W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2021.10.31 降誕前第8主日 ( 宗教改革記念日礼拝)

今 週 の 聖 句 >
イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
(マルコによる福音書6章51~52節)
「 勇気を出しなさい 」 仁村真司教師
< 今 週 の 聖 句 >
イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
(マルコによる福音書6章51~52節)
「 勇気を出しなさい 」 仁村真司
今日の箇所でイエスは普通に湖の上、水の上を歩いているようですが、これは普通のことではありません。奇跡です。なので、その前後も勿論大切なのですが、私などはどうしても水の上を歩いたことばかりに気を取られてしまいます。
イエスはいつも湖の上を歩いて移動していた訳ではなくて、普段は舟で移動しているのですが、水の上を歩くのがイエスの特徴であるかのように、一般的にもそれとなく思われているようです。例えば、短時間ですが水の上を走れるトカゲ(バシリスク属)には、それだけで(悪霊を追い出すだとか、他にイエスとよく似た所があるという訳ではないのですが)「キリストトカゲ」という別称がついているそうです。
とは言っても、弟子たちだって湖の上を歩くイエスを見て幽霊だと思ったぐらいです(49節)。現代の私たちがイエスは本当に水の上を歩いたと考えるのは無理、無理とまでは言わなくても難しい。それで、水の上を歩いたとは、本当に水の上を歩いたということではなく(なかったとしても)、何かを表現している、何かのたとえである・・・とこんなふうに考えて行くことになります。
そうすると、勢い物語全体を何か他の事柄を示すための一種の「たとえ話」のように受け止めて行くことになります。
1)
イエスが弟子たちを教会という舟に乗せて歴史の荒波の中を導く・・・。今日の箇所が示しているのはそういうことだという解釈があります。
こう考えると、いろいろなことがピタッと来る感じはします。46節でイエスは一人山に行き祈っていますが、これは復活したイエス・キリストの昇天。湖はこの世、世界で、48節の逆風はキリスト教・教会への逆風、キリスト者への迫害等この世の困難・試練、あるいは逆風のため漕ぎ悩んでいる、進めないのはイエスなき教会の姿を示す。そして、そこに、そのような時に、イエス・キリストはやって来てキリスト者を導いていく・・・。
イエスが湖の上を歩いてやって来ることをキリストの再臨を現していると考える人もいますが、いずれにしても、イエス・キリストは今も、これからも私たちを導き続けるということで、これは確かです。
ただ、このように受け止めた場合、本当に奇跡は起こったのかどうかは問題ではなくなって、奇跡はきれいサッパリなくなってしまいます。私は何もイエスが本当に水の上を歩いたと信じなければならないとか、そういうことが言いたい訳ではありませんが、51・52節に「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。
「パンの出来事」とは前回取り上げました、五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹したという出来事です。マルコはこの出来事を奇跡として伝えているのですから、今日の箇所についても、他の何かことを示そうとしているのではなく書いてある通りのこととして、イエスが水の上を歩いたという奇跡は奇跡として、伝えているということになります。
2)
「心が鈍くなっていた」(52節)と言うと、弟子たちが鈍感になっていたかのようですが、幽霊だと思って大声をあげて脅えた弟子たちが鈍感になっていたとは思えません。ここは「鈍くなっていた」というよりも「硬くなっていた」という感じです。聖書協会共同訳では「心がかたくなになっていた」と訳されています。
では、心が硬くなっていたとはどういうことでしょう。
心が硬くなっていた弟子たちは湖の上を歩くイエスを見て幽霊だと思ったのですが、今の私たちならどう思うでしょうか。やっぱり幽霊だと思う人もいるかもしれませんし、「合理的・科学的に」そんなこと在り得ないと考える人たちなら「錯覚だ、気のせいだ」、「何か他のものがそんなふうに見えたのだろう」と決めつけるかも知れません。また、これは夜が明けるころ(午前三時~六時頃)の話です(48節)。「寝ぼけていたんだろう」、「夢でも見たんだろう」ですましてしまうことも出来るでしょう。
しかし、マルコはイエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに行ったと伝えています。それを何か他のことを示しているのだろうと考える多くの現代人と、幽霊だと思った弟子たちとの間に大した違いはないと思います。むしろ脅えて大声を出した弟子たちよりもあっさりと「そんなことは在り得ないのだから」と考える人の方がイエスに対して心がより硬くなっていると言えるのではないでしょうか。
