≪次月 11月(2021)礼拝説教要旨 前月≫

 

2021.11.28 降誕前第4主日礼拝 (アドベント第1主日) 
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< 今 週 の 聖 句 >

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

   (テサロニケの信徒への手紙第一5章10節)

 

    「主の日は来る」  深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

             (テサロニケの信徒への手紙第一5章10節)

 

             「主の日は来る」        深見祥弘

 アドベント第一主日を迎えました。新しい時の始まりです。その象徴として、ローソクにひとつの光が与えられました。また教会で用いられる典礼色が、紫色に変わりました。この紫色は、悔い改め、節制、待望、祈りという意味をもちます。「マラナ・タ(主よ、来てください)」(Ⅰコリント16:22)と祈りつつ、悔い改めの思いをもって、一本のローソクの光を見つめます。

 

 今朝のみ言葉は、テサロニケの信徒への手紙第一です。この手紙は、新約聖書27巻の中で最も古い文書で、パウロによって紀元50年頃書かれました。それに至るにはこのようなことがありました。

 第二伝道旅行中、パウロはシラスとテモテを伴ってテサロニケを訪れ伝道をしました。その結果、この町に信じる人々が与えられ、教会ができました。しかし、これを快く思わないこの町のユダヤ人たちが、ならず者を用いて暴動を起こしたので、パウロたちはやむなくこの町を離れました。途中パウロは、同伴者であるテモテをテサロニケに送って、その後の様子を調べさせました。戻ってきたテモテは、コリントに滞在していたパウロに、テサロニケの信徒たちが苦難の中で立派に信仰を守っていると知らせました。この報告を聞いてパウロが書いたのが、この手紙です。 

 パウロは手紙の前半で、テサロニケの信徒たちが生ける真の神に仕え、キリストの再臨を待望していることをテモテから聞き、神に感謝していると伝えています。また手紙の後半では、パウロがテモテより聞いた、テサロニケの信徒たちの質問に答えています。まず、キリストの再臨までの時をどのようにして生活すればよいかとの問いです。パウロは互いに愛し合い、自分の手で働くなどして落ち着いた生活をするようにと勧めています。次にキリストの再臨以前に死んでしまった信者はどうなるのかとの問いです。パウロはすでに死んだ信者たちも生きている信者も、一緒に死から命に導かれ、イエスと共にいつまでもいることになると答えました。さらにキリスト再臨はいつ起こるかという問いに対しては、そのことに煩わされることなく、再臨を確信し希望をもって「光の子」にふさわしい信仰生活をするようにと励ましました。

 

 この手紙の5章は、今お話をした「キリスト再臨の時期」について書いています。ここで、心に留めさせられたことが三つありました。

 一つ目は、この手紙においてパウロがテサロニケの信徒たちを繰り返し(14回)「兄弟たち」と信頼をもって呼びかけていることです。パウロとテサロニケの信徒たちとは、互いによく理解し支えあい、「兄弟たち」と心から呼び合う関係であったことが分かります。またテサロニケの信徒たちは、他の教会の信徒たちとも良い関係を結んでいました。「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。・・・現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しているからです。」(4:9)

 

 二つ目は、パウロもテサロニケの信徒たちも「主の言葉に基づいて」生活し、様々な備えをしていることです。主イエスは過ぐる日こう言われました。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:39)。パウロは、テサロニケの信徒たちがこの主の言葉に基づいて備えをしていることを知っていて、このように記しました。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」(5:1~2)

また主イエスは過ぐる日こう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)。パウロは、テサロニケの信徒たちがこの主の言葉に基づいて備えをしていることを知っていて、このように記しました。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。」(5:4~5) 。 先ほどこの手紙が、新約聖書の中で一番古い、福音書よりも先に、すなわち主イエスに一番近い時期に書かれたと言いました。パウロもテサロニケの信徒も、福音書が書かれる前に、主の言葉に基づき、その信仰に立って主の日の来るのを待っていたのです。

 三つ目は、感謝と祈りの生活をパウロが勧めていることです。神の救いのご計画による「主の日」は、信仰をもたない人々にとっては突然に来ます。しかし、すでに光の子とされているテサロニケの兄弟姉妹たちには、「主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲う」(5:4)ことはありません。「主の日」は約束されたものとして来る救いの日であることを知っていて、彼らは備えをして待っていたからです。テサロニケの兄弟姉妹は、主イエスが十字架において死に復活されたのは、人々のためであることを信じていました。また、この死と復活は、「主の日」の到来によって、今生きている者はむろんの事、すでに召された者も、主と共に生きるようになるためであることを信じていたのです。

