「揺り動かされることのない御国」 深見 祥弘牧師

June 27, 2020

                       <今週の聖句>

 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。         (ヘブライ人への手紙12章28節)

 

「揺り動かされることのない御国」    深見祥弘

 コロナ禍にあって、スポ-ツ大会や競技会が中止になったり、開催の形を無観客にするなど変更して行われています。高校野球は、春に続いて夏の甲子園大会も中止となりました。甲子園を目指して鍛錬してきた選手たちは、この知らせを聞いた時、言い知れぬ思いに満たされたことでしょう。その後、春の選抜代表チ-ムは、一試合だけ甲子園のグラウンドで試合を行うことができるようになりました。またこの夏、地方大会の開催を決めた県もあります。高校3年生の中には、来春、大学や社会人、またプロで野球を続けていこうとする人もいるでしょうし、野球を離れて新しい生活を始める人もいることでしょう。この経験が、将来の良き糧となることを心から願っています。また正月の箱根駅伝は、開催されるのでしょうか。私は、駅伝競技の中で、各区間を走った選手たちが皆ゴ-ルに集まり、最終走者に声援をおくり、ゴールテ-プを切った走者を皆で迎えいれる場面が好きです。優勝したチ-ム、思うような走りのできなかったチ-ム、悲喜こもごもですが、そのレ-スの結果にかかわらず、互いの健闘を讃え合う様は美しいと思うのです。

 

今朝の御言葉は、ヘブライ人への手紙12章です。この手紙は、ロ-マ皇帝ドミティアヌスの治世下、AD95~96年頃に書かれました。しかしこの手紙の著者は誰なのか、また執筆場所もわかりません。わかることは、著者が教会につらなるユダヤ人キリスト者に対し、旧約聖書の言葉を随所で引用するなどして、これを記したことです。また「手紙」と呼ばれますが、実は諸教会で朗読するために書かれた説教です。皇帝による教会への迫害の中、著者はこの説教を通して、キリストをしっかり見つめ、忍耐して信仰の生涯を全うするように励ましているのです。

 まず説教者は、ユダヤ人キリスト者に対し、旧約時代からのおびただしい信仰者たちがあなた方を囲み見守っているのだから、「自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか。」(12:1)と呼びかけます。また同じ教会につらなる異邦人キリスト者たちに対しては、あなたがたの信仰は決して自分一人で獲得したものではなく、多くの信仰者たちが、苦難の中、継承してきたものであると教えています。

神はかつてユダヤ人・異邦人すべての人々の救いを願い、救いの計画をお立てになられました。その計画は、競技に参加する人々に例えることができます。走者である信仰の先達たちは、自らに与えられた区間を走り終えると、次の走者にたすきを渡し、その後は声援を続けます。やがて、最終走者にたすきが渡ったら、先に走った者たち皆がゴ-ルに集まり、最終走者を迎え入れて喜ぶのです。すなわち神の救いの計画が実現したことを喜ぶのです。それぞれの走者は、途中、疲れ果てて走ることをやめようとしたこともありましたが、先に走った信仰者の声援(証し)によって走りぬくことができました。

 次に説教者は、最後まで忍耐強く走りぬく秘訣を三つ教えています。一つは、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てる」(12:1)ことです。二つ目は「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめる」(12:2)ことです。この救いのレ-スを計画されたお一人であるイエスは、旧約の信仰者たちを含めて、全ての人のレ-スを見守ってこられました。またある時イエスは、人となられ、コ-ス上にお立ちになられ、示された道を最後まで走りぬかれました。「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(12:2) 

説教者は、迫害によって信仰者が殉教することになっても、十字架と復活のイエスが共にいてくださり、勝利の御国に迎えてくださるので、イエスをしっかり見つめなさいと教えています。そして三つ目は、あなたがたは、主の子どもとされているので、その苦難を主が与える鍛錬として受け止めなさいということでした。

このように三つの秘訣を示したあと、説教者は「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(12:14)と教えています。「すべての人との平和」とは、人との交わりすなわち愛に生きることであり、「聖なる生活」とは、神との交わりすなわち礼拝のことです。

