです。その心備えとは、次の四つです。まず、「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(5:15)です。キリストが人の罪を赦し、憐みをもって救ってくださったように、あなたたちも互いに親切にし、赦し合いなさい。決して、あなたがたの考えや感情によって、人を裁いてはいけないと教えました。

次は、「時をよく用いなさい」(5:16)です。私(パウロ)自身も諸教会も、置かれている状況は、闇の中にいるように見えます。しかし、キリストはあなたがたを照らしてくださっているのですから、与えられている時を用いて、キリストを証ししなさいと勧めています。実際パウロは獄の中にいても、その時を用いて、自分を闇の中から立ち上がらせて下さったキリストを証ししたのです。

さらに「酒に酔いしれてはなりません」(5:18)「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(5:19)と教えています。あなたがたは、苦難の中にあってもそこから逃れるために飲酒に走ってはなりません。なぜなら酔いがさめた時、その不安はさらに大きくなり、やがて飲酒から逃れられなくなってしまうからです。あなたがたを苦難としっかりと向き合わせ、苦難の中にあってもあなたがたを喜びと感謝に導くのは、詩編と賛歌と霊的な歌であると述べています。

 

エフェソはじめ初代教会は、「詩編と賛歌と霊的な歌」によってそれぞれ苦難と向き合い、弱くなっている信仰を振い立たせました。この「詩編」とは、旧約聖書におさめている150編の詩編のことです。教会の礼拝において、詩編を会衆全員で歌ったり、聖歌隊が歌うのを聴いたり、また交唱したりいたしました。次に「賛歌」とは聖書に収められている賛美の歌です。旧約聖書には、モ-セの歌(出エジプト15章、申命32章)、ハンナの祈り(サムエル上2章)、ハバククの祈り(ハバクク3章)、イザヤの祈り(イザヤ26章)、シオンへの帰還を喜ぶ歌(イザヤ35章)、ヒゼキヤの歌(イザヤ38章)、主のしもべの歌(イザヤ53章など)、ヨナの祈り(ヨナ2章)があります。また新約聖書には、ザカリヤの歌(ルカ1章)、マリアの賛歌(ルカ1章)、天使の歌(ルカ2章)、シメオンの歌(ルカ2章)があります。 最後に「霊的な歌」は、信徒たちによって生み出される信仰告白や教会を歌う、新しい歌のことです。その一つが、洗礼式の歌としてつくられたエフェソ5:14「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」です。このように、教会では「詩編」と「賛歌」と「霊的な歌」が共に歌われ、聴かれ、交唱(語り合う)されることで、集う人々が再び霊に満たされ、苦難と向き合い、あらゆることについて主の名によって感謝し、まことの喜びを分かち合うことができるように導かれたのです。

 

 先にお知らせしましたように、教会のハルモニウムオルガンの大修理を行うこととなりました。1929年、フランスから海を渡ってこの教会に来たオルガンには、様々な出来事がありました。戦時下において、また会堂火災に際しては、火と水をくぐり抜ける体験をいたしました。しかし、このオルガンは91年にわたって礼拝に集う人々の信仰に寄り添い、その賛美を支え続けてきたのです。

今、コロナ禍にあって先行きの見えない闇の中に置かれていますが、主は救いを求める私たちをキリストの光で照らしてくださっています。パウロが教えたように、互いに赦し合い、時を用いてキリストを証しし、詩編と賛歌と霊の歌をもって主をほめ歌い、あらゆることについて主イエス・キリストの名により、父である神に感謝をささげてゆきましょう。すべてのものに満ちておられる主が、私たちの信仰を振るい起し、私たちに必要なすべてのものを満たしてくださることでしょう。

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