それゆえに、パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(5:16~18)と手紙に書きました。テサロニケの人々に対して、すべてが神の救いの計画にあることを覚え、感謝して祈るよう勧めているのです。

 

 二千年にわたってなぜ毎年、主イエスの誕生を記念し、主の再臨を待ち望むアドベントを守るのでしょうか。なぜ、アドベントクランツに光を灯して、「マラナ・タ、主よ、きたりませ」と祈るのでしょうか。それは、わたしたちが今この時を主と共に生きるためであり、来るべき主の日に、主と共に生きるようになるためです。今を主と共に生きるということは、主の言葉に基づいておちついた生活をすること、主の言葉に基づいて人々と結ばれ「兄弟姉妹」と呼びかけ合い励ましあうこと、そして主の言葉に基づいて感謝の祈りをどんなことにも絶えず献げることです。同時にこれらのことは来るべき主の日に、生きている者も召された者も主と共に生きるようになる道です。主と共に生きるならば、今においても、将来においても一切の不安が解消されてゆくのです。

 

 わたしたち一人ひとりの内に、「霊の火」(5:19)を灯しましょう。

兄弟姉妹と呼びかけ合うわたしたちの教会に、「霊の火」を灯しましょう。そして感謝と祈りが献げられるこの世界に、「霊の火」を灯しましょう。

 そのようにしてわたしたちは、紫色の布に変えて真っ白な布(神の栄光、真理の光)をかかげる日(主の降誕の日・主の再臨の日)を迎えましょう。

2021.11.21 降誕前第5主日礼拝 (収穫感謝日・謝恩日) 
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< 今 週 の 聖 句 >

「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

(マタイによる福音書25章29節)

 

「 タラント 」      仁村真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

(マタイによる福音書25章29節)

 

「 タラント 」        仁村真司

 今回は「タラント(ン)」のたとえ話について考えて行きます。

 私が始めてこの話を聞いたのは五歳が六歳、幼稚園の時でした。小さな子ども向けにアレンジされていて(紙芝居?)、旅行に行く主人はお父さん、僕たちは息子で、一番上のお兄さんは五タラント、二番目は二タラント、一番下の弟は一タラントのお金を預けられた・・・というような感じだったかもしれません。「五タラント預かった人は、そのお金を使ってもう五タラント儲けました。二タラント預かった人も同じようにもう二タラント儲けました。」幼稚園児の私はハラハラしていました。預かったお金を勝手に使ったら怒られると思ったからです。「・・・ところが、一タラント預かった人は、そのお金を土を掘って埋めておきました。」・・・間違いなく、勝手にお金を使った二人(お兄さんたち)が怒られて、使わずに埋めておいた人(一番小さな弟)が褒められると思いました。ですが、結末は正反対で「こどもの好きなイエスさまが、一番小さな人を怒るなんて」と、訳がわからなくなったのを今でもよく覚えています。

 1)

 その後「神様から与えられた力には、人によって大きい小さいの違いはあっても、埋めておくのではなくその人なりに一生懸命活かして行きましょう」という話として何回か聞いている内に段々とそういう考え方に慣れたと言うか、知識として覚えたという感じで、小学校の5年か6年の時に、担任の先生からこの「タラント」が、英語のtalent、「才能」の語源で、才能とは本来神様からそれぞれが与えられているものだと教えてもらった時には、「そうか、そうだったのか」と納得しました。

 今考えてみるとこの時納得した(出来た)のは、理屈ではなく、その先生やそれまでの先生方が本当に「どんな子どもも神様からタラント(賜物)を与えられている」と信じていて、私のような扱いにくい子どもでもあきらめずに見守ってくださっていたからだと思います。

 なのですが、この話を聖書で読んでみると随分と印象が違います。

 僕たちへの主人の言動からは「あきらめずに見守る」とか、そういう感じは一切伝わってきません。30節「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」もう二度とチャンスはない。もうダメだ、これからもずっとダメだということです。

