≪次月 12月(2021)礼拝説教要旨 前月≫

2021.12.26 降誕節第1主日礼拝  
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< 今 週 の 聖 句 >

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。    (ルカによる福音書2章15~16節)

 

「 そして急いで・・・ 」     仁村 真司 教師

< 今 週 の 聖 句 >

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。    (ルカによる福音書2章15~16節)

 

「 そして急いで・・・ 」        仁村 真司

 イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋で生まれ、そこに占星術の学者(博士)たちと羊飼いたちがやって来る、この一般的に知られているクリスマスの物語は、マタイ福音書とルカ福音書の話を合わせたものです。

 マタイ福音書には羊飼いは出てきませんし、ルカ福音書には占星術の学者たちは出て来ませんが、違いはそれだけではありません。マタイとルカで同じなのは神の子イエス・キリストはベツレヘムで生まれたということぐらい、他は全くと言っていい程に違います。ですから、それぞれの「味わい」があります。今回はルカ福音書が伝えるイエス・キリストの降誕物語を「味わって」行きたいと思います。

 1)

 ルカ福音書には占星術の学者たちは出て来ないので、ベツレヘムへ行ったのは羊飼いたちだけだったかと言うと、他にも多くの人たちがベツレヘムに行っていて、その多くの人たちの中にマリアとヨセフもいました。

 マタイ福音書では、マリアもヨセフも最初からベツレヘムにいたのでしょう、れっきとした「家」でイエスは生まれたことになりますが、ルカ福音書ではマリアもヨセフもガリラヤのナザレにいたのに、約120km離れたベツレヘムに行った、ベツレヘムにはるばるやって来た訳です。

 このベツレヘム行きはローマ皇帝アウグストゥスの住民登録せよという勅令によって強制されたものです。本当は出産間近のマリアが行くことはない、行くべきでなないのであって、それでも行かなければならなくて、ベツレヘムで泊まる所もなくイエスは馬小屋で生まれることになります。

 マタイ福音書では、「ユダヤ人の王の誕生」としてイエスの誕生が知らされ、不安に囚われた権力者、ヘロデ王の男の子皆殺し命令によってイエスの命は危険に晒されますが、ルカ福音書では、貧しい人々、そのささやかな暮らし等どうなろうと全く意に介さない巨大な権力に、マリアとヨセフだけが特別にではなく、他の人たちと同じように軽んじられ、翻弄され、脅かされ、イエスの命は危険に晒されていたと言えます。

  2)神の御子が馬小屋で、飼い葉桶に、生まれた。このことが示しているのは、何も特別ではない、何も奇跡は起こらない、他の多くの貧しい人たちと同じ、そのようにしてイエス・キリストは生まれたということです。

 このようなイエスの誕生を、救い主、キリストの降誕として知らされたのは、野宿をしながら夜通し羊の番をしていた羊飼いたちでした。

 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(10~12節)

 「民全体に与えられる大きな喜び」を羊飼いたち(だけ)が伝えられたということは、羊飼いたちが民全体、全ての人々の代表ということにもなりそうですが、この羊飼いたちはどういう人たちだったのか・・・。いろいろと考えられて来ましたが、大別すると二つの考え方があるようです。

 まずは、この羊飼いたちはエルサレム神殿に供える羊を守る特別な羊飼いだったという考え方です。この考え方に拠れば、イエス・キリストは羊にたとえられることもありますから(例えばヨハネ福音書1章29・36節では「神の小羊」と言われています)、聖別された、特別な羊飼いたちが、御子の降誕を知らされたのは、その職務上当然ということになります。

 もう一つは、野宿して、夜通し羊の群れの番をしていた、夜を徹して働いていた、働かなければならなかった羊飼いたちは、社会の中で低い所に置かれていた人たち、疎外されていた人たちで、そういう人たちにまず、最初に、御子の降誕が知らされたのだという考え方です。

 貧しさを生き、虐げられていた人たちと共に生きたイエスのこの世の歩みからすれば、この考え方にも十分な説得力があると思います。

 3)

 いずれの考え方にも根拠はあると言えます。ただ、いずれにしても、御子の降誕は「特別な人たちだけに伝えられた」とか「低い所に置かれていた人たちだけに伝えられた」ということにはならないと思います。

