≪次月 2月(2021)礼拝説教要旨 前月≫

 

2021.2.28復活前第5主日​​    

< 今 週 の 聖 句 >

 イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

  (マルコによる福音書 14章33~34節)

「 病も弱さも主にささげて 」

西小倉めぐみ教会 棚谷 直巳

< 今 週 の 聖 句 >

 イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

              (マルコによる福音書 14章33~34節)

 

「 病も弱さも主にささげて 」

西小倉めぐみ教会 棚谷 直巳

 私は1992年に伝道師となり、同時に精神障害者の憩いの場を立ち上げ、やがて教会を離れて福祉職専任となりました。25年間、事業を継続させてゆくため忙しく働く中で、…いわゆる「燃え尽き症候群」となり仕事を退職しました。その1週間後に「西小倉めぐみ教会の主任牧師になりませんか」との招きをいただきました。とても不思議な思いがいたしました。私は「今までの実績を神様が認めて招かれたのではない」とその時おもいました。むしろ、「自分が全く無力な者になったときに、主は私を招いてくださった」と感じました。

 牧師としての仕事も軌道に乗ってきた4年目の8月、癌が見つかりました。精密検査で、癌はお腹を覆っている腹膜に転移しており、また小腸と大腸にも癌があり、さらに大動脈の一部のリンパ節への転移が疑われる…との結果を聞きました。そして癌の「ステージは4」、と診断されました。その検査の夜、病院の消灯時間となってから、身に覚えのない不安が私の心を襲いました。私はふと枕元においていた聖書をとって、マルコによる福音書のゲッセマネの祈りの箇所(マルコ14:32~42)を読みました。その箇所にある「死ぬばかりに悲しい」「肉体は弱い」…といった、イエス様の言葉が、私の気持ちを代弁してくださっているように思えて、それはとても心にしみました。イエス・キリストは、どこまでも人間の病と苦悶の傍にいて下さる救い主であることを、あらためて知りましたが、それでも押し寄せる不安には勝てませんでした。

  「癌はもはや治る病気」とまでいう、今日の医療技術の発展には驚き入りますが、それでも、癌患者は常々に「死」をイメージさせられます。私もそうして癌宣告の直後は、いきなり目の前が「病一色の白カーテン」で遮られたようになり、行く先々すべてが病室であるかのような錯覚を起こしました。宣告を受けた翌日に、私はつれ合いの李清美(イーチョンミ)さんに「最期まで介護が出来なくてごめん」と泣きながら言いました。彼女は車椅子生活をしていて、強直性脊髄炎(※1)とアーノルドキアリ(※2)の二つの難病をもち、これまで大手術を何度も経験していました。その私の弱気な言葉を聞くなり「(治療を)諦めてるやないか!」と彼女は一喝しました。するとそれで、私の「白カーテン」はすっと消え、日常の感覚を取り戻すことができました。また、教会の信徒さんには「癌の先輩」が居て、笑顔で「癌のことならば何でも聞いてくださいよ」と声かけを下さいました。前職で知り合った多くの人達も電話やメールをくださいました。何度も入院していた人、刑務所にはいっていた人、ひきこもりの若者たちが、親身になって私を心配してくれたのでした。その時あらためて、イザヤ書53章1~12節に書かれている「病を知っている側から来る救い」を実感いたしました。そして、こうも思ったのです。「人間は、重い病や死と云う出来事を通しても、人とつながることができる」…と、そのように実感することができたのでした。生きる希望が湧いてきました。

 そして私は抗癌剤治療を始め、その6ヶ月後に手術を受けました。小腸30cm、大腸15cm、大網と呼ばれる脂肪と腹膜を切り除き、また大動脈のリンパ節にできた癌も切り除く、…という、かなり大がかりな手術

でした。手術の4時間後に目覚めると、看護師さんから「立ち上がってみますか?」と言われました。「早く歩くほど回復が早いですよ」と聞いて、何とか立ち上がり、歩行器を使って30歩くらい歩いたと思います。翌日からは、トイレも自分で行くようになり、病棟の中をグルグルと、リハビリで歩くようになりました。その間、病棟はコロナウイルス感染の影響で面会禁止になっていましたが、電話やメールでの励ましや声かけをいただいたり、また4月の教会総会資料を作ったりしたことで、気持ちを前向きにし続けることができたと思います。最近の癌の治療においては、できるだけ普段の生活を心がけることをお医者さんも勧めています。人間が自身の健康を目指すには、すぐれた医療や薬だけではなくて、普段の支えとなっている人間関係や、仕事も大切であることがわかっているからだと思います。「死に至る病である癌になった」と云うことで、仕事もすべて絶ってしまい、ふだんの人間関係からも離れてしまうと、精神的に落ち込んでしまい、癌の治療に対しても消極的になり、つらい状況に陥ってしまう、そうした側面もあるのだとおもいます。

