≪次月 4月(2020)礼拝説教要旨 前月≫

 

 

「安らぎの教会」        深見 祥弘牧師

April 25, 2020

                       <今週の聖句>

慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。

(イザヤ書40章1節)

             「安らぎの教会」        深見祥弘

 本日4月26日(日)から5月31日(日)まで礼拝は、新型コロナウイルス感染予防のため、司会者・奏楽者・説教者・教会役員で守ります。教会に連なる皆さまには、それぞれ家で週報や礼拝の動画配信を用いて礼拝を守っていただいております。復活の主は、家にいた弟子たちのところを訪れ「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられました。わたしたちの合言葉も「お家にいよう」ですが、この会堂に、そしてそれぞれの家に復活の主が来て下さっていることを覚えながら礼拝を守り、慰めと希望をいただきましょう。

 また教会総会の開催日でもありましたが、「書面による開催」といたしました。毎年総会を開催する主日礼拝は、新年度の標語や聖句について説教をしております。今年度の標語は、「安らぎの教会−主の群れとして」、聖句は「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ書40章11節)としました。

 今朝は、年間聖句であるイザヤ書40章1~11節に聴き、新年度の歩みの備えをしたいと思います。イザヤ書は、1~39章(第一イザヤ)、40~55章(第二イザヤ)、56~66章(第三イザヤ)の3つに分けられ、それぞれ時代や思想に違いがあります。「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。」で始まる第二イザヤの預言者は、ユダの民と共に捕囚地バビロンにおりました。BC597年587年に捕囚としてきたユダの民は、年を経るにつれ帰還をあきらめるようになりました。そうした時、預言者は民に良い知らせ(主による解放)を告げたのです。歴史上では、537年バビロニアを征服したペルシャ王クロスの勅令により実現します。しかし預言者は、それよりも以前に神による救済として帰還が実現することを告げたのでした。

 ある時、預言者(第二イザヤ)は、天上で行われる会議の様子を見聞きし、書き留めました。ある者(神のご用をはたす天使)が、そこにいる他の者(天使たち)に「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる」と告げました。ここに「あなたたちの神は言われる」とありますが、「わたしたちの神は言われる」ではないのかと疑問に思います。3節には、「わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と書かれているからです。しかし、この「あなたがたの神」、「わたしの民」という表現は、神と民との約束関係を表しています。旧約聖書エレミヤ書には、「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」(7:23)という言葉があります。民が捕囚を経験するに至ったのは、不信仰によってでした。民は神との約束をほごにし、偶像への信仰に走ったのです。にもかかわらず、神は民との約束を捨てることなく、今も変わらず「あなたたちの神」であり、あなたたちは「わたしの民」であると宣言し、「わたしの民を慰めよ」と呼びかけているのです。もう一つの疑問は、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」という言葉の意味するところです。「倍する」とは折り重ねるという意味です。紙を折る時、半分と半分を重ねますが、民の「罪」と神による「罪の報い(償い)」が重ね合わされた時、罪が取り去られるのです。神は、ご自身が民の罪を償ったので安心しなさいと言われます。その上で「慰めよ」と告げているのです。

 預言者は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」との呼びかけに応じ、「わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」との声を聞きました。ユダの民は、罪を赦され帰還します。その道は、神に仕える天使たちによってつくられ、帰還する民の姿を見る者は、神の栄光を見ます。このことは、主の口から出ることなので、確実に行われるのです。

 また預言者は、「荒れ地に道を備えよ」との声に呼応して「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」との声を聞きました。肉なる人も力をふるったバビロンも野の花のようなもので、やがてしぼみ枯れてしまうのです。しかし、民の赦しと救いを約束する神の言葉は、必ず実現します。

 さらに預言者は、「神の言葉はとこしえに立つ」との声に応じて、「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」との声を聞きました。神は力をもって来られ、働きの実りを携えてこられます。主の御腕は力強く、愛に満ち、羊飼いのように民を養い、捕囚によって散らされていった人々を集め、弱き者をふところに抱き、約束の国に導いて下さるのです。

 この預言はクロス王の勅令によってユダの民に実現します。しかしこれは羊飼いである主イエスにより、すべての人々の救いが実現するという預言でもあるのです。イザヤ書40章1~11節は、福音書の要約と見ることもできます。1~2節は受胎告知とイエスの十字架、3~5節はバプテスマのヨハネの働き、6~8節はイエスの山上の説教「野の花がどのように育つのかを考えて見なさい」、9節は山上の変容、10節は主の再臨の約束、そして11節は、主は羊飼い、私たちはその群れ、このように読むこともできるのです。

 イザヤ書の言葉から示された今年度の祈りは、次のことです。

①私たちは、主の言葉(礼拝)から安らぎと希望をいただきます。

 「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8)

②私たちは、教会学校の働きのために祝福を祈ります。

 「主は羊飼いとして・・小羊をふところに抱き」(11)

③私たちは、生涯にわたり信仰生活を続けることができるように互いに励ま 

 しサポ-トをします。「主は羊飼いとして群れを養い・・その母を導いて行かれる。」(11)

④私たちは、家族や友人の救いのために祈り、主の安らぎを伝えます。

  「主は羊飼いとして・・御腕をもって集め」(11)

⑤私たちは、新型コロナウイルス感染予防に努め終息を祈ります。私たちは、社会にあって主の平和を伝えます。「慰めよ、わたしの民を慰めよと

 あなたたちの神は言われる。」(1)

 主が備えた道を通り、帰還した民は一部でした。バビロンに残った人々もいたのです。帰還した民を待っていたのは苦難でした。彼らは様々な妨害を受けました。こんなことならバビロンに残ったほうがよかったという思いにも満たされました。しかし、帰還の民は旅路において、またエルサレムにおいて、それからバビロンに残ることを選んだ民もその地において、まことに礼拝すべき御方はどなたであるのかを知りました。