 ルカが伝えるクリスマス物語の大部分は、ルカの創作ではなく、イエス・キリストを信じた「普通の人(たち)」の、伝道とか宣教とかそういうことではなく、ただイエス・キリストのことを多くの人々に伝えたいという素朴な思いから生み出されたものだと考えられます。素朴だからこそ美しくて、そして・・・

 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(13・14節)

 これはこの世の全体に平和をという祈りの大合唱です。これを聞いたのは、聞くことができたのは、特別なことをしていた特別な人たちではない、ただ日々の生活の中で、寒空の下で夜通し羊を守っていた羊飼いたちだった、夜通し働いていた人たちだった・・・。なんだか楽しくなってきます。

 私は、この物語を生み出し、語り伝えた人たちにとって、羊飼いたちは特別な、高い所にいる人たちでもなければ低い所にいる人たちでもない、自分たちと同じ所にいる、親しみのある、身近な人たちだったと思います。

 あなたたちのすぐ側で神の御子は生まれた。今イエス・キリストはすぐ近くにいますよ・・・。この物語は人々に、今の私たちにも、こう語りかけている、伝えているのだと思います。

 今も野宿している人やしなければならない人、夜通し仕事をしている人はいます。今の時代の方が夜通し仕事をしている人は多いでしょう。

 また、仕事ではなくても、いつもではなくても、時に突然、夜通し体や心を働かせなければならなくなることは、例えば家族の看病や介護等、普通に暮らしている多くの人たち、だれにでもあると言ってもいいような、普通のことだと思います。

 でも、大変なことです。しんどいし、辛いし、疲れます。疲れ果てて、ウトウトして、ハッとして目覚めて、そこに穏やかに寝息をたてている家族の寝顔があって、ホッとする。こんなことがいつまで続くのだろうかという思いと、このほんの一瞬のささやかな安らぎの時がいつまでも続いて欲しいという思いが入り交じります。

 そういう何も特別ではない、普通の人たちの、私たちのすぐ側で、クリスマスの出来事は起こった。そのことを、私たちは聖書から、今日の物語から知らされています。・・・羊飼いたちは「さあベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。(15・16節)

 ここはルカが考えて書いたのだと思いますが、見事というのか何と言うのか、すごくピッタリと来ます。

 マタイ福音書の占星術の学者たちはきっと豪華な装いで、普通の人が一生目にすることがないような豪華な献げ物を用意して行くのですが、羊飼いたちは、私たちも、そのままの姿で、手ぶらで行っていい。また、急いで行かなければならないのではなくて、とにかく急いで行きたくなる。そして、急いで行く。そこに、イエス・キリストとの出会いがあります。

2021.12.19      クリスマス礼拝  
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< 今 週 の 聖 句 >

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。             (ヨハネによる福音書3章16~17節)

 

「永遠の命を与える御子」  深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。             (ヨハネによる福音書3章16~17節)

 

           「永遠の命を与える御子」    深見 祥弘

 クリスマスおめでとうございます。

コロナ禍、この一年分散礼拝を行ってきましたが、今朝は教会に連なる皆さん全員でクリスマス礼拝を守ることができました。修理修復のため浜松に送り出していましたオルガンも、戻ってきました。御前に感謝と賛美を献げ、クリスマスをお祝いいたしましょう。

 今から71年前、この教会のクリスマス礼拝で、一人の方が「信仰告白」

をなさいました。その告白の一部を紹介いたします。

「基督者を父母に持ち、恵まれた家庭に育ち、朝な夕なに神に祈り、賛美をなす環境に何の苦しみもなく、絶えざる神の愛の御手に守られて成長しました。少年期にある神への疑い、宗教の否定、そして神を離れ、宗教生活より遠ざかり、自己の欲望に走る愚かな現象にわたしもおちいりました。

自我のとりこになると共に、一方に於いては、残虐な戦争の混乱の中に巻き込まれ、哀れな空白の時代を過ごしました。戦いが終わり、人々の心に平和が帰り来つつある時、わたしの心は空っぽでした。ゆがめられて考え、

そして全てを失った虚脱の穴がわたしを絶望のどん底に追い込みました。欲すると欲せざるとにかかわらず、わたしはその中に陥ち込んでゆきました。刹那的な生活の中にあって、友がさそってくれた教会への道、焼け跡のバラック建ての、主いましたもう聖堂に入った時、荒れすさんだわたしの心の中に、幼い頃、植えられた神へのあこがれが強くよみがえって参りました。日曜日毎に、礼拝に出席せずにはおれなくなり、その度に『わたしの生きる道は、キリストの御教え以外にないんだ』と強く確信するようになりました。人間の考えが、人間の行為が如何に空しく、如何に愚かなるかを知り、全てを神にゆだねまつり、全ての事、神が為し給うの信仰の下、主の十字架をあおぎ、主キリストの御足の跡を踏み行かんと決心するものであります。『幼児の如くにならずば天の国に入るを許さず』」