 もっとも、この結末(30節)はマタイが付け加えたものだと考えられます。「そこで泣きわめいて歯ぎしりする」と言う表現は、マタイ福音書には合わせて6回出てきます(他に8章12節、13章42・50節、22章13節、24章51節)。そして、殆どの場合最後の審判の時に向けてのキリスト者に対する教訓として用いられています。

 つまり、マタイはタラントのたとえ話を、終末、最後の審判の時のたとえとして伝えています。主人が旅行から帰って来るのはキリストの再臨、僕たちと預けたお金の清算をするのは最後の審判、だから二度とチャンスはない。今教会の一員だから、キリスト者だからといって気を抜いてはいけない、イエス・キリストに徹底的に従って行かなければ最後の審判の時泣きわめいて歯ぎしりすることになるということです。

 これはあまりに厳しい、怖いとも思いますが、このマタイの受け止め方から、神から預けられたタラント(才能、賜物)を埋めておくのではなく、活かして行かなければならないという考え方が出て来ます。

 2)

 ですが、30節はマタイが付け加えたのですから、たとえ話の元々の結末は29節、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」です。そして、これがタラントのたとえ話の主題だと考えられます。

 この前に主人は「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて十タラントンを持っている者に与えよ」と命じています(28節)。五タラントからもう五タラント儲けて、十タラント持っている僕に、お金を埋めていた僕の一タラントを取り上げて与えるということですが、これが「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取上げられる」ということなのかと言うと、それは違うと思います。

 僕たちはそれぞれにお金を持っていたのではなく、主人から預けられていただけで、元のお金も二人の僕が儲けたお金も主人のものです。

 「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取上げられる」、これがどういうことなのか、たとえ話の中で素朴に、しかし最も的確に言い表しているのは、一タラント預かった僕です。

 24節「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました・・・。」自分の身体を動かして、蒔いたり、散らしたりしないで、法外な年貢を取り立てる。それが納められなければ、その分は貸し付けにしてそれに利子をつけて更に取り立てる、「持っている人」はこのようにして益々豊かになり、「持っていない人」は、自分で汗水流して得たものさえ奪われていくということです。

 この「主人」は神でも、キリストでもありません。イエスはこのたとえ話によって、神の国を示しているのではなく、この世の生々しい現実を示しています。

 3)

 イエスが共に生きたのは持っているほんの僅かなものまで奪われてしまう「持っていない人たち」です。たとえ話の中では預かった一タラントを埋めていた人とイエスは一緒にいるのだと私は思います。

 もう一度この人の言葉を今度は最後まで聞いてみましょう(24・25節)。「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。これがあなたのお金です』」

 堂々とではなかったかもしれません。震えていたかもしれません。しかし、この世的には圧倒的に強大な力を持つ主人であっても、この人の心、魂を服従させたり、脅かすことは出来ません。自ら進み出て、「これがあなたのお金です」と言うこの人から一タラントを取上げたところで、何の意味もありません。この時主人は自分のやっていることの虚しさに、心の中で(泣きわめきはしなかったでしょうが)歯ぎしりしたかもしれません。

 残念ながらというべきか、「タラント(ン)」は神からそれぞれが与えられている賜物のことではありません。お金の単位です。それも国家予算ぐらいでしかお目にかかれないような莫大な単位です。イエスが賜物を活かすことのたとえとしてこのような話をしたとはやっぱり考えられません。

 ただ、「だれもが神から賜物を与えられている、託されている」、「その賜物には違いはあるが、それぞれが埋めておくのではなく活かして行かなければならない」というのはその通りだと思いますし、そう信じています。そう信じている人たちに私自身支えられて来たと思っています。

 このことから、タラントのたとえ話を読み直してみればどうでしょうか。

 一タラントを埋めて隠していた人は、持っている人が更に豊かになるこの世の現実に慣れてしまっている今の私たち、そしておそらくは昔の人たちにとっても理解し難い。しかし、このような人こそが持っていない人が持っている物まで奪われる苛酷な現実の中にあっても神を信じ、神に感謝し、賜物を活かして生きることに気づくのではないかと思います。

2021.11.14 降誕前第6主日 (永民者記念礼拝)【新Aの組】   
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< 今 週 の 聖 句 >

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。   (ルカによる福音書20章38節)

 

 「人は神によって生きる」  深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。   (ルカによる福音書20章38節)

 