  この時、私たちも教会で礼拝を守る者、家で礼拝を守る者と別れていますが、羊飼いである主は私たちを養ってくださいます。また復活の主として来て下さり、慰めと励ましをくださいます。教会に連なる子どもたちを抱き、その母親をまた私たちを導いてくださいます。やがて主はその御腕をもってもう一度集めてくださいます。私たちは、2020年度、まことに礼拝すべき御方主イエスを確認し、その御言葉を信じ、主のうちにある良き知らせ(慰めと復活の希望)を告げ知らせてまいりましょう。 

「見ないで信じるということ」       仁村 真司教師

April 18, 2020

それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

                   (ヨハネ福音書20章27~29節)

「見ないで信じるということ」     仁村 真司

 「あの方(イエス)の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っていた(25節)トマスに、復活したイエスが現れます。

 カラヴァツジオという人の「トマスの不信」という絵があります(1595-1600、ベルリン国立美術館)。そこにはイエスがトマスの右手をとって、わき腹の傷に人差し指を入れさせている場面が描かれています。トマスは目を見開いて人差し指を入れたその傷を見ていて、トマスの背後からは二人の人がじっと目を凝らしてのぞき込んでいます。

 私には芸術に関する知識もセンスも全くありませんが、トマスの、と言うよりも、トマスに限らない、人間の「不信」というものが見事に描かれていると思います。それだけに、このようなことによって、「見ること」によって、「信じる者」(27節)になるとは考えられません。

 そしてまた、イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである」と言っています。

 私は、トマスはイエスの傷を見なかったと思います。見ようとはしたのかもしれませんが、だとしても見えなかったのではないかと思います。

 では、トマスはどのようにして「信じる者」となったのでしょうか。また、「見ないのに信じる人は、幸いである」とはどういうことなのでしょうか・・。

「主の復活を告げるもの」       深見 祥弘先生

April 11, 2020

                        <今週の聖句>

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

(ヨハネによる福音書20章18節) 

「主の復活を告げる者」        深見祥弘

 受難節(レント)の時を経て、ついに復活の朝を迎えました。イ-スタ-おめでとうございます。私たちはこの日を迎えることを当然のように思いますが、イエスの死と復活の間に存在する深い淵に心を留めねばなりません。

 今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書20章です。週の初めの日の朝早くマグダラのマリアがイエスの墓に行くと、墓をふさぐ石が取り除けてあったので、このことをペトロとヨハネに告げました。二人が墓に来て中を見るとイエスの体はありません。墓の中には、イエスの体を包んだ亜麻布と頭を包んだ覆いだけがありました。ヨハネはそれを見て、主の復活を信じました。マリアが墓に戻るともう二人の姿はありません。そして墓の外で泣いていると、「なぜ泣いているのか、マリア」という声を聞きました。振り返ると、そこにはイエスが立っておられたのです。マリアがすがりつくと、イエスは「すがりつくのはよしなさい。私は父なる神のもとに上る」と言われ、そのことを弟子たちに告げるようにと言われました。マリアは弟子たちに、主を見たこと、そして父なる神のところに上られることを伝えたのでした。

 私たちの復活信仰は、復活の主が現れ、私たちの名を呼んでくださることで与えられるものです。空の墓が復活信仰を生み出すものではありません。ヨハネは亜麻布を見て信じた(20:8)と書かれていますが、9節にはそれを打ち消す言葉もあります。この時ヨハネは主の復活を信じましたが、確信を持つことができなかったのです。私たちが主の復活を信じるためには、復活の主が来てくださることが必要です。私たちの傍にいて名を呼んで下さる復活の主との交わりが、わたしたち復活を告げる者に確信と力を与えるのです。

「それぞれの十字架」  深見 祥弘牧師

April 04, 2020

                        <今週の聖句>

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

(ヨハネによる福音書19章17節) 

「それぞれの十字架」         深見祥弘

 2月26日(水)より始まった受難節(レント)も、今日が棕梠の主日、本日より受難週に入りました。イエスは苦難と十字架の道を、ご自身が進むべき唯一の道として歩まれました。

 ヨハネによる福音書19章には、十字架につけられたイエスのことが書かれています。ヨハネ福音書とマタイ・マルコ・ルカの3福音書を比べると異なる記述に気づかされます。①3福音書はイエスにかわってキレネ人シモンが十字架を担いだとするに対し、ヨハネ福音書はイエス自らが担いだとしています。②3福音書は罪状書きをヘブライ語で書いてあったとするに対し、ヨハネ福音書は3つの言語で書いてあったとしています。③3福音書はイエスの下着の記述が無いのに対し、ヨハネ福音書は兵士たちがくじを引いて取る者を決めたとしています。これは旧約の預言(詩編22:19)の実現でありました。④3福音書は十字架のイエスの孤独を描いていますが、ヨハネ福音書は母マリアや女性たち、そして愛弟子がともにいたことを記しています。

 イエスはみ旨に従い十字架を自ら担ぎ、ゴルゴタに向かわれました。イエスの罪状書きには、ヘブライ語(土地の言葉)、ラテン語(公的な言葉)、ギリシャ語(国際的な共通語)で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。イエスが、ユダヤ人の王のみならず世界の人々の王であると告げ、やがて十字架によってもたらされる救いが世界に広がってゆくことを告げています。説教題を「それぞれの十字架」といたしました。私たちの十字架とは、十字架のイエスが母マリアや愛弟子らに示されたように、救われた者が互いに主の家族として受け入れ愛し合うことなのです。

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