 さらに説教者は、かつてイスラエルの民がシナイ山で経験したことを回想しています。民がモ-セに導かれ、荒れ野を旅して神のおられるシナイ山を仰ぎ見た時、神の声が地を揺り動かしたので、恐ろしくて誰も近づくことができませんでした。エジプトを出発した民は、「地上で神の御旨を告げる人(モ-セ)を拒み」(12:25)、その罪のゆえに、恐ろしさをおぼえたのでした。その結果、約束の地カナンに入ることがゆるされたのは、40年の旅の中で生まれた子どもや孫の世代でありました。時を経て、今、キリスト者が仰ぎ見ることをゆるされているのは、父なる神とイエス・キリストと聖霊がおられるシオンの山、生ける神の都であり、天使たちやそこに迎えられた信仰者たちが集う、天のエルサレムです。説教者は、ここで、かつてのイスラエルの民と同じように、「天からの御旨を告げる方(イエス・キリスト)に背を向ける」(12:25)ならば、約束の御国に入ることはできないと告げます。かつて旧約の預言者ハガイは、「わたしはもう一度、地だけでなく天をも揺り動かそう」(ハガイ書2:6)との主の言葉を預言しました。そしてそれは、イエスの十字架と復活の時に実現したのです。イエスが十字架に架けられた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」(マタイ27:51~52)とありますし、イエスが復活した時、「大きな地震が起こった。」(マタイ28:2)とも書かれています。この主イエスの十字架と復活、そして昇天によって「揺り動かされることのない御国」(12:28)が実現しました。主イエスが揺るがぬ御国の礎(特にイエスのあがないの血によって)となってくださったのです。説教者はユダヤ人キリスト者に、そして異邦人キリスト者に対しても、この揺るがぬ御国を約束されているのだから、そして、すでに御国にいる「おびただしい証人の群れに囲まれて」(12:1)声援をうけているのだから、感謝の念をもって神を畏れ敬い、神に喜ばれるように人々に仕えてゆこう、と呼びかけているのです。

 

今朝の御言葉は、コロナ禍にある私たちに語っています。神はすべての人の救いのために、イエス・キリストによる救いの計画をお立てになられました。私たちには、これまで経験したことのないような困難が臨んでくるかもしれません。しかし私たちは、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめ、揺るがぬ御国にいる信仰の先達たち(おびただしい証人の群れ)に励ましていただきながら、受け継いだ信仰を携えて、与えられた生涯を走りぬきましょう。そのようにして私たちも、神の救いの計画の一端を担い、決して揺らぐことのない御国の恵みにあずかりましょう。さらに、信仰のたすきを、次に走る人々(私たちの家族、また教会に集う子どもたち)に渡しましょう。信仰の先達から声援をいただいているように、私たちも揺るがぬ御国に導き入れられたら、次に走る人々を声援し、最後の一人がゴールテープを切るまで力いっぱい声援を送りつづけたいと願います。このことが、私たちの生きる希望なのです。

「見よ、それは極めて良かった」 仁村 真司教師

June 20, 2020

< 今 週 の 聖 句 >

紙はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(創世記1章31節)

 

「 見よ、それは極めて良かった 」    仁村 真司

 この世界が、自然も人も、造られたもの、被造物であることは確かな事実です。私たちは、自然は勿論、自分のことも思い通りにすることはできません。

今朝は創世記1章、神がこの世界を造る、「光あれ」から始まる天地創造の意味を、主に天地万物が完成される第六の日から考えて行きます。

1)

第六の日、まず「地の獣、家畜、土を這うもの」、野生動物とトカゲや蛇等と人が飼う家畜とが別々に造られ、そして神は「我々に(神に)似せて・・」人、男と女を創造します。

神が「我々(we)」と複数形になっていますが、これは神が大勢いたということではなくて、「ロイヤル・ウィー」(君主や高貴な人は自分を複数形にする)とか、「熟慮の複数」(神は自問自答しながら語りかける時には複数形を用いる、ここでは何度もよく考えて人を創造したということ)等と説明されます。

ともかく、創世記1章は天地万物、この世の全てが神様によって造られたということ、それによって今生かされていることへの喜びや感謝、敬虔

さ・・こういった思いを表現し、伝えていますが、このような天地の造り主である神への信仰、「創造信仰」は旧約聖書の中心ではありません。

 旧約聖書はユダヤ教の正典で、ユダヤ教では神とユダヤの人たちは特別な契約関係にあるとされます。神によって天地万物が創造されたと信じるならば、全ての人が神によって造られたと信じることになります。そうすると他の人々にも目を向けなければならなくなり、ユダヤ教徒は神と特別な関係にあるというユダヤ教の独自性が揺らぐことになります。