「心が硬くなっている」とは、「常識」や自分の考え、思い込みに囚われて、イエス・キリストが私たちに示していることをそのまま受け入れることが出来なくなっている、イエス・キリストの導きに気づけなくなっているということだと思います。
3)
マルコ福音書6章は、イエスと身近に接しながらも心が硬くなっている人たちの姿を描くことに多くが費やされています。
まず冒頭で、イエスを受け入れない故郷ナザレの人たちの姿。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかはなにもおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(5~6節)。
更に、五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹した際の(30~44節)、そして今日の箇所で湖の上を歩くイエスを見た際の弟子たちの姿。
そうすると、6章におけるイエスによる奇跡は、心が硬くなっている人たちへの働きかけと受け止めることも出来るのではないかと思います。
そして、今の私たちは、奇跡は本当にあったのかなかったのか等と考えるのではなく、奇跡を自分に向けられた、自分の硬くなった心に対するイエスの働きかけとして受け止めなければならないのでしょうか。
「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」(48節)
イエスは弟子たちの所に行っているのに、そのままそばを通り過ぎようとしたというのは奇妙な話です。弟子たちが脅えて大声で叫ばなければ、あるいは気づかなければ、そのまま通り過ぎたということなのか、どういうことなのかよくわかりませんが、ともかくイエスはすぐに弟子たちと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言った・・・。
「安心しなさい。幽霊ではない。わたしだ。怖がらなくても大丈夫」とイエスは言っているのではありません。イエスはこう言っているのだと思います。「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れるな。」
私たちの周りでは日々様々な出来事が起こっています。その全てをしっかりと見るのは無理ですが、本当はしっかりと見ないといけないのに、取るに足らないことと思い込んで見過ごしたり、不快に思ったり、不安になるのが嫌だとか、あまりに怖いので目を背けているということも沢山あるでしょう。しかし、いくら見ないようにしてもそういうことは往々にして追っかけてきます。そして、向かい合わなければならなくなります。
それでもまだ逃げ出してしまいそうな弱い私たちに「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れるな」とイエスは語りかけています。イエスを信頼する、そして勇気を出して見る。そうすれば、不安や恐怖、「幽霊」にしか見えなかったことの中に、私たちのところへ歩いて来る、私たちのすぐ側にいるイエス・キリストの姿が見えるということなのだと思います。
2021.10.24 聖霊降臨節第23主日 【 特別伝道礼拝(新Bの組)】

< 今 週 の 聖 句 >
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない。 (ルカによる福音書10章42節)
「マリアの選んだ方」 榎本恵牧師(アシュラムセンター主幹牧師)
< 今 週 の 聖 句 >
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない。
(ルカによる福音書10章42節)
「マリアの選んだ方」 ルカによる福音書10章38~42節 榎本恵
お訪ねくださった主を迎え、最高のもてなしをしようと右往左往するマルタ。それに対し、主の側に座り込み、話を聴くマリアの姿、それはさしずめ最近のはやり言葉で言うならばKY(空気が読めない)とでも呼ばれるものだろう。忙しく立ち居振る舞いながら、周りに気配りし、心を尽くす姉にとって他人のことは少しも目に入らず、自己中心にただひたすら話を聴くだけの妹の存在は許すことのできないものだったに違いない。けれども主はこのように言われる。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41-42)