           「人は神によって生きる」      深見祥弘

 今年の永眠者記念礼拝は、新型コロナウイルス感染予防のため、分散礼拝で行っています。先週7日(日)は、教会員(新Bの組)の皆さんと新召天者のご家族で守りました。今朝は、教会員(新Aの組)の皆さんでこれを行い、天上の兄弟姉妹655名を記念いたします。

 

 朝日新聞が2010年秋に、日本の「死生観」に関する全国世論調査を行いました。10年以上前の調査で現在の世論と異なる点もあろうかと思いますが、50以上の質問に答える同様の調査を、他に見つけることが出来ませんでしたのでこれを紹介いたします。まず「死と聞いて思うこと」は、別れ、消滅、痛み、苦しみといったもので、半数以上の人々が「死」を怖いと思っていました。またその死に対する恐怖心は、宗教を信じていても、それが無くなったり、やわらいだりすることはないと70%近くの人々が考えています。次に「死んだ後のこと」は、半数近くの人々が人間の霊魂は残り、死後の世界はあると考えています。その死後の世界に対する人々のイメージは、生まれ変わり、やすらぎ、永遠の世界といったものです。しかしこのことは同時に、死後は何もない、何も残らないと考える人々が半数いるということでもあります。さらに「自分の葬儀」については、葬儀をしてほしいという人が60%近く、どういう形式で行うかは家族に任せるという人が80%近く、身内親族だけの参列でいいと答えた人が70%強でした。これは、自分の葬儀で家族や知人に負担をかけたくないという思いがあるようです。期せずして、今コロナによって家族親族による家族葬がほとんどになっています。

 

 今朝の御言葉ルカによる福音書20章27~40節は、イエスとサドカイ派との復活問答です。宗教教派としてのサドカイ派は、人間の復活はない、死後の世界や死んだ後の霊魂も存在しないと考える人々でした。彼らは律法(モーセ五書)を文字どおりに解釈する保守主義で、律法に記述のない復活や霊を否定し、人間の存在は死において終わり、死後の世界はないと主張いたしました。一方宗教教派としてのファリサイ派(律法学者)は、律法とともに口伝を重視し、死後の世界や死者の復活を信じる人々でした。

 

 イエスがエルサレムに入場した後のことです。サドカイ派の人々がイエスのところに来て尋ねました。先生、モーセの律法には、ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない(申命記25:5)と定められてます。さて7人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、長男は子をもうけることなく死にました。そこで律法にしたがい、次男が兄嫁をめとりましたがやはり子をもうけることなく、彼も亡くなりました。さらにその弟たちも同じようにして兄嫁をめとりましたが亡くなり、最後にこの妻も死んでしまいました。人に復活があるとするならば、この女は復活の時、誰の妻になるのでしょうか。

 彼らの問いにイエスは、このように答えました。結婚は神が人間の関わりの必要を満たすものとして(創世記2章 助ける者)、また子孫を残すために定められたものです。しかし復活の恵みにあずかる者は、もはや死ぬことはありません。死のない世界では結婚の必要はなくなるし、この世における人間関係(夫と妻、親と子)も止揚され、全く新しい関係が実現します。すなわち夫と妻、親と子は神の前で兄第姉妹(神の子)としての交わりをもつようになり、ともに神を賛美することが実現するのです。だから7人の兄弟にとついだ女が、復活後、誰の妻になるのかとのあなたがたの問いは、むなしいものです。

 

 今度はイエスがサドカイ派の人々に尋ねます。あなた方が大切にするモーセの律法の「柴」の箇所(出エジプト3章1~6節)に、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と書かれていますが、これをあなた方はどう読みますか。ここには「~である」と書かれているように、神がアブラハムたちの死後も彼らの「神である」と言っています。神は彼らが地上で生きている時に彼らの神であられたように、彼らの死後も変わらず「神である」と言っておられるのです。つまりアブラハムたちは、滅びてしまった訳ではなく、復活を約束された死に方をしているということではないのかと尋ねたのでした。

 神はモーセに対し、奴隷となっているイスラエルの民をエジプトから救い出しよみがえらせて、約束の地を与えると告げられました。また将来、第二のモーセ(イエス・キリスト)とも言うべきお方の死とよみがえりの愛によって、死んでよみに捕らわれている人も含む、すべての人々をよみがえらせ、神の国に導き入れることをも示されたのです。イエスは、ついにそのことが実現する時が来ているとサドカイ派の人々に告げたのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(38) イエスはこの問答を通して、「死」は人間の完全な滅びではないと教えられました。来るべき日、主を信じて死んだ人々は復活し、神の国に導き入れられます。神の国においてはこの世のあらゆる関係は解消され、新たに神の子としての関係、神の前にともに立つ兄弟姉妹としての関係が実現すると教えられたのです。