 そうして手術は乗り切ったのですが…、手術から9ヶ月目の定期検診で癌の再発が見つかりました。医師からは「今後は一生、2週間に1回の抗癌剤治療を受ける必要があります」と説明を受けています。ですが、私は絶望していません。わたしの周りに居る多くの人達と同じように、「今を生きる」ことに感謝をしています。なぜなら、私たちがありのままに「一人の弱い人間」であっても、その場所にイエス様はそこにふさわしい助け手を備えてくださることを知ったからです。励ましてくれる人、痛みに寄り添ってくれる人、いっしょに居て心から安心が出来る人らと、出会う恵みを、私たちはいただくことができます。大使徒と呼ばれたパウロの言葉にもある通り、人間としての弱さの中に現れるイエス・キリスト(Ⅱコリント12:9)による、人と人との新たなつながり、まことの「キリストの体」教会を、ここに見出すことが出来たからです。

 無理矢理に病や人間的弱さを克服しようとすると、かえって、今ある生き方が重荷に感じてしまう気がいたします。わたしは少なくとも、「最初から絶望をせずに、常に喜んでいる必要はありません」と、そう言いたいのです。神様は「…人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれない」からです(詩編22篇25節)。病である人がすべての思いを神様に包まず述べて、そこから希望を見出したように…、また、十字架上のイエス様が言いようのない苦しみを叫んでおられたように、イエス・キリストは、人間の最も弱く、また暗くて重い部分にも降りてきてくださいます。私たちの、その傍にいて、祈りを聞き届けてくださいます。

 病の淵にいる時、また友の裏切りで絶望している時にも、それら人間が人間として生きる痛みの傍にこそ、イエス・キリストはおられます。

「わたしに尋ねようとしない者にも わたしは尋ね出される者となり わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。」(イザヤ65:1)との、預言者イザヤの言葉は確かに実現したのでした。

 そのことに希望を持つことが、つまりは本当の意味での「絶望することなく、常に喜べるようになる」、その導きであるようにも思うのです。

 ですので、弱い人間としての感情の様々は、むしろ私たちにとっては、大切に向き合うべき命そのものなのだと、そう想います。教会に集われるお一人お一人、それぞれに、生きる痛みや苦難があることを覚えますが、その場所にこそ、イエス・キリストはともにいて守り支えてくださることを信じて、私たちは共に祈ってまいりたいと願います。

 

 ※1 強直性脊髄炎…体の関節全体が骨化してゆく難病

 ※2 アーノルドキアリ…小脳が変形して延髄に落ち込む難病。

2021.2.21復活前第6主日​​    

聖書:出エジプト記 20:1-11、ヨハネによる福音書8:31-34

「あなたを奴隷の家から導き出した神──宗教はコロナ禍の現代人を救えるか」

               小原克博先生

聖書:出エジプト記 20:1-11、ヨハネによる福音書8:31-34

「あなたを奴隷の家から導き出した神──宗教はコロナ禍の現代人を救えるか」

小原克博

 

 コロナ禍によって個人や社会は様々な制約を受けることになりました。不自由な生活から解放されて、元の生活に戻りたいと多くの人が願っています。私たちは、どこに戻るのか、あるいは、別の行き先があるのか、二つの聖書箇所を共鳴させながら、その手がかりを探ります。

 本日の聖書箇所では、いずれも「奴隷」という言葉が使われており、奴隷の状態からの「導き出され」「自由」にされることが主題となっています。自由や解放は聖書全体を貫くテーマですが、空間的(社会的)解放と時間的解放という二種類の解放があることは、十戒からも読み取ることができます(出エジプトと安息日)。コロナ禍が現代人に問いかけるのも、この二つです。

 コロナにより、社会のオンライン化が一気に進み、教会の礼拝もその影響を受けました。IT技術によって、場所に拘束されることなく、どこからでも自由に礼拝に参加できるようになりました。そのことの意味を考えることによって、コロナ後の教会のあり方も見えてくることでしょう。

 安息日には「いかなる仕事もしてはならない」(出20:10)とされます。労働を禁止することによって、誰によって自分たちが「導き出された」のかを思い起こすことができます。日本では勤勉の美徳が重視され、休むことは怠惰と見なされてきただけに(時間の奴隷)、聖書のメッセージは鮮烈です。日本社会もまたコロナにより強制的に立ち止まり、休むことを求められました。立ち止まることによって、見えてきたことも多くあるはずです。エジプトで味わった肉鍋(出16:3)を思い出しながら、元の生活に戻ろうとするのか、あるいは別の方向へと歩み出していくのかが問われています。