「ルカ福音書のこのところは、多くの人が印象にとめている大事な場面であるが、これをテキストに説教するのは牧師としてまことにつらく、苦しい。簡単にマルタのとった行動はよろしくない、とはっきり言い切ってしまうと、やはり問題がのこる。そこで、「マルタも悪くなかった」と言ってごまかす。しかしイエスさまがどちらに軍配を上げているかというと、「マリアは良い方を選んだ」と言っておられるから、やはりマリアのほうが良いことになる」(「日本の説教榎本保郎」より)
片方では、愛の業を「行って、同じようにしなさい」と勧めた主が、今度は何もせずただひたすら聴くマリアを誉める。それは一見矛盾することのように見えるだろう。信仰と行い、奉仕の業と祈り、それはいつも、対立するものとして考えられやすい。しかし、この両者を繋ぐ言葉がある。そう、「良い方を選ぶ」こと。私たちはいつも、自由に選ぶことができるのだ。私にとっての良い方ではなく、神にとっての良い方を。何かをするのでもなく、何かをしないのでもない。ただ主にとって「良い方を選ぶこと」これこそが私たちに与えられた「キリスト者の自由」である。
2021.10.17 聖霊降臨節第22主日 【 特別伝道礼拝(新Aの組)】

< 今 週 の 聖 句 >
イエスはその場に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
(ルカによる福音書19章5節)
「急いで降りてきなさい」 榎本恵牧師(アシュラムセンター主幹牧師)
< 今 週 の 聖 句 >
イエスはその場に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
(ルカによる福音書19章5節)
ルカによる福音書19章1~10節
「急いで降りてきなさい」 榎本 恵
皆さんは、山ノ口獏という詩人を知っているだろうか。もう亡くなって50年近くたつ詩人のことを知る人は、きっとそんなに多くはいないであろう。しかし彼の残した詩は、今も私たちの心に迫ってくる。
「貧しさや生活の困難、戦争の中でも詩を手放さなかった詩人、山之口獏。一篇の詩を生み出すのに百枚も二百枚も原稿用紙をほごにしたり、詩集を出しては、声を張り上げて泣いたり、そして戦争や差別、世の不合理に対して怒った獏。沖縄を遠く離れて生きながらも、沖縄を深く思い、その行く方を案じた獏。生活者の眼差しで詩を生み続けた「魂の貴族」「精神の貴族」は、現在でも「ばくさん」と親しみを込めて呼ばれ、愛され続けている。」(「アルバム・山之口獏」沖縄タイムス社より)
そんな山之口獏の詩に「座布団」という詩がある。
土の上には床がある 床の上には畳がある 畳の上にあるのが座布団で、
その上にあるのが楽という 楽の上には何もないのだろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて 楽に座ったさびしさよ
土の世界をはるかに見下ろすように 住みなれぬ世界がさびしいよ
土の世界をはるかに見下ろす、その所が決して豊かでもなく、素晴らしいものでもない、さびしい世界なのだと、詩人は詠う。楽を求めて上へ上へと登ることが正しいことであり、土ではなく床へ、床ではなく畳へ、畳ではなく座布団の上へ、そしてその先にあるというもっともっと上を目指し、上昇しようとする人間の姿、山之口獏はそんな人間の愚かしさを、土の世界をはるかに見下ろす目として描いているのではないだろうか。そしてそれは、今日のテキストであるルカによる福音書19:1-10に描かれた、いちじく桑の木に登り、目の前を通るイエスを見る、ザアカイの目に通じるのではないだろうか。
彼は何を思いながら、木の下を見つめていたのだろう。そんなザアカイを、イエスは見上げて、「急いで降りてきなさい」と声をかける。誰からも愛されないあわれな男を、人を踏み台にし生きているそんな醜い男を、イエスは見上げ、「今日、あなたの家にぜひ泊まりたい」と言われるのだ。「ザアカイよ」と呼びかけるその主の言葉は、もう一度彼に自分が「清い人、義人」であることを思い起こさせる。そして「急いで降りてきなさい」との言葉は、上へ上へと登っていった自分の姿を振り返り、降りることを教えてくれる
2021.10.10 聖霊降臨節第21主日

< 今 週 の 聖 句 >
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。
(マタイによる福音書22章21節)
「権威は神によって立てられる」 深見祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。
(マタイによる福音書22章21節)
「権威は神によって立てられる」 深見祥弘