 この方は、空襲によって学校のあった町の焼失を体験しました。戦争が終わり、学校が再開されるとその町に戻り、知人の建てたバラックの家に身を寄せて学校に通いました。ある日、下宿先に友人が訪ねてきて、本箱に聖書と讃美歌があるのを見て、その町の教会に誘ってくれました。友達に連れられて行った教会もやはり粗末なバラック建ての教会でした。しかしこの方は、このバラックの教会にいてくださる救い主を見出し、そこでクリスマスを迎え、生きる力をいただくことができました。この方は、今年、バラックの教会にいてくださった御子イエスと十字架の主に全てをゆだね、幼子のごとき信仰をもって御元に逝かれました。

 

 今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書3章です。ここには、ニコデモの訪問とイエスとの対話が書かれています。ニコデモは、ファリサイ派に属す「イスラエルの教師」であり、ユダヤ議会の議員でありました。また彼は、アリマタヤのヨセフとともにイエスの体を十字架からおろし、墓に葬った人でもありました。

 ニコデモはある日の夜、人目をさけてイエスを訪ねました。彼は信仰においては教師として律法を忠実に守り、社会的にも指導者として働きをしておりました。しかし彼は、救いの確信をもつことができないでいました。ファリサイ派はイエスに敵対していましたから、ひそかにイエスを訪ねたのです。ではなぜ彼は、イエスに教えを乞うたのでしょうか。それは、「ラビ・・・神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と彼が言うように、イエスを神のもとから来た教師と考えたからです。ニコデモの思いを知ったイエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国をみることはできない」と答えました。ニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか」と問いました。彼は年配者でありました。イエスは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。・・・人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と答えられたのでした。

 イエスは、天から降って来た者、そして馬小屋の飼い葉おけにねむる神の子でありました。マリアとヨセフ、羊飼いたち、東の国の博士たちは、飼い葉おけの御子を見たとき、この子が救い主であること、そして、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)の実現であることを信じました。

 ニコデモは、イエスの御業を見て「神が共におられる」ことを感じて、イエスのもとにやってきました。しかし彼が、イエスを救い主と信じることができたのは、十字架のイエスを見たときです。訪問した夜、イエスが、「人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と話していたことを思い出したからです。神がこの世に御子を遣わして、飼い葉おけという世の低きところに身を置き、人々に寄り添ってくださいました。また十字架にその身を架けて、人々の罪を引き受けるという愛を与えてくださいました。ニコデモは、十字架のイエスを見て救い主であると信じ、聖霊によって永遠の命をいただけることを確信することができました。アリマタヤのヨセフとニコデモは、ピラトからイエスの遺体を引き取ると亜麻布で包み、香料を添えて新しい墓に納めました。墓を用意したのはアリマタヤのヨセフでありましたし、香料(没薬・沈香)を用意したのはニコデモでした。かつて東の国の博士たちは、布に包まれ飼い葉おけにねむる御子に、黄金・乳香・没薬を献げましたが、ニコデモは、第二の飼い葉おけともいえる墓で、布に包まれ横たわるイエスに、没薬・沈香を献げました。ニコデモは、そこからよみがえられたイエスによって、永遠の命の恵みにあずかることができたのです。

 

 今年2月、教区交換講壇礼拝でご奉仕くださった棚谷直巳牧師より「西小倉めぐみ教会通信」が送られてきました。先生は、礼拝でお話くださったように、病を得ておられます。「通信」の一部を紹介します。

「私が癌で強く死の恐怖を感じた時、その救いになったのは、いわゆる『全知全能の強い存在』ではなくて、むしろ聖書に記されたような人間と同じ痛みを知る、そうした「弱いキリスト」でした。弱いイエス・キリストを知ることで、自分の弱さ、不完全さ、そして癌という病も、心に受けとめることができたのです。・・・『あなたは心が強いのですね』とおっしゃる方がいますが、むしろ弱い人間だから、素直に生きられるように、イエス様が導かれたのだと思います。病も人間的な弱さも、イエス・キリストはそのすべてを贖い受け入れて、今この時に生きる力をくださることを知ったのでした。」(「西小倉めぐみ教会通信」2021.12.12  第27号)

