≪次月 1月(2021)礼拝説教要旨 前月≫

 

2021.1.17 降誕節第4主日​​    

< 今 週 の 聖 句 >

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。     

(ルカによる福音書2章39節)

 「 ナザレの人イエス 」  仁村真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。     (ルカによる福音書2章39節)

 「 ナザレの人イエス 」        仁村真司

 文章に文字では書かれていない事柄を読み取るという意味で「行間を読む」という表現がありますが、今回はそういう感じになると思います。

 聖書の個所は行の間ではありませんが短くて、赤ちゃんのイエスがエルサレムの神殿で献げられるエピソード(22~38節)と、大変有名な十二歳のイエスのエルサレムの神殿でのエピソード(41~52節)の間の「つなぎ」のような所です。

 1)

 「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った」(39節)。

 さらりと書いてありますが、ナザレからイエスが生まれた(とされる)ベツレヘムまで約百二十キロあります。つまり、ヨセフと身重のマリアは百二十キロの道のりをやって来て、今度は赤ちゃんのイエスを連れて、エルサレムに立ち寄り、それからナザレまで帰って行ったことになります。

 道中の天候、健康状態やその他様々な困難や危険、費用など考えれば、普通はまずしない、出来ないようなことを、ヨセフとマリアと赤ちゃんのイエス、この小さな貧しい家族はしなければならなかったということですが、どうしてそんなことになったのか・・。

 2章の始めを見てみると「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(1節)、「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤに町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなづけのマリアと一緒に登録するためである」(3~5節)。

 この住民登録は主として税金、人頭税をもれなく徴収するため、要するにローマ帝国の支配を行き渡らせ、強化するために、必要な時に、つまりは専ら支配者、皇帝アウグストゥスの都合で行われたものです。

 アウグストゥスは、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した政治的・軍事的に極めて有能な人ですが、強大な権力を持った人の常でしょう、自分がさらりと出した勅令で多くの人々が、特に貧しい人たち、弱い立場の人たちがどれ程の困難を強いられるのか、大袈裟ではなく人生が翻弄されてしまうことなど考えも思いもしなかったはずです。

 因にアウグストゥスは養父であるカエサルがローマの元老院によって神格化、神とされると、「神の子」と称されました。

 紀元前42年のことですが、「紀元前」はBC=before Christ、「キリスト前」ということです。

 アウグストゥスは、自分が「神の子」とされた年も皇帝になった年(前27年)も生まれた年(前63年)も、自分が出した勅令で、全く知らない内に塵みたいに吹き飛ばしていて、故郷のガリラヤ、ナザレから遠く離れたベツレヘムで生まれることになった神の子イエス・キリストの(誕生)前と表記されるようになるとは夢にも思っていなかっただろう・・と、こんなことを考えてみるのも面白いのですが、(残念ながら)ヨセフとマリアが住民登録のためにベツレヘムに来て、ベツレヘムでイエスが生まれたとするルカの記述は事実ではないと考えられます。

 2)

 イエスはベツレヘムで生まれたとしているのはマタイも同じですが(2章1節「ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」)、イエスがこの世にいる時にそう思っていた人はおそらくいないと思います。

 ヨセフとマリアはナザレで暮らしていたのですから、イエスはナザレで生まれたと考えるのが自然です。イエスはナザレで生まれたのでしょう。

 ですが、マタイやルカの時期(後80~90年頃?)にはイエスは神の子、キリストなのだから、ダビデの町であるユダヤのベツレヘムで生まれたという信仰が広まっていました。マタイもルカもその信仰に基づいてそれぞれの福音書を書いています。

 マタイは、ベツレヘムで生まれたイエスがどうしてナザレの人になったのかと考えて、ベツレヘムで生まれ、後にナザレに行って住んでナザレの人と呼ばれるようになったとしているのだと思います(2章)。

 ルカは、マタイとは違って(反対に)、ナザレの人であるイエスがどうしてベツレヘムで生まれることになったのかと考えて、ヨセフとマリアが住民登録のためにベツレヘムに来ている時に生まれたとしたのでしょう。