菅前首相は、就任一年で退陣しました。彼は、地方出身のたたき上げで、横浜市議から衆議院議員、総務大臣から官房長官、そして首相に上りつめました。7年余りの官房長官時代、彼は決めたことをやりぬくことにこだわったそうです。安倍政権下、一時的に支持率が落ちても、やりぬくことでそれが回復するのを見て、自らの政権においても、その姿勢を取り続けたのです。例えば新型コロナへの対応の不備により支持率が下がっても、ワクチン接種がすすめば、支持率は回復すると考えていました。しかし、一日一万回接種、高齢者接種の7月末完了、オリンピック・パラリンピックの開催など、これらを達成しても、思いどおりには支持率は回復しませんでした。官房長官時代は、人事権を握り、それを使って剛腕をふるって様々なことを行い、評価を受けました。でもコロナ禍にあって、首相に求められたのは、国民の不安に寄り添うリーダーの言葉でありました。「広島原爆の日」の挨拶の不始末に見られるように、役人に原稿をつくらせ、あらかじめ目を通すこともせず読むだけでは、どんなに他で成果を上げたとしても、国民の支持を回復することは期待できません。その成果は、役人はじめ多くの人々の涙ぐましい努力によって成し遂げられたものであることを、国民は知っていたからです。先週、新たに岸田文雄首相が就任しました。様々な課題が山積していますが、国民の思いに寄り添いつつ、自分の言葉で語り、その言葉の責任を担いつつ、働きをしていただきたいと願います。 (参考:毎日新聞9・20「記者の目」)
今朝の御言葉は、マタイによる福音書22章15~22節「皇帝への税金」の話です。これは、受難週の出来事です。イエスは、エルサレムに入場した後、数日間、日中エルサレムで働きをし、夜は親しい人々のいる近郊の村ベタニアで休息されました。ある日、イエスが神殿の境内で教えをしていると、ユダヤ教の指導者たちが来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(21:23)と問いました。これに答えてイエスは、「二人の息子のたとえ」、「ぶどう園の農夫のたとえ」、そして「婚宴のたとえ」を語り、イエスが権威を持つ神の子であることを教え、彼らに悔い改めを求めました。
ファリサイ派の人たちは、神殿の境内から出ていくと、ヘロデ派の人たちと一緒になって、どのようにしてイエスを陥れようかと相談しました。そこで彼らが思いついたのは、「ローマ皇帝への税金」の問題でした。ユダヤは、当時、ローマ帝国の支配下にあり、人々は人頭税として毎年、一人一デナリオンをローマ政府に納めていました。しかしこの納税をめぐって、人々の間に意見の相違があったからです。
例えばファリサイ派の人々は、イスラエルから税をとる外国人は神の権威を侵す者と考え、納税を良しとしませんでした。律法に、「必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。」(申命記17:15)と定めていたからです。
これに対し、ヘロデ派の人々は、領主ヘロデを支持し、かつてのヘロデ大王の時代の権勢を回復するため、人々に納税を勧めるなどローマに協力しました。このように、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は、ローマへの納税について、まったく異なる立場をとる人々でした。しかし、この両派は、イエスを陥れようとする思惑では一致し、一緒にイエスのところにやって来て問いました。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」この問いに対し、イエスが納税を認めれば、律法に背くことになり、ファリサイ派の人々がイエスを宗教的な面で訴える口実を得ることになります。反対にイエスが納税に反対すれば、ヘロデ派の人々が政治的な面で(すなわちローマに対する反逆者として)、訴える口実を得ることができるのです。
イエスは、そうした彼らの悪意に気づき、「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい」と言い、彼らがデナリオン銀貨を持ってくると「これは、だれの肖像と銘か」と尋ねました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。彼らは、その答えに驚き、その場を立ち去ったのでした。
デナリオン銀貨は、ユダヤの人々の一日の労賃でした。支配国ローマが発行する通貨で、ユダヤの人々は屈辱を覚えながらも、これを手にし、これに生かされていたのです。銀貨の表面には、ローマ皇帝ティベリウス・カイザルの胸像が刻まれ、「ティベリウス・カイザル、聖なるアウグストゥスの息子」と銘が記されていました。また銀貨の裏面には、ティベリウス・カイザルの母リディアの像が刻まれ、「大祭司」との銘が記されていました。人々がこの銀貨を手にする時、十戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト20:4)との教えを覚え、心を痛めたのでした。