 

 私たちは、この時、飼い葉おけの御子と十字架の主に目を注ぎましょう。きっと神のインマヌエル(神は共におられる)の実現を、この御方に見ることができ、今を生きる力と永遠の命にあずかる希望に満たしていただけることでしょう。主の御降誕を心から喜び、十字架の主を賛美いたします。

2021.12.12 降誕前第2主日礼拝 (アドベント第3主日) 
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< 今 週 の 聖 句 >

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう

  (ルカによる福音書1章48節)

 

  「神は見捨てられません」 深見 祥弘牧之

< 今 週 の 聖 句 >

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう

                  (ルカによる福音書1章48節)

 

            「神は見捨てられません」    深見 祥弘

 待降節(アドベント)第三主日を迎えました。典礼色の紫色が表すように、

悔い改めと節制、そして待ち望みの思いをもってこの一週間を過ごしてまいりましょう。

 今朝のみ言葉には、マリアがエリサベトを訪問した時のことが書かれていますが、「訪問」はクリスマスの大切なメッセージの一つです。

コロナが流行するようになって、わたしは教会員さんのところへ訪問することを控えるようになりました。入院している兄姉をお見舞いしたり、高齢者施設に入所しておられる方々のところを訪れたり、欠席がちの教会員さんのお宅に誕生日カードや教会の文書をお届けしたりすることです。コロナ禍であるからこそ牧師の「訪問」は大切な働きだと思うのですが、病院や施設側の感染予防対応によってそれができないことが多いですし、世の中の風潮に配慮してお宅への訪問も控えてきました。感染が下火になっているこの一か月は、玄関口での訪問ではありますが、少しずつ再開をしているところです。 

皆さんは、牧師の訪問は何のために行っていると思っておられるでしょうか。教会員さんがどのようにお過ごしになっているかを知るために、また何か御用はありませんかと御用聞きで訪問していると思っている方もおられるかもしれません。確かにそうしたこともありますが、それは訪問の主な目的ではありません。最近の様子を知りえたとしても、それは結果であって、それを得るためにお伺いしているわけではないのです。そのことが目的ならば、電話でもメールでも良いわけですから。牧師が訪問する目的は、「主があなたと共におられる」ことをその訪問によって伝え、そのことを共に喜び分かち合うためです。伝道師・副牧師であった時、主任牧師のカバン持ち、また運転手として共に訪問をいたしましたが、今は主のカバン持ちとして訪問をし、「イエス様が一緒に来ておられます」と挨拶をいたします。

 

 クリスマスをめぐる「訪問」では、天使ガブリエルの訪問をまず上げることができるでしょう。天使ガブリエルは、神殿の聖所で香をたき祈る祭司ザカリアを訪れ、歳をとったザカリアとエリサベト夫妻に男の子が生まれることを告げ、驚きや戸惑いを与えました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」信じることができず「何によって、それを知ることができるでしょうか」と問うたザカリアは、一時的に口のきけない状態となりました。

 天使ガブリエルは、ナザレのヨセフのところをも訪問をします。彼はマリアと婚約をしておりましたが、マリアが身ごもっていることを知り、離縁を考えていたところでした。天使は「恐れず妻マリアを迎えなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げました。ヨセフはかって預言者が預言した「インマヌエル」(神は我々と共におられる)の実現と知り、マリアを妻に迎え入れました。 

 天使ガブリエルは、ヨセフのいいなづけマリアのところにも訪問し、驚きと恐れと戸惑いを与えました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。・・・あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。・・・聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。

だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」マリアは、天使の言葉に促され、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。ヨセフはダビデ家の者ですし、マリアは大祭司アロン家の者です。そしてマリアはダビデ家に救い主が生まれることを信じ、それは主のインマヌエル(主は我々と共におられる)の実現であることも知っていました。でも彼女はこのような形で、それが実現するとは思ってもみませんでした。天使ガブリエルの訪問は、人々に驚きと恐れと戸惑いを与えるものでした。そして、そこで告げられた御業の前に、それぞれが身を低くすることを求めたのでした。

 