 ユダヤ教徒にとって天地創造は紛れも無い事実ではあったでしょうが、その事実は脇に置かれ、創造信仰はユダヤ教の中心ではありませんでした。

 独自性への拘りによって、事実を脇に置いたり、事実から目を逸らすことになるのへ、昔のユダヤ教に限ったことではないと思います。

 例えば、日本人、日本文化は、自然と親しむ、調和するのが伝統である・・こういうことが日本文化の独自性として言われることがあります。そして、西洋人、西洋文化が自然を征服・市配しようとして、自然を破壊するまでになってしまったのとはわけが違う等とも言われます。

ですが、それぞれの自然環境の中で、自然と共に、自然と付き合って生きて来たのはどこにいる人たちも同じです。それに、これは日本でかなりの「自然破壊」が行われて来て、今も行われているという事実から目を背けないと成り立たない主張です。

28節の「神は彼ら(人)を祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」は、紀元前五、六百年頃に農耕や牧畜を基礎にして生きていた人たちが、どこまで他の生き物を食べたりしていいのだろうか、それを神は許しているのだろうか・・と考えてたどり着いた、自然と共に生きて行く術、あるいはルールと言ってもいいのかもしれません。

食料として食べるために、また農作物や家畜を守るために野獣を捕まえたり殺したりしなければなりませんから、食料を確保するために他の生き物、動植物の命を左右することになります。ここでの「支配」とはそういうことで、人が自然を支配してよい、好き勝手にしてよいというのとは全く別の話です。

2)

 さて、他民族の支配下におかれたユダヤの人たちが、周りの人たちにユダヤ教の正しさ、普遍性を示そうとする中で隣人愛の戒めが重視されるようになったということを前回お話ししましたが、中心ではなかった創造信仰も、重視されるようになります。ユダヤ教は、天地万物・全ての人を創造した神を信じる由緒正しい宗教なのだ。創造主への信仰は他にもあるけれど、ユダヤ教は正しく、徹底して信仰している・・ということです。

 初期のキリスト教はこのような創造信仰もユダヤ教から受け継いでいたようです。パウロは、リストラという所で人々にこのように語っています。

 「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海を、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人(民族、異邦人)が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」                 (使徒言行録14章15-17節)

 3)

 天地創造の物語は他の宗教・文化にもあり、旧約聖書、創世記の中にも2章に別の、エデンの園の物語がありますが、創世記1章の大きな特色は31節、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」です。

 大昔の人々にとって、自然は現代の私たち以上に強大で、恐ろしいものであったのは間違いありません。自然はあらゆる災害、疫病(感染症)等ももたらします。しかし、にも拘わらず、神が創ったこの世界は、人間を含む天地万物は「極めて良かった」。これは「昔は良かった」ということではなく、自分が生かされている今、極めて良いということです。

 ただ、私たちは、特に今は新型コロナウイルスがあったり、不安の中で人は他の人のことを顧みることなしに短絡的な行動に走りがちで、神が創造した自然、全ての人、天地万物に対して、このような楽天的な、おおらかな気持ちにはなれません。「見よ、それは極めて良かった」ということが理解できないと思います。

 イエスは「敵を愛しなさい」に続けて「父(神)は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言っています(マタイ福音書5章45節)。「太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる」がこの言葉のポイントです。

 原文では「太陽」には「その」(属格)がついていますから、「神は人を分け隔てせず、全ての人を自ら直接その(神の)太陽で照らし、雨を降らせてくださる。・・何という恵み、何という有り難さ、何とうれしく楽しいことだろう」ということです。これは「見よ、それは極めて良かった」と同じことだと思います。

 そしてまた、私はこの世の現実を生きたイエスについてよく「罪人とされていた人たちと楽しく食べたり飲んだりして・・」と言いますが、この楽しさは、イエスのこの世界を造り、全ての人々を生かしている神への真っすぐな信頼から来ているということです。

 今も神は全ての人をその(神の)太陽で照らし、全ての人に雨を降らせてくださっています。そして、私たちのためにイエス・キリストを送ってくださり、イエスは私たちと共にいます。

 イエスが一緒にいること、その楽しさ・・。これが私たちにとっての「見よ、それは極めて良かった」ということなのかもしれません。

「主の名を呼び求める者は救われる」    深見 祥弘牧師

June 13, 2020

 <今週の聖句>

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

(ロ-マの信徒への手紙10章13節)

 

