≪次月 3月(2020)礼拝説教要旨 前月≫

 

 

「心騒ぐ」  深見 祥弘牧師

March 28, 2020

     <今週の聖句>

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(ヨハネによる福音書12章27~28節)

「心騒ぐ」           深見祥弘

 オリンピックの開催について選手はじめ多くの人々が、心騒ぐ時を過ごしてきました。一年後に延期が決まり、多くの課題がある中、備えがなされていきます。そのためには何よりもまず、世界中に蔓延する疫病の感染を終息させ、人々の命が守られなければなりません。幾多の困難を乗り越えることになりますが、苦難と十字架を経験し復活された主を信じ委ねましょう。

 過越祭の五日前、イエスはろばの子に乗ってエルサレムに入場されました。

イエスの滞在を知り、ギリシャ人たちがフィリポのところに来て、イエスとの面会を願いました。フィリポとアンデレがこのことをイエスに伝えると、「人の子が栄光を受ける時がきた。・・・一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。「栄光を受ける時」とは、十字架の死の時のことです。一粒の麦が地に落ちて命を捨てるならば、新しい多くの命(実)が生まれるように、イエスが十字架で死ぬことによって、救いを求める者はユダヤ人だけでなくギリシャ人、そして誰もが新しい命(栄光・永遠の命)をいただくことができます。

12章27~28節は、ヨハネ福音書のゲッセマネ物語にあたる部分です。「今、わたしは心騒ぐ。」「父よ、わたしをこの時から救ってください。」「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください。」 イエスは、父なる神のみ旨が自らの苦難と十字架の死にあることを知り、これをなし遂げることによって栄光が来ることを確信します。 

ギリシャで採火し日本に来た聖火は、一度は闇の中に置かれますが、再び現れて世界中の人々に栄光を現わすものとなるでしょう。

「足に油を塗る」 深見 祥弘牧師

March 21, 2020

              <今週の聖句>

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、

イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。             (ヨハネによる福音書12章3節)

「足に油を塗る」          深見祥弘 

 新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、自粛要請が出されてしばらくの時が過ぎました。緊張感をもって感染予防に努めても、目に見えて良い結果がでるわけでもなく、終息には半年・一年かかるのではと聞くと、この先の見えない状態に疲れ(コロナ疲れ)も出て来ます。ある専門家は、「不安やイライラの共有」が必要だと語っていました。

 今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書12章、ベタニアで女がイエスの足に香油を注いだ話です。イエスはベタニア村のマルタ、マリア、ラザロきょうだいと親しくしていました。ある時は、イエスの足元に座って話を聞くマリアについて、給仕をするマルタが不平を言ったことがありました。またある時は、イエスが病気で亡くなったラザロを復活させたこともありました。過越祭の六日前のことです。イエスは再びベタニアを訪れ、重い皮膚病の人シモンの家に滞在されました。マルタたちきょうだいもこの家を訪れ、マリアは訪れる人々の足を水で洗い、マルタは夕食の給仕を、そしてラザロは食事をするイエスと同じ席にいて世話をしました。食事の途中、マリアは高価な香油を持って来てイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。すると家中に香油の香りが広がりました。この三人の奉仕は、イエスに対するラザロ復活への感謝であり、これからなされる十字架・葬り・復活の業への愛の奉仕でありました。 主イエスはここにいる私たちを訪れ愛してくださり、十字架と復活をもってその愛を完成してくださいます。私たちは、不安やイライラの中にいる人々と共にいて仕え、キリストの良き香りとして、主にある安らぎと希望を伝える者として歩もうではありませんか。

「マルタとマリア」        仁村 真司 教師

March 21, 2020

< 今 週 の 聖 句 >

 主はお答えになった。「マルタ、マルタあなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

                 (ルカによる福音書10章41~42節)

            「マルタとマリア」        仁村 真司

 マルタとマリアの物語は、その直前の追いはぎに襲われ倒れていた人をサマリア人が助けるたとえ話を含むイエスと律法の専門家のやり取り(10章25~37節)と繋がっている、これらは一続きの物語だと考えられます。

 ある律法の専門家が「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエスに尋ねます。イエスが「律法には何と書いてあるか」と問うと、律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』」、つまり「神への愛と隣人愛」と答えます。そして、イエスは「それを実行しなさい」と言うのですが、ということは、イエスは「神への愛と隣人愛を実行しなさい」と言っていることになります。