 ただ、住民登録については歴史資料に記録があって、その時にイエスが生まれたとすると後6年だったことになります。後6年は既にヘロデ王の時代ではありません。

 また、イエスが十字架につけられたのはピラトがユダヤ総督の時ですが、ピラトがユダヤ総督だったのは後26~36年と、これも歴史資料からはっきりしています。そうするとイエスは二十歳代で十字架上での死を迎えたことになりますが、ルカ自身イエスが宣教を始めたのはおよそ三十歳の時と記しています(3章23節)。

 ナザレの人であるイエスがベツレヘムで生まれたもっともな理由・事情を示すことがルカにとって重要だったのだろうと思いますが、このようにいろいろなことがちぐはぐになってしまいます。

 3)

 イエスはベツレヘムで生まれたと信じるということは、イエスは神の子・キリストであると信じて、それならば旧約聖書(ミカ書5章1節)に「お前から指導者が現れ、・・イスラエルの牧者となる」とあるベツレヘムで生まれたと信じるということですから信仰です。

 ただ、この信仰はかなり急速に広まったようですが、神の子・キリストがガリラヤ、ナザレなどで生まれるはずがないという考えもこの急速な広まりを後押ししていたと考えられます。

 他民族の支配下に置かれていたユダヤで、長い間エルサレムを中心とするユダヤ地方から切り離されていたガリラヤの人々は、ユダヤ人=ユダヤ教徒ではあっても、異邦人に近い者とされ、低く見られていました。

 そういうこともあって、イエスはベツレヘムで生まれたという信仰が広まる一方で、ナザレの人であることはあまり顧みられなくなり、ルカも赤ちゃんのイエス、少年のイエスのエルサレムの神殿での「正に神の子」という姿だけを伝えているのかもしれませんが、「外典」の「トマスによるイエスの幼児物語」は、全く違うイエス少年の姿を伝えています。

 そこでは、五歳の頃から周囲の人たちには受け入れ難いことを次々にするイエスの姿や、そのようなイエスを叱ったり、言い聞かせようとする父親、ヨセフの姿も描かれています。

 イエスはナザレでヨセフとマリアの間に生まれて、幼い時には近所の子どもと遊んだり、時にはケンカして怒ったり、泣いたり・・。そんなイエスを父親と母親、ヨセフとマリアは、叱ったり慰めたり励ましたり・・。

 イエスはこんなふうにナザレで生まれ、ナザレで育ったと想像してみることも出来るのではないでしょうか。

 「それじゃあそんじょそこらにいる人たちと何もかわらないじゃないか」ということですが、そうです。そして、ここからも神が御子を私たちの所に送ってくださったとはどういうことなのか、はっきり示されます。

 イエス・キリストは、普通の人が近寄れない「神聖な場所」、「高い所」にいるのではなく、差別や偏見に囚われたりして、私たちの方から遠ざけよう、遠ざかろうとしなければ、たとえそうしたとしても、もう既に、いつも、私たちのすぐ側に、傍らにいるということです。

2021.1.10 降誕節第3主日​​    

   <今週の聖句>

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」                          (サムエル記上16章7節)

「主は心によって見る」   深見祥弘牧師

                       <今週の聖句>

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」                          (サムエル記上16章7節)

「主は心によって見る」        深見祥弘

 この主日(公現後第一主日)は、聖書日課でイエスの洗礼を覚える日です。イエスは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネより洗礼を受けました。イエスが水から上がると、天が開き、神の霊が降り、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声を聞きました。

 私が洗礼を受けたのは、今から42年前、1978年12月24日のクリスマス礼拝でした。同志社教会で寺崎暹牧師より授けられました。思い起こすと、私は洗礼を受けるにふさわしい者ではありませんでした。なぜなら、自分、自分という思いに満たされていたからです。礼拝は、栄光館と呼ばれる建物の中の大きな講堂で行われていました。当日、私は礼拝を遅れて出席し、心配した友だちに連れられて前席に座りました。すると緊張から体が震えてきて、それをおさえることもできず、こんなはずではなかったとの思いの中で洗礼を受けました。私の思いでは、あらかじめ前席に座っているのではなく、礼拝を遅れて行って、洗礼式になった時、かっこよく中央通路を進み出て、洗礼を受けようとしていたのです。しかし、神様はそんな私を砕き、洗礼の恵みにあずからせ、「これは私の愛する子」と呼んでくださったのでした。