 日本では、宗教や信仰は人を不自由にすると考えられがちです。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:32)を存分に味わうことが、コロナ後に向けた教会の出発点となることでしょう。

2021.2.14降誕節第7主日​​    

< 今 週 の 聖 句 >

 イエスはそれを許さないで、こういわれた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。              (マルコによる福音書5章19~20節)

「イエスが彼にしたことを宣べ伝えた」仁村真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

 イエスはそれを許さないで、こういわれた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。              (マルコによる福音書5章19~20節)

「イエスが彼にしたことを宣べ伝えた」   仁村 真司

福音書には様々な人たちのイエス・キリストとの出会いが描かれています。今回取り上げるのはマルコ福音書のゲラサという所の人がイエスに出会う物語です・・と言うよりも、「レギオン」という名前の悪霊が二千匹の豚に乗り移って湖になだれ込む、イエスが悪霊を追い出す、いやしの奇跡物語と言った方がピンと来ると思いますが、これを元にしたほぼ同じ物語がマタイ福音書とルカ福音書にもあります。

マタイ福音書の方を(8章28~34節)見てみるとかなり話が短くなっています(マルコの半分以下)。内容を見比べてみると、悪霊に取りつかれている人は、マルコでは一人ですが、二人で、その様子については、一人一人ではなく二人まとめて、「非常に凶暴」(28節)とだけあって、マルコのような具体的な描写(3~6節)はありません。また、イエスが名前を尋ねて悪霊が「レギオン」と答えるというやり取りもありません。

それと、マルコにはイエスが悪霊を追い出し、いやされた人とイエスとのやり取り、その後その人がどうしたかということが記されていますが(18~20節)、マタイは記していません。

この物語に限らずマタイ福音書では、マルコが記しているいやされた人たちの事情や人となりを伺わせるような事柄にはあまり触れずに、そうすることによってイエスの悪霊や病いに対する圧倒的な力が強調されていますから、正に「驚くべき軌跡の物語」という感じになっています。

2)

では、マルコ福音書はどうなのかということですが、マタイ福音書では触れられていないところに注目して、物語を見て行きましょう。

まず、悪霊に取りつかれていた一人の人の様子です。墓場に住み、足枷や鎖で縛られても、砕いて引きちぎり、昼も夜も墓場で叫んだり、石で自分を打ちたたいたり(3~5節)。そして、イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫びます(6・7節)。

遠ざかったり、逃げたりするのではなく、走り寄って、近づいて来て、「かまわないでくれ」というのは、「かまってほしいのか、ほしくないのか、どっちなんだ」と言いたくなるような話ですが、この人はどうしてほしいのでしょう・・。

葛藤や迷いはだれにでもありますが、この人は葛藤しているのでも迷っているのでもないと思います。

あまりにも苦しく、辛く、悲しい目に遭って来た人の心の中では、正反対の気持ちがぶつかり合って葛藤したり迷ったりするのではなくて、連続して、つながることがあるのではないかと私は考えています。

悪霊に取りつかれていた人は、きっと人々が暮らす所から締め出され、墓場に追いやられて、足枷や鎖で縛られ、砕いても引きちぎっても墓場からは出られずに、独り昼も夜も叫び、石で自分を打ちたたいていた・・。だれか来て欲しい。関わってほしい。助けてほしい。もう苦しみたくない。もう苦しめないでほしい。何もしないでほしい。そっとしておいてほしい。だれも関わらないでほしい・・というような感じでしょうか。

イエスは悪霊に名前を尋ねます。悪霊は「レギオン。大勢だから」と答え、自分たちをこの地方から追い出さないように、そして豚の中に乗り移らせてくれるようにと願います(9~11節)。イエスが名前を尋ねたことによって、悪霊自体が語りだした訳です。

悪霊に取りつかれたことによって心や体に異常を来していると考えられる人たちへの「治療」は、昔から世界各地で行われて来ました。何が、どんな霊が取りつくのかは、取りつかれた人の置かれている環境、時代や場所、社会文化的背景によって様々です。

今日の物語では悪霊が「レギオン」と名乗っています。レギオンとは広大な領土を支配するために置かれたローマ帝国の軍隊です。人々の生活の隅々、心の奥まで抑圧するローマ帝国の支配体制がこのような悪霊が働く大きな要因になっていたと考えられます。