 「主の名を呼び求める者は救われる」    深見祥弘

  4月26日(日)より一か月にわたり中止してきた礼拝を、5月24日(日)から再開し、現在指定した組の皆さんと守る分散礼拝を行っています。

60~70名が集まる礼拝は、密を防ぐことが難しく、感染予防のため30名ほどの礼拝を行うことにしました。今朝は、教会役員と8・9組、そして教会員以外の方でこの教会に連なっていてくださる皆さんが会堂に集まり、それ以外の皆さんは家庭で礼拝を守っていてくださいます。

 

 今朝の御言葉は、ロ-マの信徒への手紙10章です。ロ-マの信徒への手紙10章9~10節には、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と書かれています。私はこれまで洗礼や信仰告白を志願される方には、信仰告白文をつくっていただき、式において神や人々の前で告白くださるようにお願いしてきました。でも、私がこれまで出会った方々の中には、そのことのできない方もおられました。そのお一人のことをお話いたします。これまで働きをさせていただいたある教会で、御家族3人が転入会してくださいました。入会式が行われた日の帰り際、この兄姉方が「都合の良い時に訪問してください。まだ洗礼を受けていない家族がおりますので。」と声をかけてくださいました。いつもの私ならば「わかりました。また今度お伺いいたします。」とお答えするのですが、この時は手帳を出して「いつならば都合がよろしいでしょうか」と言って、訪問日を決めたのでした。その日が来て、お宅に伺いしますと、90歳をこえる兄弟が待っていてくださいました。「今度、御家族が入会下さった教会の牧師です。」と自己紹介をし、少しの時間、お話を聞かせていただきました。帰り際に、「今度、イエスさまのことをお話したいのですが、聞いていただけますか。」と兄弟に尋ねると、「いいですよ」と言って下さり、この時も訪問日を決めて帰りました。一か月後に訪問させていただき、再び「来月はクリスマスですから、一緒にお祝いさせてください。」と申しましたら「いいですよ」と答えてくださいました。約束の日、短いメッセ-ジと讃美歌を歌ってクリスマス礼拝を守った後、お茶をいただきながら「洗礼をお受けになりませんか」とお勧めいたしました。御家族の皆さんも「そうしましょうよ」と勧めてくださったこともあり、「よろしくお願いいたします。」と答えてくださいました。年が明けて、もう一度、洗礼準備のためにお宅に伺いました。その際、「洗礼式はどこでしますか。お宅でしますか、教会に来られますか」とたずねました。兄弟は、足腰も弱くなっておられ、目も御不自由でありましたが、「教会に行きます」とお答えくださいました。また、「式の中で信仰告白をしていただきたいのですが、どうしましょうか」とおたずねすると、御家族からは「信仰告白文をつくり、皆さんの前で告白することはむつかしいでしょう」とのことでした。「それでは、私の問いに短く答えていただくことでよろしいでしょうか」と申しますと「そうしてください」とお答えくださったのでした。

 1月の日曜日、兄弟は体調も守られて、御家族と一緒に車いすで出席され、洗礼をお受けになられました。また、その際に四つのことをおたずねし、これに答えることで信仰を告白していただきました。

問い 「イエス・キリストは、あなたを愛してくださっています。あなたはイエス・キリストを愛しますか。」 

答え 「愛します」

問い  「イエス・キリストは、十字架によってわたしたちの罪を赦してくださいます。また、復活によって新しい命を与えてくださいます。イエス・キリストの十字架と復活が、あなたのためであることを覚え、イエスを主と信じますか。」   

答え 「信じます」

問い「イエス・キリストは、あなたのために神の国と永遠の命を備えてくださいます。あなたは、この神の国と永遠の命をこれからの日々の希望としますか。」    

答え 「希望とします」

問い 「あなたは、イエス・キリストの救いのしるしである洗礼を受けることを願いますか。」  

答え 「願います」

この日、礼拝に出席した人々は、共にこの信仰告白を聞き、兄弟が救われたことを心から喜びました。ところが、その翌日、兄弟は家で転び、足を骨折して入院し、半年後に天に召されました。残念な思いと同時に、洗礼に至る日々の不思議な導きを改めて思わされました。「都合の良い時に訪問してください」と声をかけて下さった時「いつならば都合がよろしいでしょうか」と手帳を取り出したこと、お宅を訪問した時次にお会いする日を決めたこと、「洗礼をうけませんか」とお勧めをしたこと、暖かくなってから洗礼式をしようと考えなかったことなどです。主が兄弟の救いのために、1月のあの日曜日を備えてくださり、すべてを導いて下さっていたのだと思わされました。

 