 

 今朝の御言葉は、旧約聖書サムエル記上16章です。サムエルは、士師の時代から王国時代にかけて(BC1020~1000年頃)働きをしたイスラエルの指導者です。彼は、士師であり、預言者、祭司でもありました。サムエルは老いると、息子ヨエルとアビヤを後継者としましたが、二人は賄賂を取ったり、裁判を曲げるなどして利益を求めたのです。そうした中、民は外国のように、王に統治されることを望み、サムエルに選任を要求しました。主は、サムエルを通して王政の危険(王は常備軍の設置、官僚制、これを維持する税を要求すること)を知らせ、民が王の奴隷になる心配があると警告しました。しかし、民は聞き入れず、ベニヤミン族キシの子サウルが王となりました。サウルは若く美しく、誰よりも背が高かったのです。サムエルは、全イスラエルに対し、王が主を畏れ、民も主と王に従うかぎり、王国は安泰であるが、そうでなければ悪の代償が下ることを伝えました。しかしサウル王は、敵から戦利品を得てはならないという神の命令をやぶるなどして、主の命令に従わなくなったのです。主はサウルを王としたことを悔い、サムエルもそのことを悲しんだのでした。

 主はサムエルに「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、

イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見出した。」と言われました。サムエルは「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」と答えました。この時、サムエルはラマに、サウルはギブアにいましたが、サウルはサムエルの行動に神経質になっていました。サムエルが新しい王をたてるために行動をはじめたことを知ると、彼を殺しかねない状況であったからです。主は、若い雌牛を引いて行き、サムエルの職務である犠牲をささげるために出かけるよう見せかけよと言われました。

サムエルがベツレヘムに到着すると、長老たちが、「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」と訊ねました。サムエルと王の関係が悪いことを知っていたからです。サムエルは彼らに「主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください」と言い、またエッサイとその息子たちも会食に招きました。いけにえをささげた後、いけにえの一部を取り下げて料理し、聖なる食事を共にしたのです。

サムエルは、エッサイと7人の息子たちが到着すると、自分の前を通らせました。まず長男エリアブを見た時、サムエルは、彼こそ主の前に油を注がれる者だと思いました。その容姿を見て、そう思ったのです。ところが、主はサムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と告げられました。こうしてエリアブからはじめて、アビナダブ、シャンマと順に7人の息子を通らせましたが、主は彼らをお選びになりませんでした。サムエルはエッサイに「あなたの息子はこれだけですか」と問うと、「末っ子が残っていますが、今、羊の番をしています」と答えました。末っ子の名はダビデと言い、聖なる会食に参加する資格のない未成年でした。しかしサムエルは、「人をやって、彼を連れて来させてください」と言いました。この子が来ると主は、「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」と言われました。そこには、血色が良く、目が美しく、姿もりっぱな少年が立っていました。サムエルは、この少年に油を注ぐと、その日以来、主の霊が彼に激しく降るようになりました。

 

 説教題を「主は心によって見る」といたしました。主がサムエルに対して「容姿や背の高さに目を向けるな。・・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉から取りました。容姿や背の高さが優れていたのは、サウルです。サウルが王に選ばれたのは、くじによってでありました。サムエルがイスラエル全部族を呼び寄せてくじを引いたところ、ベニヤミン族が選ばれました。次にベニヤミン族の各氏族がくじを引くとマトリの氏族が選ばれ、マトリの氏族の中でくじを引くとキシュの息子サウルが選ばれました。人々が主にサウルはどこにいるかと問うと、「彼は荷物の間に隠れている」と言われました。サウルが民の真ん中に立つと、美しい若者で、民の誰よりも肩から上の分だけ背が高かったのです。サウルはサムエルから、それ以前に王に選ばれることを聞いていました。しかし、サウルには王となることの恐れと不安があったのです。