ところが祭司やファリサイ派の人々は、民が罪の意識を持ちながら、その手を汚さなければ生きてゆけないという思いに寄り添うことなく、自分たちの手を汚すことのないようにしていました。すなわち、人々が神殿税を納める時、デナリオン銀貨をユダヤの通貨(半シェケルか二ドラクメ)に両替させて納めさせていたからです。ヘロデ派の人々もまた、民が屈辱を覚えながらそれを用いて暮らしていることに寄り添うことなく、皇帝の権威を用いて自己実現を図っています。王に納める税は、本来、人々や社会の福祉のために用いられねばなりませんし、神殿に納める税は、神の愛の実現のために用いられねばなりません。王は、人々の福祉のために働く者として神が立て、権威を与えた者です。そして祭司は、神の愛の実現のために働く者として神がお立てになり、権威を与えた者です。
イエスは、この後、ご自分を神と民に献げて、十字架にお架かりになられました。それは、神と罪人となった人々に仕えるためでした。神が、その権威をイエスにお与えになられたのです。イエスは、どこまでも民に寄り添い、福音を告げ知らせました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(5:4) イエスの言葉や業は、イエスの自己実現のためのものではありません。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」、このように試みる者たちは言いました。神によって立てられた権威は、誰をもはばからず、分け隔てすることはありません。私たちは、世の権威に翻弄されることもありますが、神によって立てられた真の権威である、イエス・キリストから慰めをいただきましょう。さらに私たちは、私たちの救いの体験から、真の権威イエス・キリストが共におられるとの証しによって、人々に寄り添い、命の言葉、神の福音を語ってまいりましょう。
2021.10.3 聖霊降臨節第20主日
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< 今 週 の 聖 句 >
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。
(マタイによる福音書21章22節)
「信仰を問いなおす」 深見祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。
(マタイによる福音書21章22節)
「信仰を問いなおす」 深見祥弘
10月第一日曜日は、世界聖餐日・世界宣教の日です。日本キリスト教団は、アジア、南・北アメリカ、ヨーロッパ各国に17名の宣教師を派遣しています。また、6つの関係教会があります。これらの宣教師・関係教会の働きは、「共に仕えるために」(教団世界宣教委員会発行)によって知ることができます。2020年10月以降の報告を見ますと、宣教師・関係教会の宣教活動が、コロナによって大きな影響を受けていることがわかります。ここで、関係教会の一つであるマレーシアの「クアラルンプール日本語キリスト者集会」(KLJCF)の報告を紹介いたします。この「集会」は、1983年に創立されました。主なメンバーは、マレーシア在住の日本人です。創立後38年間で、「集会」に日本人の牧師が着任していた期間はその半分くらいですが、教会の運営は協力してくださる現地の牧師と、信徒たちによってなされてきました。最近の様子はこう紹介されています。「2020年3月15日の日曜礼拝を最後に教会での礼拝は行われていません。マレーシア政府の発令した活動制限令によって全ての宗教の集会は制限されているためです。制限解除は2022年に入ってからになると思われます。帰国する人が相次ぎ、赴任や移住をしてくる人は皆無で、現在メンバー数は15人を切っています。各自、協力牧師の英語の説教を日本語に訳した録音を聞いたり、日本の牧師のYouTubeの説教動画を見たりして、礼拝を守っています。また「集会」のメンバーが順番に祈りを教会のホームページに捧げ、毎日更新しています。18歳の大学生から70歳を過ぎた退職者まで、ほぼ10日に一度回ってくる祈りのリレーを繋いでいます。教会での交わりはできませんが、他のメンバーの祈りを読むことで、以前より互いの心の深いところを知るようになり、祈りによって励まし合っています。KLJCFの今の祈りの課題は、教会の礼拝が再開された後、日本からのクリスチャン、それもお子さんのいるファミリーがやってきて、小さくなってしまった群れが大きくなることです。」
(KLJCFホームページ https://kljcf.org/free/prayer2021)