 クリスマスをめぐる訪問では、もう一つマリアがユダの山里に身を隠していたエリサベトを訪ねる出来事が書かれています。マリアは天使から親類のエリサベトも身ごもっていると聞いたからです。エリサベトはマリアの訪問を受け、挨拶の言葉を聞いた時、胎の子ヨハネによって主イエスの訪問を知り、聖霊に満たされてこう言いました。

「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」

 エリサベトは胎の子ヨハネによって、マリアの胎の子主イエスを知り、聖霊の働きによって「わたしの主」と告白します。またエリサベトは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って主の御業にすべてをゆだねたマリアを「わたしの主のお母さま」とよんで迎えています。一方マリアは、エリサベトの胎の子ヨハネによって、自分に宿る子が神の子主イエスであることを知り、聖霊に満たされて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と賛美をいたしました。

 

 訪問の目的は、「インマヌエル」(神は我々と共にいます)の到来を知らせるためです。それは、天使の御告げであったり、不思議に輝く星であったりと、神の直接の働きかけによる場合があります。この働きかけによって、ザカリア・エリサベトに代表される年配の人々、ヨセフ・マリアに代表される若い人々、羊飼いに代表される差別されている人々、東の国の博士に代表される外国の人たちなど、神が世にあって弱い立場の人々を見捨てることなく共にいてくださることを伝えるのです。

 また神は、人々の互いの「訪問」によっても、共にいてくださることを知らせます。その訪問によって自らの内に宿り働きをする主イエスに気づき、互いに分かち合い、共に信仰を告白し賛美をささげるのです。

 教会には、こうしたすべての「訪問」の要素が存在します。教会は、飼い葉桶の御子と十字架のイエスが救い主であることを告げる時、人々に驚きと当惑を与えます。また教会は、聖霊の働きと集う人々の分かち合いによって、飼い葉桶の御子と十字架のイエスが救い主であることを信じ、告白し賛美することができます。さらに教会は、神が我々と共にいてくださり決して見捨てることはなさらないと世に伝え、さまざまな人々を招いて、神の救いと憐みを実現するのです。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」、わたしたちは、聖霊の働きと互いの支えあいと分かち合いの中で、主が共にいてくださることを告白し賛美して、喜びのクリスマスを迎えましょう。

2021.12.5 降誕前第3主日礼拝 (アドベント第2主日) 
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< 今 週 の 聖 句 >

 慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。

                       (イザヤ書40章1節)

 

「慰めの神に生かされた」   深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

  慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。

                       (イザヤ書40章1節)

 

            「慰めの神に生かされた」     深見祥弘

 先週、新たな変異株「オミクロン」に関する報道がなされ、私たちは再び不安や恐れを覚えています。

 日本笑い学会が昨年10月~11月、会員を対象に「コロナ禍の日々の笑いアンケート」を実施しました。コロナ禍の日々、どんなふうに過ごし、何が変わり、どんなことに笑い、笑うためにどんな工夫をしているか、笑いはどう役立っているかを調べ、未来の「禍」への有効な記録・研究資料とするためです。アンケートの結果、まず会員の方々はコロナ禍、ストレスを感じながらそれを減らす工夫をし、笑うために努力をしていることがわかりました。(「ワッハッハワッハッハワッハッハワッハッハ」笑いの呼吸運動を毎日5回して免疫力を高める・90代の男) さらに生活の見直しをしたり(人間関係の整理・80代女、お墓を準備した・70代女)、新しい事をはじめた人々もいます。(絵を描く・80代女、キャンプ場を作った・60代男) そして最後は「しゃーないなあ」と笑う。「コロナ禍は『禍』だけでなく、よいこともあると思えたこともありますか」との問いに、8割の人が「ある」と答えています。(人と会えることは幸せなことなんだと痛感した・50代女) アンケートの研究企画委員会の山田りよこさんは、「コロナはネガティブなことばかりではない、こんなさまざまな『よいこと』もあったという声は、大事な気づきの数々であり元気に日々を送ろうとする生活意欲の表れでもあるでしょう。」と結びに書いておられます。

 

 今朝のみ言葉はイザヤ書です。イザヤ書は66章の長編ですが、三つに分けられます。すなわちアッシリア帝国の脅威のもと南王国ユダで預言者として働きをした第一イザヤ(1~39章)、バビロンで捕囚民と共にいて働きをした第二イザヤ(40~55章)、そしてバビロンから帰還し町の再建にあたる人々と共にいて働きをした第三イザヤ(56~66章)です。