ダビデは、8人兄弟の末っ子で、この時、未成年でありました。見栄えもサウルのようではありませんでした。そんなダビデを主が王に選んだのは、なぜなのでしょうか。「主は心によって見る」と言われていますが、「心」とは何なのでしょうか。その「心」とは、主の愛のことではないでしょうか。人の目から見ても一番見劣りのするダビデが選ばれたのは、ただ主の愛、主の御意志によるものだと思います。一方サウルは人の目には優れて見えたけれど、実は小心で臆病な性格でありました。しかし主は、このサウルを愛されたのです。

新しく出た聖書協会共同訳では、「人は目に映ることを見るが、私は心を見る」

と訳しています。「私は心を見る」、これは「ダビデの心に主を愛する思いがある」ことを言っています。主がダビデを愛し、ダビデも主を愛する、そのことに主は目を留めておられるということでしょう。

 

 主の愛は、主が「これはわたしの愛する子」と言われたイエス・キリストによって、より明確に私たちに示されるようになりました。その愛は、私のような者にも向けられて、洗礼の恵みにあずかることができました。ただ震えていた私が、主に愛されたことにより、私の心にも主への愛が生まれ、主を讃えるものに変えられたのです。今、ここに集まる私たちに対して、天より神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が響いています。主がわたしたちを愛してくださっているのですから、私たちも主を愛するものとして、新しい歩みを始めましょう。

2021.1.3 降誕節第2主日​​    

<今週の聖句>

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。               

  (コリントの信徒への手紙第二1章4節)

 

「わたしたちは神に希望をかけています」    深見祥弘

                       <今週の聖句>

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。                 (コリントの信徒への手紙第二1章4節)

 

「わたしたちは神に希望をかけています」    深見祥弘

 新年あけましておめでとうございます。

小林一茶に「めでたさも中くらいなりおらが春」という句があります。苦しい日々を送ってきた一茶は、新年だからといって手放しでは喜ぶことができないけれど、あることによって「中くらいなり」と詠んでいるのです。

小林一茶(1763~1827年)の生涯は、苦難の連続でした。彼は信州に生まれ、3歳で生母を亡くします。継母との折り合いが悪く、唯一の味方であった祖母も亡くなり、15歳の時、江戸に奉公に出されます。39歳の時、父の病気で故郷にもどりますが、父が亡くなった後、継母・異母兄弟との間に遺産相続問題が起こり12年間も争うことになりました。一茶は52歳で初めて結婚、その後二度結婚し5人の子どもが与えられますが、最後に与えられた女の子以外は、みな亡くなりました。さらに65歳の時、火災で家を失い、残った土蔵で暮らしますが、この年持病の発作に襲われてその生涯を閉じました。「めでたさも中くらいなりおらが春」、これはそんな彼の57歳の句です。句の前書きには、「我が家は風が吹けば飛ぶようなあばら家にふさわしく、門松も立てず掃除もしないで、ありのままで正月を迎えている・・ことしの春も阿弥陀如来にお任せして迎えたことだ」とあります。貧しい生活であるけれど阿弥陀様にお任せしたので、「中くらい」だと詠んだのです。

 

 今朝の御言葉は、コリントの信徒への手紙第二です。この手紙の差出人はエフェソに滞在していたパウロとテモテであり、受取人はコリント教会とアカイア州に住む信徒たちでした。パウロたちは、第二伝道旅行ではじめてコリントを訪れ、第三伝道旅行で再び訪れるまでの間に5通の手紙を書きました。第一コリント5章9節に「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」とありますが、この「以前の手紙」が一通目です。二通目は「コリントの信徒への手紙第一」で、コリント教会内の様々な問題についてパウロがアドバイスをしています。三通目は、「涙の手紙」(Ⅱコリント2:3~4:9、7:8.12)と呼ばれているものです。パウロはコリントを訪問する計画を立てましたが、ある出来事が原因でそれを果たせなかったので、これを書きました。四通目は、「和解の手紙」(Ⅱコリント1~9章)、五通目は「弁明の手紙」(Ⅱコリント10~13章)です。