今朝の御言葉は、マタイによる福音書21章18~22節 イエスが「いちじくの木を呪う」話です。これは、受難週の出来事です。イエスは、都エルサレムに入場した後、数日間、日中はエルサレムで働きをし、夜は親しい人々のいる近郊の村ベタニアで休息されました。この朝もイエスは、ベタニアから都に向かわれました。朝、食事をしなかったのでしょうか、イエスは途中、空腹を覚えられ、道端にいちじくの木があるのを見て、近寄りました。しかし、季節は過ぎ越しの祭りが行われる春4月、いちじくは葉を茂らせていますが、まだ実はありません。(ユダヤのいちじくは、6月と9月ごろに実をつける。) イエスは、いちじくに向かって、「今から後いつまでも、お前に実がならないように」と言われました。するといちじくの木はたちまち枯れてしまったのです。弟子たちは驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」(どうしてこんなことをなさるのですか)と問うと、イエスはこのように答えました。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
この話は、なかなか難解です。まず、実のない葉ばかりのいちじくの木とは、何をあらわしているのか。次にイエスは、そのいちじくの木をなぜ呪い、枯らしてしまわれたのか。さらに枯れたいちじくの木の話と、イエスの信仰と祈りの教えは、どう結びつくのかということです。
まず、葉ばかりで、実のないいちじくの木は、イスラエルを象徴しています。見栄えはよくても、形式化した行為や祈りをするイスラエルのことです。イエスが求めたいちじくの実とは、悔い改めて神に立ち返ることをあらわしています。
次にイエスは、なぜいちじくの木を呪い、枯らしてしまったのでしょうか。イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4:17)と呼びかけ、伝道をしました。そして今、イスラエルの救いのために十字架に架かろうとしています。イエスは、小さく青くてもよいので、イスラエルに悔い改めの実を見出すことができればと思われたのです。しかしイエスは、それを見出すことができず、裁きの宣告としていちじくの木を枯らしたのです。
さらにいちじくの木の話と信仰と祈りの話は、すんなりとは結びつきません。なぜならこの信仰と祈りの話は、イエスが別の場で話したものであるからです。福音書記者マタイは、ある意図をもっていちじくの木の話と一緒にしたのです。マタイの意図とは、人々に悔い改めの「実」の有無を問うことです。イスラエルにその実を見出すことができなかったが、イエスの弟子たちにその実があったのか、後の時代の信者たちはどうなのかを問うているのです。
ルカ福音書18章9~14節に「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえがあります。二人の人が祈るために神殿にきました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。ファリサイ派の人は、立って「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。徴税人は、遠く離れたところに立ち、目を上げず胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。イエスは、義とされて家に帰ったのは徴税人であったと話されたのでした。葉ばかりを茂らせるいちじくの木は、このファリサイ派の人と重なります。この人は、わたしはこれを守りました、あれもやりましたと主張し、自分の行いによって自分を救うことができると考えています。それに対して徴税人は、主張すべきものを何も持っていません。ただただ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とすべてを委ねて祈っています。神は、徴税人の小さな実である信仰を顧みてくださったのです。
マタイは、別々であったいちじくの木の話と信仰と祈りの話を、一つにまとめて記しました。その意図は、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(22)ことを伝えるためです。イエスは、まもなく捕らえられ十字架に架けられ、弟子たちとは離れ離れになります。イエスは、御自分がいなくなった後、弟子たちが、大きな迫害や困難(「山」)を経験することになるけれど、信じて祈るならば、迫害者(葉ばかりを茂らせる者たち)を退け、山をも動かすことができることを弟子たちに教えたのでした。マタイもまた、彼と同時代を生きる困難を抱える教会や信者たちに対して、そして未来の教会や信仰者を励ますためにこれを書いたのです。
KLJCFの兄姉は、コロナという困難にあって、今集まって礼拝を行うことができません。そうした中、10名余りのメンバーが、毎日順に、祈りのリレーを繋ぎ、教会のホームページに載せておられます。必ずや、この兄姉の信仰と祈りが神に顧みられることを信じます。兄姉は、さまざまな困難を退け、コロナという山を動かし、再びマレーシアに日本の人々が戻ってきて、共に賛美を献げる日のくることを信じています。わたしたちも、小さな信仰の実を、主にお献げいたしましょう。