 それで、ルカ福音書の著者は「隣人愛の実行」について語られているサマリア人のたとえ話に続けて、マルタとマリアの物語では「神への愛の実行」について語られていると考えて、これを記しているのだと思います。

 ルカの考えに拠れば、イエスの話に聞き入っているマリアは神への愛を、もてなしのために働いているマルタは隣人愛を実行している。マリアが選んだ「良い方」とは神への愛であって、神への愛の方が隣人愛よりも「良い」、イエスはそう言っていることになります。

 ですが、神への愛と隣人愛とは「どちらのほうが良い」と比べられるものなのでしょうか・・・。また、どうしてイエスはマルタに「(マリアのように)良い方(神への愛)を選びなさい」とは言っていないのでしょうか・・・。

「シロアムの池で洗いなさい」      深見 祥弘 先生

March 07, 2020

<今週の聖句>

そして、「シロアム-『遣わされた者』という意味-の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。                 (ヨハネによる福音書9章7節)

「シロアムの池で洗いなさい」      深見祥弘 

 新型コロナウイルスの感染拡大により、3月6日当教会で開催予定の世界祈祷日礼拝が中止となりました。今年は、アフリカ南部の国ジンバブエを覚え礼拝を行うことになっていました。ジンバブエとは「石の家」を意味し、古い時代の首長の住居のことです。1890年から90年間英国は豊富な地下資源を収奪するため、この地を植民地にしました。しかし住民は独立運動(チムレンガ)を展開し、1980年4月18日独立しました。現在、ジンバブエは大統領制をとる立憲共和国です。憲法は信教結社の自由を認め、政教分離の原則があります。国民の80パ-セントはキリスト教徒です。女性たちは、家族法上の女性に対する差別や貧弱な保健サ-ビス、HIV感染等により親を失った多くの子どもたち、こうした課題解決のために祈り働いています。

 み言葉は、ヨハネによる福音書9章、イエスが生まれつきの盲人を癒す話です。弟子が盲人を見て「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と問うと、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えました。イエスは地面に唾し土をこねてその人の目に塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われ、この人がそうすると見えるようになりました。 ジンバブエの苦難は、この国の人々が罪を犯したからではありません。苦難は、英国の強欲の罪によりもたらされたものです。しかし神はジンバブエにイエスを遣わし、人々に「遣わされた者(シロアム)」のところに行って洗いなさい(洗礼)と言い、変革のために新しい命と力を与えられました。主の業に驚かされ、御名を賛美します。

「誘惑を退けるために」       深見 祥弘先生

February 29, 2020

<今週の聖句>

あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ(マタイによる福音書4章1節)

「誘惑を退けるために」       深見祥弘 

 2月26日(水)よりレント(受難節)に入りました。私たちは、4月11日(土)までの(日曜日を除く)40日間、主イエスが苦難や試みを通し私たちに備えてくださった恵みを思い起こします。私たちは今、新型コロナウイルスの流行による不安の中にあり、様々な誘惑ものぞんできます。一人ひとりが予防を心掛けると共に、差別や排除・裁きで自らを守ろうとする誘惑を退けてゆきましょう。

 イエスが洗礼者ヨハネよりヨルダン川で洗礼を受けると、神の霊が降りました。イエスは神の霊によって荒れ野に導かれ、悪魔から3つの誘惑を受けました。第1の誘惑は、物質的な誘惑です。悪魔が40日間断食し空腹であったイエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言いました。イエスは、かつてイスラエルの民が荒れ野で空腹であった時、神の言葉(十戒)に従い、マンナが与えられたことを思い起こし、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われ誘惑を退けました。第2の誘惑は、宗教的な誘惑です。悪魔は神の言葉(詩編91:11~12)を用い、神の子であることを証明するために神殿の屋根から飛び降りたらどうだと言いました。イエスは「あなたの神である主を試してはならない」(申命6:16)と言われ誘惑を退けました。第3の誘惑は、権力の誘惑です。悪魔はイエスを高い山に連れて行き、繁栄の世界を見せ、「わたしを拝むなら、これをみな与えよう」と誘惑しました。イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(申命6:13)と言われ誘惑を退けました。 私たちは、イエスの言葉とその体(パン)をいただく礼拝により、誘惑を退け、必要とするものをいただくことができます。そして私たちが神と人に対する愛に生きることで、救いと平安に与ることができるのです。

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