そして、取りついた霊の追い出し方も様々なのですが、取りついた霊が語り出すにようにもって行くのは、時代や文化を越えて広く用いられ来た方法・技術のようです。だからと言って「イエス・キリストと同じようなことをする人が他にも沢山いるということか」などと原を立てたり、がっかりすることは全くないです。

マルコにとってもイエスが悪霊を追い出すことは軌跡ではあったとは思いますが、マルコがこの物語で強調しているのは、マルコが驚くべきこととして伝えようとしているのは、イエスの悪霊に対する圧倒的な力、奇跡を起こす力等ではないと思います。

3)

レギオンの「豚に乗り移らせてくれ」という願いをイエスは許し、悪霊は離れて生きます。取りつかれていた人は服を着て正気になって座っていますが、それを見た人々は恐ろしくなります(15節)。二千匹の豚(かなりの財産)が一気に失われたということもあるでしょう。人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出します(17節)。これはイエスが悪霊を追い出し、正気に戻った人が、それでも人々、社会に受け入れられていない、元いた場所に帰れないということでもあります。

そして18節から・・「イエスが舟に乗られると、悪霊にとりつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。『自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。」(~20節)

 この「言い広め始めた」、「言い広める」は他の所(例えば1章38節)では「宣教する」と訳されています。

 「宣教する」とは、キリスト教ならキリスト教において正統とされ権威があるとされる教えを宣べ伝えるということですが、マルコ福音書ではこの言葉は別の、特別な意味で用いられています。教えを求める人には教えを、病いに苦しむ人にはいやしを・・そういうイエスの人々との関わり、イエスの活動全体を指していると考えられます。

 したがって、20節はこのように訳せます。

 「その人は立ち去り、イエスが彼になしたことをことごとくデカポリス地方で宣べ伝え始めた。そして人々は皆驚いた。」

 この人は元いた場所に帰ることが出来ました。しかし、それは単に元の生活を取り戻したということではなく、場所は同じであってもイエス・キリストを宣べ伝える者として、イエス・キリストの御業の一部を託され、担う者として新しく歩み出したということです。確かにそうであることは、最後の「人々は皆驚いた」によって示されています。

 イエスが悪霊を追い出し、この人が正気になった時にはただ恐ろしくなるだけで、イエスに出て行ってもらいたいと言い出した人たちが、その人たちだけではなく、より広くデカポリス地方の多くの人たちが皆驚いた、イエス・キリストを知った、ある意味で出会ったということです。

 マルコ福音書は、イエス・キリストと出会うとはどういうことなのか、そしてその出会いがもたらす驚くべきことを伝えています。

2021.2.7 降誕節第8主日​​    

<今週の聖句>

イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えに

なると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」  (マタイによる福音書15章26~27節)

 

「信じて待つ」    深見祥弘牧師

  <今週の聖句>

イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えに

なると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」  (マタイによる福音書15章26~27節)

 

「信じて待つ」          深見祥弘

 私の子どもの頃(60年ほど前)、まだ犬を放し飼いにしている人が多くいました。当時私の家には、週に一度魚の行商のおばさんが来ていましたが、いつも「ふじ」という名の犬がついて来ていました。私は犬が怖くて、つながれていない犬と道で出会うと、隠れたり早足で別の道をいったりしていたのですが、「ふじ」だけは大丈夫でした。「ふじ」は、雑種でからだは茶色、鼻先は真っ黒の犬で、おばさんと一緒に来る時だけでなく、毎朝、朝食の時間におこぼれを期待してやってきます。父母はやってはいけないというのですが、私はいわしの頭や食パンの耳を投げてやったりしていました。「ふじ」はそれを一口で食べると、すぐに出て行ってしまうのです。きっとおばさんから餌をもらっていたことでしょうが、想像するに私の家だけでなく、行商で訪れる家のなかで、おこぼれをもらえそうな所を順に回っていたのではないかと思います。

 

 今朝の御言葉は、マタイによる福音書15章21節~「カナンの女の信仰」を書いている箇所です。ある時、イエスは弟子たちとともに異邦人の住むティルスとシドンの地に行かれました。ユダヤ人指導者たちのイエスに対する憎悪や、群衆のイエスに対する誤った期待が高まっていたからです。

 一行がその地に到着すると、カナンの女(異邦人)が来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びました。イエスがこの地を訪れるのは初めてのことでしたので、彼女がどのようにしてイエスのことを知ったのかはわかりません。しかし彼女は、イエスが人々から「主よ、ダビデの子よ」と呼ばれていること、そして癒しを行っていることを知っていました。娘の癒しを強く願っていた彼女は、イエスがティルスとシドンの地を訪れてくださることを信じ待っていました。