人は、心のなかで、自分は神の掟を守っているので救われるけれども、あの人は救われないと思うことがあります。すなわち、自分を神のように考えて人を裁き、神をないがしろにするのです。しかし神は、そのような人にこう告げておられました。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(申命記30章14節)  これは将来、人に新たな言葉(神をないがしろにし、人を裁く言葉ではない新しい言葉)が与えられるとの預言です。

パウロは、ロ-マの信徒への手紙の中で、自分が宣べ伝えているイエス・キリストこそ、預言されていた新たな言葉であると言っています。

これまで口と心は、神や人を汚すために用いられる道具でした。しかし、神が遣わしてくださったイエス・キリストによって(また聖霊の神によって)、人の口は神と人の前で「イエスは主である」と告白し、また心は「イエスを死者の中から復活させられた」と信じることができるのです。さらに、神、イエス・キリスト、聖霊なる三位一体の神は、すべての人と共にいてくださいます。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル2章32節)という旧約の預言者ヨエルの預言が実現するのです。

 説教のはじめに、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(9)という言葉を紹介しました。私はこれまで、この言葉を律法として読み、信仰を告白してくださいと申し上げてきたように思います。それを救いの条件のように考えていたと思うのです。しかしこの言葉は、すべての人々にむけての福音です。ここに書かれている「口と心」は、私という存在であり、自らの罪を象徴しています。自分が主であると告白し、神や人を裁いていた私です。しかし神に遣わされてイエスが来て下さることで、また、聖霊が到来することで、「イエスは主である」と告白する者に変えられます。たとえ口で告白できなくても、主によって変えられたその人の姿(存在)によって告白することができるのです。ですから、9~10節の言葉は、主イエスが私という罪ある存在の近くにいて下さり、わたしの口と心にいてくださる、という福音として読まなければならないことに気づかされたのでした。

 私たちのそばには、「主の名を呼ぶ」人がいます。「すべての人とともに主がおられます。主の名を呼び求める者はだれでも救われます」という良い知らせ(福音)を伝えるため、主は私たちを集め、遣わしてくださるのです。

「主の慈しみは大きい」        深見 祥弘牧師

June 06, 2020

                 <今週の聖句>

慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。           (詩編103編11節)

 

「主の慈しみは大きい」        深見祥弘

 本日は、私たちの教会の「子どもの日・花の日」です。例年、この日の礼拝は、花を飾って子どもたちと一緒に守っています。しかし、今年はこの場に子どもたちの姿を見ることができません。コロナウイルスの感染予防のため、現在教会学校を休んでおります。また、ヴォ-リズ信愛館、止揚学園、それから施設等におられる兄姉のところに花をお届けしていましたが、これも見合わせることにいたしました。今年は、花のカ-ドを郵送いたしますので、後ほどご記名ください。

 「子どもの日・花の日」の由来とその意味をお話いたします。私たちの教会では、都合で6月第一日曜日に行っていますが、キリスト教の暦では6月第二日曜日が「子どもの日・花の日」です。今から164年前(1856年)、米・マサチュウセッツ州の第一ユニバーサリスト教会レオナード牧師が、花を飾って献礼児式(子どもをキリスト者としての生活に導く)を行ったことに始まります。1860年代には、ニューヨークのストアーRが、7歳になった子どもたちに聖書と花を贈りました。さらに1870年、マサチュウセッツ州ロウエル会衆教会が「シャロンのばらの聖日」と称してこの礼拝を行ったことで、「花の日」と呼ばれるようになりました。私たちの国では、1910年代(大正初期)に、教会や日曜学校で花を持ち寄り、子どもを中心にした礼拝を守り、病人などを慰問する行事を行うようになりました。

 私たちの教会では、1920年(T9)6月20日に「花の祭」と呼ぶ礼拝と行事が行われた記録があります。礼拝では村松吉太郎氏の話があり、午後、近江療養院開院2周年記念会が開催されたため、日曜学校の生徒たちが花を持って来院し、患者さんたちを見舞ったのでした。私たちの教会で「子どもの日・花の日」礼拝(花の祭)が行われるようになって今年がちょうど百年となります。この日の礼拝に、子どもたちを迎えることができなかったことはまことに残念ですが、教会に連なる子どもたちの上に、主の豊かな恵みと導きをお祈りしたいと思います。

 今朝のみ言葉は、旧約聖書・詩編103編です。「わたしの魂よ、主をたたえよ。」(1節)で始まり、「わたしの魂よ、主をたたえよ。」(22節)で終わる詩編103編は、ダビデの詩と書かれています。しかし、これが作られたのはユダの民がバビロン捕囚より解放された後と考えられます。民はダビデの生涯を思い起こしつつ、ダビデが自らの生涯を感謝して歌う、というかたちをとってこれを作ったのです。