パウロは、二通目の手紙で、エルサレム教会への献金を募るためにコリントを訪問することを伝えていました。しかし、ある事によって訪問を果たすことができませんでした。ある事とは、第二伝道旅行後、コリント教会にユダヤ人である巡回伝道者が来て、パウロを非難し、それによってパウロとコリント教会の関係が悪くなったことです。さらに、パウロは滞在先のエフェソで捕らえられることとなりました。コリントの信徒への手紙第二は、悪くなったパウロとコリント教会の関係の修復を図るために書かれた、涙と弁明と和解の手紙なのです。

 

 パウロは、1章で、これまで自らが経験してきた苦難(病気、暴動、逮捕、難破など)を思い起します。パウロには、持病があったようで、それは目の病気とも偏頭痛ともいわれています。そのことを思っているのでしょうか、Ⅱコリント12:7~10にこのような記述があります。「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

この一つのとげとは、「わたしの弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まり」と言っているように、病気に限らず苦難そのもののことを言っているようです。パウロはこれまで経験してきた様々な苦難を思い起す中から、「わたしは弱いときにこそ強い」、「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(1:4)と告白するのです。パウロは苦難の中でキリストから慰めをいただきました。そのキリストの慰めによって、あらゆる苦難の中にいる人々を、慰めることができるのです。すなわち、こういうことです。パウロたちが苦難を受ける→キリストから慰めをいただく→それによってパウロたちはコリント教会の苦しみを慰めることができる→パウロたちの慰めによってコリント教会は苦しみに耐え、パウロたちを含めあらゆる苦しみにある人々を慰めることができるのです。

 さらにパウロは、1章8節以下に、アジア州での経験を書いています。その苦難の経験とは、エフェソでの騒動(使徒19:21~)のことです。銀細工師デメトリオはアルテミス神殿の模型を造り、職人たちに利益を得させていました。しかしパウロが「手で造ったものなど神ではない」と言い、多くの人を説き伏せたのです。銀細工師は自分たちの仕事に影響があるだけでなく、偉大な女神アルテミスの威光さえも失われてしまうと訴え、町中に大きな騒動が起こりました。この時、パウロの同行者であるガイオとアリスタルコは捕らえられて野外劇場に引き出されましたし、パウロにも危険が及ぼうとしていました。パウロは、この時のことを、「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」(1:8~9)と書いています。この経験によってパウロは、「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(1:9)と記し、コリントの教会に対しても「祈りで援助してください」(1:11)と求めています。そうするならば、これから先、たとえ同様の苦難にあっても、死者を復活させてくださる神の救いと多くの人々の祈りによって、それを乗り越えることができますし、祈りをもって仕えてくれた人々も多くを学び、力づけられると確信しているのです。

 

諏訪中央病院名誉院長の鎌田實さんが、「鎌田式『にもかかわらず』という生き方」(宝島社)を出版されました。「高齢になったにもかかわらず」、「病気になったにもかかわらず」という、この「にもかかわらず」の原点は、幼い鎌田さんを、親戚でもないどのような関係かもわからない鎌田岩次郎さん夫妻が引き取って育ててくれたことです。御夫妻は貧しく、奥様は病弱でありましたので、岩次郎さんは昼夜を問わず働く必要がありました。そうした状況にもかかわらず、行き場のなかった實さんを引き取り育てたのです。そしてこの「にもかかわらず」の生き方は、希望をもって生きること、信じて生きること、愛して生きることによって道が開かれるのです。

 

コロナ禍にあって主の年2021年も、苦難の日々が続きます。コロナ禍にあるにもかかわらず、わたしたちには希望が与えられています。無力さや弱さを覚えるときも、慰めに満ち溢れるキリストを信じ、互いに愛し祈りながら歩むとき、救いの希望と強さをいただくことができるのです。

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