 

 主を信じて死んだ人々は、復活し神の国に導き入れられると言いましたが、イエスのことを知らずに死んだ人々(旧約時代の人々やイエスに出会わなかった人々)やイエスを知っていたけれど信じなかった人々は、どうなるのでしょうか。ペトロの手紙第一3章には、信仰を持たずに亡くなった人は救われるか否かとの問いとその答えが書かれています。この手紙が書かれたのは1世紀末、ローマによるキリスト教迫害の激しい時代でした。そうした世に暮らした人々の中には、キリスト教に反発した人々もいましたし、福音を聞いても弱さのために信仰に至らなかった人々もいました。ペトロはこの手紙に、イエスが私たちの世に生まれ、苦難を負い、十字架に死なれたのは、正しくない人をも神のもとに導くためであったと書いています。またイエスは、肉では死に渡されたが、復活をして霊において生きるものとなられたのです。この霊なるキリストは、キリストを知らずに亡くなった人々や、キリスト教に反発したり、無関心で亡くなった人々、さらには弱さのために信仰を持つに至らず亡くなった人々のところに行って宣教をされます。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところに行って宣教されました。」(Ⅰペトロ3:19)  ですから私たちにできることは、イエスが救い主であるとの告白と復活信仰にしっかりと立ち、委ねて家族やすべての人々の救いのために祈ることです。 

 ルカ福音書20章27節~40節は、日本社会における「死」に対するサドカイ派的な人々の問いに対するイエス・キリストの教えを示し、また信仰者である私たちに対するイエス・キリストの励ましを語っているのです。

「すべての人は、神によって生きているからである。」私たちはこの教会に連なる655名の天上の兄弟姉妹とともに、主の十字架とよみがえりの愛(讃美歌382)を覚えて賛美いたしましょう。 

2021.11.7 降誕前第7主日 (永民者記念礼拝)【新Bの組】   
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< 今 週 の 聖 句 >

それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。                                    (申命記32章47節)

 

 「あなたたちの命」   深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、

あなたたちの命である。       (申命記32章47節)

 

            「あなたたちの命」       深見祥弘

 教会では11月第一日曜日を聖徒の日・永眠者記念日として、ご遺族と共に天上の兄弟姉妹を記念する礼拝を行ってまいりました。しかし昨年と同様に、今年も新型コロナウイルス感染予防のため、全てのご遺族の皆様をお迎えすることができませんでした。今朝は、教会員(新Bの組の皆様)と新召天者のご家族の皆様とでこの礼拝を守ります。

 この記念礼拝では、近江八幡教会に連なる天上の兄弟姉妹654名を記念いたします。特に昨年の記念礼拝から今日までの間に召された5名の方々の御霊の平安と、ご家族の皆様の上に主の慰めが与えられるように祈りながらこの時間を過ごしてまいります。(5名の方々とは、4月26日に召天された柳原茅子姉、6月8日に召天された仁村正司さん、7月20日に召天された小西逸子姉、10月23日に召天された大原善之兄、11月3日に召天された徳田正治兄です。)

 

 今から三千年前のことです。イスラエルの民はエジプトで奴隷でありました。主の憐みが与えられ、彼らはモーセに導かれてエジプトを脱出し、約束の地カナンにむかいました。それは40年に及ぶ荒れ野の旅となりましたが、ついに彼らは約束の地を目前にする所まで来ました。しかし主はモーセに対して、「あなたの死ぬ日は近づいた」(31:14)「あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない」(32:52)と告げました。モーセはイスラエルの全会衆を呼び寄せると、主を賛美する歌(モーセの歌)を語り聞かせました。今朝の御言葉申命記32章がモーセの歌で、これはモーセの遺言です。死を前にしてモーセは、何を会衆に伝えたのでしょうか。

 

 モーセの歌はまず、主によって創られたものすべてに対する呼びかけの言葉で始まります。「天よ、耳を傾けよ、わたしは語ろう。地よ、聞け、わたしの語る言葉を。わたしの教えは雨のように降り注ぎ わたしの言葉は露のように滴る。・・・わたしは主の御名を唱える」(32:1~3) これから語る言葉は聞く者を潤し生かすので、よく聞いてほしいと呼びかけます。