まず(1〜2節)、ダビデは、内なる自らに対して「わたしの魂よ、主をたたえよ。」「わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。」「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」と呼びかけ歌います。 彼は、主のみこころがまことに大きなものであること、そのみこころの内に自分が置かれていることを信じて賛美します。すなわちダビデが生涯において経験した幸いも災いも、すべてが主から与えられるもので、その一つひとつに主の御計らいを見出して感謝しているのです。

(3~5節)では、ダビデは自らの生涯(個人的な体験)を思いおこします。

まだ彼が王になる前のことです。時の王サウルは、主の霊が臨むようになったダビデをねたみ、その命を狙いましたが、ダビデは主の守りを得ることができました。王となったダビデは、部下ウリヤの妻バト・シェバを奪い取り、自らの妻としました。しかし預言者ナタンより叱責を受けた時、「わたしは罪を犯しました」と告白し、主の赦しをいただきました。ダビデにはバト・シェバ以外にも多くの妻がいて、それら妻との間に子どもがいました。そのひとりアブサロムが異母兄弟のアムノンを殺してしまう出来事があった時も、自らに反逆したアブサロムが、部下によって殺された時も、ダビデは深い悲しみを経験しました。さらにダビデが年老いた時、次の王の任命をめぐって息子ソロモンとアドニアの間に争いが生じたのです。イスラエル随一の王と称されるダビデですが、多くの罪や悲しみ・弱さを内に持っていました。ダビデはそうした出来事を思い起こしつつ、罪深い自らに対して「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命の墓から贖い出してくださる。慈しみと憐みの冠を授け 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。」と歌いました。

(6~13節)では、イスラエルの民に対する主の慈しみを思いおこします。イスラエルの民は、しばしば周辺の国々による虐げを経験しました。ここでダビデは、民が奴隷生活をしていたエジプトから脱出した出来事とその後の荒れ野の旅を回想しています。民はモ-セに導かれるこの旅で、たびたび不平を言い、金の子牛をつくり偶像礼拝をするなどして罪を犯しました。しかし、主の慈しみは大きく、背きの罪を遠ざけてくださり、父が子を憐れむように、民を憐れんでくださいました。そのようにして主は、民を見捨てることなく、約束の地に導き入れてくださったのです。

(14~18節)ダビデは、人のはかなさと主の永遠を歌います。人は主によって地のちりから造られた存在であり、主の慈しみがなければ野の草のように消え失せてしまいます。しかし、主の慈しみは決して変わることはないとダビデは言います。「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。」(14節) もし主がわたしを神のごとき者として造っていたら、わたしは主の慈しみを知ることなく、恵みの業にあずかることもなかったであろうと思ったのです。

(19~22節)最後にダビデは、主に造られたものすべてに(御使いたちを含む)向けて、「主をたたえよ」と呼びかけて終わっています。

    「子どもの日・花の日」礼拝を守っていますが、御言葉に「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上を吹けば、消え失せ 生えていた所を知る者もなくなる。」(15~16節)とありました。「風」とは5月頃、砂漠から吹く乾燥した熱風(シロッコ風)のことです。主は私たちをまことにはかない存在としてお造りになられました。この言葉から思い起すのは、イエスの次の言葉です。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」(マタイ6章28~30節)

私たちの生涯はまことに短く、はかないものです。しかし、主の慈しみをいただき「野の花のように咲く」のです。その花は、栄華を極めたソロモン(ダビデ王の後継者)でさえ及ばぬ美しさでした。「慈しみ」(4、11、17節)とは、イエス・キリストのことです。イエスを信じる者は、たとえ草のようであっても、花を咲かせることができ、それは、人がどんなにがんばっても咲かせることのできないものです。すなわちイエスは、「あなたがたの罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出し、あなたがたに慈しみと憐みの冠を授け、その生涯において良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにする」ことがおできなるお方なのです。

 アメリカの教会では164年にわたり、また私たちの教会でも100年にわたり「子どもの日・花の日」礼拝をまもってきました。会堂に花を飾り、「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主をたたえよ。」と共に歌いつつ、子どもたちに「主の慈しみ(イエス・キリスト)」を教えてきたのです。わたしたちは、これからも野の花として「主の慈しみ」に感謝し讃えつつ、信仰を語ってゆきましょう。

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