女が「主よ、ダビデの子よ」と叫んだ時、イエスは何もお答えになりませんでした。イエスがそのまま立ち止らずに行くと、女は叫びながらついて来ました。弟子たちは自分たちと同様に、イエスもわずらわしさを覚えておられるのだと受け止め「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので。」と願いました。弟子たちは、騒がしさやわずらわしさを逃れてこの地に来たのに、どうしてここでもわずらわしいことが起こるのか、神の救いや癒しはイスラエルの民に与えられるもので、異邦人には与えられないのにと思っていたのです。しかし、イエスの思いは、弟子たちの思いとはまったく異なるものでありました。イエスは、カナンの女の信仰がどのようなものなのかを知ろうとしていたのです。イエスはそれを知ろうとして、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。「イスラエルの家の失われた羊」とはイスラエルの民でありながら社会にあって疎外されていた人々、救いはないと言われていた人々のことです。

女はイエスの前にひれ伏し「主よ、どうかお助けください」と願うと、イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになられました。「子供たち」とはイスラエルの民のこと、「パン」は救い主の祝福のこと、そして「小犬」は異邦人のことです。女は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と答えました。イエスは、彼女が神のご計画を理解して受け入れ従おうとしていること、神の祝福の大きさを信じていることを知りました。カナンの女は、神の救いの恵みがイスラエルの民からはじまり、異邦人である自分たちにも、そして救いを待ち望むすべての人に与えられるものであるという信仰を明らかにしたのでした。イエスは、ユダヤ人指導者たちが神の御計画を理解せず、イスラエルの民の中でも自分たちだけが救われると信じていること、またその民は神の御計画を理解せず、ダビデの子イエスが支配者ロ-マから自分たちを救うと熱狂していることと、このカナンの女の信仰を比べられたのです。イエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」とその信仰をほめると、娘の病気は癒されました。

 

 イエスは、ティルスとシドンの地方を去ったあと、ガリラヤ湖のほとりに行かれ、山に登って座っておられました。大勢の群衆が体の不自由な人々や病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々を癒されました。群衆はこれを見て驚き、イスラエルの神を賛美しました。「イスラエルの神を賛美しました」と書かれているのは、この群衆や癒された人々の中に、異邦人がいたことをあらわしています。マルコ福音書7章には、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」(31)と書かれています。デカポリス地方は、ヨルダン川の東の地で、やはり異邦人の住む地域です。イエスは、その地域の人々を伴ってガリラヤ湖のほとりまで来たのです。

 

 今朝は読みませんでしたが、マタイによる福音書15章32~39節には、イエスが四千人の人々を七つのパンと小さな魚で養われた話が書かれています。先ほどの続きで、この四千人の人々の中にはイエスに従ってきた多くの異邦人がいたということです。この話は、イエスを信じるならば、ユダヤ人と異邦人の別なく命のパンにあずかることがゆるされ、生かされることを教えています。「七つのパン」「七つの籠」の「七」は完全数、すなわち世界のすべての人々を指していますし、「籠」は異邦人が使っていた大きな籠をあらわす言葉が使われています。

 

今朝お話してきたカナンの女の話、ガリラヤ湖周辺の山での癒しの話、そして四千人の給食の話は、一つの事を語っています。それは、神がイエスによってイスラエルの家の失われた人々と救いはないとされた異邦人、すなわち信じて待っているすべての人々に対して救いの御計画をお立てになられ、

実現してくださるということです。

 

 行商のおばさんの犬「ふじ」は、食事をしている私たちを見ながら座って待っていました。与えてくれると信じてそこで待っていたように思います。そして、いわしの頭を一つ、パンの耳を少しもらったら、もっとくれと求めることはせずに出て行きます。そして、次の日もまた来て待っているのです。週に一度、おばさんについて家に来る時は、母とおばさんがやりとりしている間、私の遊び相手をしてくれたのでした。

思うに「ふじ」は、日々の糧を神さまからいただく私の姿のようでもありますし、救われたことに感謝してイエスさまに従い、その働きの手伝いをする私のようでもあります。イエスさまが父なる神さまの前にひれ伏して、「主よ、どうかこの者をお救いください」と願い、「この者も神さまの食卓から落ちる神の恵みをいただくのです」と執り成してくださったことによって、今の私があるのです。信じて待つ人々のところを訪れるイエスさまの旅は、今も続けられています。信じて待つ人々は、イエスの執り成しによって、そしてそのパンによって、豊かに養いをいただくことができるのです

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