 イザヤ書40章は第二イザヤ、捕囚地バビロンでのことが書かれています。アッシリアの攻撃によってBC722年北王国イスラエルは滅び、南王国ユダも陥落寸前にまで至りました。その後バビロンが台頭しアッシリアを滅ぼし、南王国ユダもまた二度にわたり攻撃を受けて滅亡(BC586)しました。ユダの民は捕囚となり、その地で50年間暮らしました。当初人々は、すぐに故国に戻れると期待をしました。しかしそうはならず、やがて嘆きやあきらめの思いに満たされました。第二イザヤは、こうした人々と共にいて働きをするのです。バビロンに来て50年を迎える頃、預言者は人々に主の救いによって解放され、故国に帰還すると告げました。(歴史的には、バビロンを滅ぼしたペルシャ王クロスの解放令・BC538年によって実現します。)

 

 預言者が解放を告げるには、このようなことがありました。人々が帰還をあきらめた頃、天上で会議が開かれました。会議には神と天使たち、そして預言者が出席しました。会議の初め、一人の天使が「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と神が言っておられると出席者に告げました。この天使は、その「慰め」について語り、預言者にこれを告げるように命じました。

その「慰め」は、全部で五つあります。

 神の「慰め」の一つ目は、2節に述べられています。「エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。」 この「エルサレム」「彼女」とは、捕囚民のことです。バビロンに襲われた時、民は神をないがしろにしてこの世の力に頼み、弱者を助けようとしませんでした。民はその「罪」によって捕囚となりましたが、50年間の苦役により、民の罪は償われたと言うのです。天使は、預言者に対しあなたがたの咎は償われたと言って、民を慰めよと言います。

 神の「慰め」の二つ目は、10a・11節に述べられています。「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。・・・主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」 主は羊飼いであり、ユダの民は主に導かれ、故国への道、荒れ野に備えられた道を通って故国に帰ります。天使は、預言者に対し、羊飼いである主の到来を告げ知らせ、ユダの人々を慰めよと言います。

 神の「慰め」の三つ目は、3・4節に述べられています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」 天使は、谷にむかって身を起こすように、山と丘にむかって身を低くするように、険しい道は平らになるように、狭い道は広くなるように命じます。「谷」とは深い苦しみを負っている人、「山・丘」とはおごる人、こうした人々が救い主を迎えるために備えをします。そうするならば、その備えられた道を通って救い主が来られるのを見ることができるのです。天使は預言者に対して、民に悔い改めと備えを語り、人々を慰めよと言います。

 神の「慰め」の四つ目は、8節に述べられています。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」 北王国も南王国も、アッシリアも滅びてしまった。バビロンも滅びる。しかし、主の到来による救いの約束は、枯れたりしぼんだりせず、必ず実現する。天使は預言者に対し、神の国と救いの到来を告げ、人々を慰めよと言います。

 神の「慰め」の五つ目は、10b・11節に述べられています。「見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」 主は、ユダの民だけでなくすべての民の羊飼いであり、世界中から民を集め養い導きます。天使は預言者に対し、平和到来の良き知らせを告げ、人々を慰めよと言います。

 

 第二イザヤの時代から五百数十年後のこと、ユダヤの荒れ野に呼ばわる声があらわれました。洗礼者ヨハネです。福音書の記者は、ヨハネこそ預言者イザヤがかって「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と預言していた声であると書いています。人々はヨハネの所に来て、罪を告白し、悔い改めの洗礼を受け、主イエスが来られる準備をしたのでした。

 

 この一年を振り返ると、暗いニュースが多かったことに気づかされます。コロナがもたらす不安や恐れは続きます。コロナよって富める者と貧しい者との格差が拡大しています。大国の覇権争いや地球温暖化の問題も深刻です。私たちは、そうした状況の中にあってもどうすることもできず、あきらめてしまっています。そうした中で呼びかける声があっても、聞く者は少ないのです。しかし、天上では「慰めよ、わたしの民を慰めよ」との神の言葉が告げられています。天使は私たちに対して、御子イエスの言葉(「悔い改めよ、天の国は近づいた」マタイ4:17)によって人々を「慰める」ように、また再臨の主の到来のために備えをするように呼びかけています。平穏な時には気づかなかったことですが、今私たちは、慰めの神に生かされていることに気づかされ、工夫や備えをしています。主の降誕と再臨の内にある罪の赦しと救いのメッセージが、この時、人々の慰めと希望になることを願います。