 次にモーセは会衆に、主がいかに恵み深い御方であったかを「あなたの父に問え、長老に尋ねよ」(32:7)と言います。主は荒れ野でわたしたちを囲み、いたわり、守ってくださった。また鷲がその翼にひなを載せて運ぶように、わたしたちを導いてくださった。

しかし、わたしたちはその恵みによって肥え太ると、主を捨て、他の神々に心を寄せるようになった。これによって主は怒り、イスラエルに数々の災いを送り、悔い改めに導こうとされた。主はイスラエルに問われた。お前たちの「避け所」(32:38)はどこにいるのか。「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。」(32:39) すなわち 人の生も死も、すべては主のみ手のうちにあるというのです。それゆえ主に信頼する者は、たとえ荒れ野にあっても、主が見つけてくださり、共にいて囲い、いたわり、守り導いてくださるのです。

 

  モーセが語り終えると、改めて会衆に言いました。「この歌の言葉」(32:44)を子どもたちに忠実に守らせよ。「それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」(32:47)

 また同じ日、主はモーセにこう言われました。「エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。・・・あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」(32:49.50.52)と。

 「あなたはそれゆえ」とありますが、それはメリバの泉での出来事が原因です。民は荒れ野で飲み水に困り、モーセとアロンに不満を言いました。二人が主にそれを伝えると、主はモーセに言われました。「杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい」。ところが二人は、集まった民を叱責しながら、杖で二度も岩を打って水を出したのです。二人は自分たちを非難した民を見返してやろうとの思いをもち、あたかも自分たちの力でそれを行ったかのように見せて、主の聖なることを民に示さなかったのです。その結果アロンはホル山で、モーセはネボ山で死ぬこととなりました。

 私はこの時、モーセの姿と召天された兄姉の姿を重ねて考えています。

モーセはエジプトで奴隷であったイスラエルの民を導き出し、荒れ野を旅し、命の水のありかを示しましたが、約束の地を目前に、山に登りその地を望み見ながら亡くなりました。またモーセの歌を歌い、「それはむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。」(32:47)と遺言をしました。

 天上の兄姉も愛する家族や私たちと共に、この地上での旅をしました。信仰を与えられた兄姉の旅は、約束の地を目指す旅でありました。兄姉は、わたしたちをまことの自由へと導く務めをなし、命の水をもさし示しました。主は兄姉に約束の地(神の国)を見せるために山に、すなわち教会へと導いてくださいました。そして兄姉は子どもたちに対し、神の福音こそ、あなたたちの命である。あなたたちはこの言葉によって永遠の命を得る、と告げ知らせ、約束の地を望みながら亡くなったのです。

 しかし天上の兄姉はモーセと同じく罪をもつものですから、自らの力では約束の地(神の国)に入ること、また永遠の命を得ることはできません。

主はそのために、第二のモーセであるイエス・キリストを、私たちのところに遣わしてくださいました。イエス・キリストは、捕らわれている人々を解放し、荒れ野を共に歩み、命の水の在りかをお示しになられました。またイエスは罪を犯さなかったにもかかわらす、父なる神の導きで山(ゴルゴタ)に登り、わたしたちの罪を担って十字架に架かり、はるかに御国を望み見ながら死なれました。この十字架のイエスを救い主と信じる人は誰でも、神の国に迎えられ、永遠の命をいただくのです。

 

 召天された兄姉がわたしたちに残してくれたものは何でありましょうか。

一つ目、兄姉は山に登り約束の地を望み見ること、すなわち教会に来て御国を望み見ることを教えてくれています。わたしたちと御国との間には隔ての川(ヨルダン川)が流れていますが、わたしたちは教会でこれに架けられたイエス・キリストという橋を見ることができます。このことはわたしたちにとって大いなる慰めであり、希望であります。二つ目、兄姉は「イエスは主である」というこの言葉は決してむなしい言葉ではなく、わたしたちの命であるということを教えてくれています。わたしたちはこの言葉と信仰によって、御国にかかる橋を渡り、永遠の命をいただくことができるのです。 本日、記念いたしました天上の兄姉方は、わたしたちに多くのものを残してくださっています。その中で大いなる遺言は、残された私たちが、教会とイエス・キリストにつながることなのです。