≪次月 2月(2020)礼拝説教要旨 前月≫

 

 

「一杯のカプチーノから」  入 治彦 牧師(京都教会)

February 01, 2020

< 今 週 の 聖 句 >

 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。

                         (詩編96編1節)

「一杯のカップチーノから」       入 治彦
  カップチーノという抹茶のように泡立てて飲むミルクコーヒーの名前は、カトリックの修道会、カプチン派のフードのついた僧服の色が薄茶色だったことに由来しています。
 私は23年程前、シチリアのパレルモにあるカプチン派のカタコンベを訪れたことがありました。その地下埋葬所には、17世紀から19世紀までの約8000体のミイラが晴れ着をまとい、左右200メートルはある所に2段になって、保存されていました。壁という壁が皆骸骨に近いようなミイラなのです。その中にあって、幼女ロザリアのミイラは、まるで生きて眠っているかのような姿でした。どうしてこのようなお墓をつくったのか、不思議にも思えますが、人間最後は皆死すべきものなのだということを視覚に訴えて伝えるためだと聞きました。 
 中世のキリスト教会は、日常のあいさつを「メメント・モリ」(汝の死をおぼえよ)と、日本的感覚からすると縁起でもない言葉をもって使ったり、終末について、「デ・ノヴィッスィマ」(最も新しいこと)という言葉をもってあらわしていたといいます。デ・ノヴィッスィマ、それは終わりともいうべき所に最も新しいことを見る見方を示している言葉です。
 イザヤ書42:10には「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え」とあります。「新しい歌を歌え」には「地の果てから」が対のようになって登場するのです。言い換えるならば、新しい歌とは、何々と比較してより新しいことというよりも、むしろ地の果てから賛美する歌であることが示されています。そこから、終わりと見える中にこそ、実は最も新しいことが秘められていることを知り、神の豊かな恵みを深みで味わっていきたいものです。

「わたしは独りぼっちではない」     深見祥弘先生

February 08, 2020

<今週の聖句>

わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。        (ヨハネによる福音書8章29節) 

「わたしは独りぼっちではない」     深見祥弘

 3月15日(日)午後3時より洛南教会で奥田知志牧師(日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会)をお迎えし、教区宣教セミナ-が開催されます。奥田さんは滋賀県の生まれで、牧師であるとともに、NPO法人「抱樸館」やホ-ムレス支援全国ネットワ-クの代表などをつとめておられます。昨年12月には、「いつか笑える日が来る 我、汝らを孤児とはせず」(いのちのことば社)を出版されました。

 今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書8章21~30節です。イエスは神殿の境内で集まる人々に、「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(24節)と話されました。

『わたしはある』とは、旧約聖書出エジプト記3章14節で、神がモ-セに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と紹介した神御自身の名です。イエスがここで「わたしはある」と名のられたのは、イエスが神であり、神から遣わされた救い主であるということを伝えるためです。またイエスが父なる神と共にあって御心を行う者であり、罪人と共にあってその罪を十字架において贖う者であるということを伝えるためでした。このイエスを信じるならば救われるけれど、信じないならば自分の罪によって滅びることになると言われたのです。

 キリスト教の信仰は、「イエスは救い主です」と信じ告白することです。その救いとは、父なる神と共におられる救い主イエスが、わたしとも共にいてくださり、わたしを独りぼっちにしない御方であることを告白することです。それは日々の暮らしにおいても、死に際しても、さらに御国においても、「わたしはある」と言われる主が共にいてくださることを喜ぶことなのです。

「祈りによらなければ・・・」  仁村真司教師

February 15, 2020

<今週の聖句>

イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共におられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしの所に連れて来なさい。」

(マルコによる福音書9章19節)

          「祈りによらなければ・・・」      仁村 真司

 イエスは弟子たちに汚れた霊に対する権能を授け(6章7節)、弟子たちは多くの悪霊を追い出していました(6章13節)。

 ところが、「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。・・・この霊を追い出してくださるよう弟子たちに申しましたが、できませんでした」とあります。(9章17・18節)。

 「息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません」は、直訳では「私の息子が口をきけなくする霊につかれていて、連れて参りました」となりますが、「口をきけなくする霊」は口をきけなくしているだけではないようです。父親は「霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒す」・「すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせる」(18節)、また「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」とも語っています(22節)。

 イエスは、この霊を「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」と呼び、「この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と命じて追い出します(25節)。そして、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねる弟子たちに、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言います(28-29節)。

 どうして弟子たちには追い出すことができなかったのか。「この種のもの」とは。そして、「祈りによらなければ追い出すことはできない」とはどういうことなのか。これらについて考えて行きます。

「パンを取り、祈り、分け与える」 深見祥弘 牧師

February 22, 2020

 <今週の聖句>

さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。            (ヨハネによる福音書6章11節) 

「パンを取り、祈り、分け与える」     深見祥弘

 み言葉は、ヨハネによる福音書6章1~15節、イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹にした話です。過越祭が近づく頃、イエスは湖の向こう岸に渡り、弟子たちと山に登りました。イエスを追いかけて大勢の人々がくると、イエスは人々を座らせ、少年の持っていた5つのパンと2匹の魚を取り、感謝の祈りを唱え、人々に分け与えました。これを食べた人々は皆満腹し、イエスが弟子たちに残ったパン屑を集めさせると、12の籠にいっぱいになりました。食べた人々は、男だけでおよそ5千人でした。

 この話の背後には、旧約聖書・出エジプトの出来事があります。かつてイスラエルの人々は、エジプトで奴隷生活をしていました。人々は、モ-セに導かれ、神の災いが自分たちを過ぎ越し、エジプトの人々に臨んでいる間にエジプトを脱出しました。彼らは、海を歩いて渡り、山で神の言葉(十戒)をいただき、荒れ野では神が与えてくださったマンナに養われました。モ-セは約束の地を目前に亡くなりますが、人々はヨシュアに導かれて約束の地カナンに到着しました。 イエスは過越祭が近づいた時、湖を渡り、山に登り、パンと魚(イエスご自身)を手に取って、祈り、分け与えて人々を養いました。これはイエスがパンを与える神であり、また裂かれるパンそのものであることを表しています。さらにイエス(ヘブライ名ヨシュア)は死より復活し、人々を御国へと導きいれてくださいます。

 私たちは、水をくぐり抜け(洗礼)、教会で神の言葉と聖餐の養いをいただき、人生という旅を続けています。「わたしは命のパンである。・・このパンを食べるならば、その人は永遠にいきる」(6:48、51)この言葉を信じて与えられた旅を続け、約束の御国に導きいれていただきましょう。

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