「惜しむ神」          深見 祥弘牧師

July 04, 2020

 <今週の聖句>

すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。

(ヨナ書4章10~11節)

 

「惜しむ神」          深見祥弘

 少し前、私たちの周辺では、田植えが終わった緑の田んぼと赤く色づき収穫を待つ麦畑、そして収穫が終わり残った麦の株を焼いて黒くなった畑を見ることができました。 

 

今朝のみ言葉は、旧約聖書のヨナ書です。ヨナは、ナザレ近くの町ガト・ヘフェルの出身の預言者です。ヨナが預言者として働きをしたのは、北王国イスラエル(ヤラベアム2世の治世・BC760年頃)で、彼は愛国者でありました。ある日、主がヨナに「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」(1:1)と命じました。ニネベは、アッシリア帝国の都で、この頃、北王国を圧迫し、法外な貢物を強いていました。主はヨナにニネベに行き、王をはじめこの町の人々に悪からの悔い改めを呼びかけよと命じられたのです。愛国者であるヨナは、アッシリアを憎んでおりましたので、都ニネベに行って悔い改めのために働けと言われる主の命令に、従うことができませんでした。

  そこでヨナは主より逃れ、ヤッファの港に行き、タルシシュ(現在のスペイン南部)行の船に乗り込みました。しかし主は、ヨナを乗せた船を見つけ、嵐を起こしました。沈みそうになっている船の船員たちは、船底で眠っているヨナを見つけ、嵐の原因がヨナにあることを知りました。彼らがヨナを海に投げ込むと嵐は静まり、ヨナは巨大な魚に呑み込まれて、3日3晩、魚の腹の中で祈りました。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。わたしは感謝の声をあげ、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。」(2:3・10)  ヨナの祈りは主に届き、主が命じられると魚はヨナを陸地に吐き出しました。

 再び主は、ヨナに都ニネベに行くよう命じられました。当時、都ニネベには12万の人々が暮らしていました。ヨナは、ニネベに到着すると「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる。」(3:2)と告げて廻りました。すると不思議なことに、ニネベの人々は神を信じ、王をはじめあらゆる階層の人々が粗布をまとい、灰の上に座って断食をしたのです。そして主は、これを見てこの町への災いを思い直されました。一方ヨナは、敵の救いに手を貸したことを後悔し、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」(4:3)と怒り、主に訴えました。そしてヨナは、ニネベの東に小屋を建てて暑い日差しを避けながら、主が自分の訴えを聞くか否かを見届けることにしました。主が、彼にとうごまの木を与えて日陰をつくってやると、ヨナはとても喜びましたが、翌朝には虫に命じてこの木を枯らしてしまわれました。さらに、主は砂漠からの熱風(東風)を吹きつかせると、ヨナは暑さのためにぐったりとし、「怒りのあまり死にたいくらいです。」(4:9)と言いました。主は「お前は、自分で労することもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」(4:10)と答えられたのでした。

 

 イエスは預言者ヨナについて、このように語っています。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」(ルカ11:29~30)

主によってニネベに遣わされたヨナは、この世界に遣わされるイエスをさし示す存在でした。主は、私がどのような者であるかを知りたければ、いろいろとしるしを要求するのでなく、ヨナを知れ、と言われたのです。海に投げ込まれ、三日間魚の腹の中にいて吐き出され、ニネベの人々を救ったヨナは、十字架に架けられ、三日間墓の中(陰府)にいて復活し、すべての人々の救いを実現するイエスの到来のしるしです。ヨナの船を襲った嵐の出来事は、湖を渡る船が嵐にあい、眠っていたイエスを起こした出来事のしるしです。東風ととうごまの木の話は、ぶどう園の労働者の話やからし種の話を思い起させます。そしてなによりも、ニネベの人々の滅びを惜しみ、ヨナを遣わした神は、すべての人々の滅びを惜しみ、イエスを遣わした神でありました。

ところで、ヨナがニネベに行って悔い改めるように語った時、なぜニネベの王や町の人々は、すぐにヨナの言葉を聞き入れたのでしょうか。私は、神ご自身が先に救いの種(福音)を蒔いておられ、ヨナ(鳩、愛の使者の意)の訪れとともに、悔い改めに導かれたのだと思います。BC722 年、北王国イスラエルは、アッシリア帝国に滅ぼされ、北王国の人々(サマリア人)はこの地に移住してきたアッシリアの人々と生活するようになりました。やがて、北王国(サマリア)で働きをしたヨナをはじめ、エリヤ、エリシャ、ホセア、アモスといった預言者たちの蒔いた救いの到来を告げる言葉の種が、イエスの到来によって一気に芽吹き、刈り入れの時をむかえることとなったのです。

「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」(ヨハネ4:35)

 

 預言者たちの時代、主の言葉を告げること(悔い改めと救いの到来を告げる言葉の種を蒔くこと)は、苦しみの働きでした。彼らは、外では迫害を経験し、また内ではメシヤの到来によって実現する刈り入れの喜びを経験できずにいました。預言者ミカは、「お前は種を蒔いても、刈り入れることなく、オリ-ブの実を踏んでも、その油を身に塗ることもない。新しいぶどうを搾っても、その酒を飲むことがない。」(ミカ6:15)と主の言葉を語りました。

しかし、預言者たちは、やがて蒔く者と刈る者が共に喜ぶ時が来ることを信じていました。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126:5~6)と、告げられていたからです。

救いの福音を聞いた人(種を蒔かれた人)は、イエスの到来によって、時を経ずして、すぐに収穫されます。また救いの福音を語る人(種を蒔く人)は、イエスの到来によって、そのまま刈り入れる人になるのです。イエスがおいでになられることで、種蒔きと収穫が同時に行われる時代が実現したのです。

 

ここに集まる私たちもまた、福音の種を蒔いていただき、命の実を実らせて収穫の時を待つものです。すべては、ヨナが預言し、イエスによって実現されることです。主イエスによる救いの福音を語る者も聞く者も、福音が語られたその時が実りの時であり、福音を聞いた時が収穫の時です。そして福音を聞いた者も語った者も、その時が、また新たな種まきの時であることをも覚えさせられます。「わたしはまだだめ、もう少し準備しなければ」「この人はまだふさわしくない。期間を経ねば」、こうした考えは、人間の考えることで、預言者ヨナの時代のものです。私たちの周辺にはすでに、収穫の時をむかえ赤く色づく麦畑と、田植えを終えた緑の田んぼが広がっています。イエス・キリストによって収穫や種まきが繰り返されています。このことを実現してくださったのは、すべての人の救いを望んでおられる惜しむ神なのです。

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