≪次月 4月(2021)礼拝説教要旨 前月≫

 

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2021.4.25 復活節第4主日礼拝   

<今週の聖句>

初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しい

ことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

(イザヤ書43章18~19節)

 

「見よ、新しいことをわたしは行う」 深見祥弘牧師

                        <今週の聖句>

初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しい

ことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。

(イザヤ書43章18~19節)

 

「見よ、新しいことをわたしは行う」   深見祥弘

 本日は、礼拝後、教会総会を開催いたします。総会で提案させていただく

2021年度年間標語は「安らぎの教会―つながり合って―」、年間聖句はイザヤ書43章19節「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」、そして年間讃美歌は520番「真実に清く生きたい」です。この時は、年間聖句イザヤ書43章に聴いてまいりましょう。

 

イザヤ書は、時代や場所の違いによって3つに分けることができます。

1章~39章は、便宜上第一イザヤと呼ばれます。南北両王国は、紀元前8世紀中頃、新アッシリア帝国の脅威にさらされていました。イザヤは、BC740年頃~701年まで南王国のエルサレムで働きをした預言者です。

40章~55章は、第二イザヤと呼ばれます。南王国ユダは、アッシリアの後台頭してきた新バビロニア帝国に滅ぼされました。ユダの民はBC597年と587~586年の二度にわたりバビロンに連行され、その地で捕囚生活を体験いたしました。50年に及ぶ捕囚生活の中で民は、バビロンからの解放と故国への帰還をあきらめるようになりました。その時、捕囚民と共にいた預言者が、神の救済の業として解放と帰還の実現を告知しました。43章は、預言者が捕囚民に語った苦難からの解放の言葉です。

56章~66章は、第三イザヤと呼ばれます。民は故国に帰還しますが、神殿や町の再建は順調にはいきませんでした。この民と共にいた預言者は、律法を守り、正義と公平をもって再建に努めるように勧めました。そうするならば、神は繁栄を回復してくださると告げたのでした。

 

年間聖句イザヤ書43章16~20節は、捕囚民のバビロンからの解放を、第2の出エジプトとして述べています。預言者は、解放と帰還に絶望する民に語りました。 

「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し 彼らを倒して再び立つことを許さず 灯心のように消え去らせた方。」(16~17)

主は、かつてエジプトの力を砕き、イスラエルの民に解放とカナンへの帰還を実現してくださいました。同様に、主はバビロンの力を砕き、民に解放とエルサレムへの帰還を実現してくださると語っています。また主は傷ついた葦(あなた方)を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すこともない(42:3)と、言ってくださるのです。

 「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」(18~19a)

かつて出エジプトの時、民は、荒れ野において飢え渇きの苦難を経験し、エジプトでの日々を思い返してそこに戻りたいと願いました。しかし主は、モーセとヨシュアを立てて、約束の地カナンへの帰還のために仕えられました。同様に、主は、ペルシャ王クロスをお立てになられ、エルサレムへの帰還のため捕囚民にお仕えくださいました。それゆえに、過去のイスラエルはよかった、出エジプトの時はよかったなどと嘆きを言ってはならない。あなた方は、気づかないのか、あの出エジプト以上の出来事、主による解放が、すでにはじまっていると言っておられるのです。

 「わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。」(19b~20節)

民が厳しい状況の中で昔を回顧し、苦難に向き合おうとせず、また御言葉に聞こうとしないなら、故国帰還への道は開かれない。しっかりと苦難に向き合い、御言葉に聞き、御旨に従うならば、たとえ苦しみの中にあっても、救いへの道が開かれ、命の水が与えられるのです。 

 

昨年度は、年間標語を「安らぎの教会―主の群れとして―」としました。

羊飼いである主の守りと導きのもと、私たちは御言葉の糧をいただき、祈りと奉仕によって主と兄姉に仕え、交わりによって励まし支え合うことを目標といたしました。しかし、コロナの感染拡大により礼拝や集会・行事は、中止や変更を余儀なくされました。この経験の中で私たちは、改めて教会に集うことが、主の備えてくださった恵みであり、かけがえのないものであることに気づかされたのではないでしょうか。

 2021年度年間標語は、「安らぎの教会―つながり合って―」です。ワクチンの接種が医療従事者、高齢者、そして一般の人々と順に行われますが、希望者全員の接種終了までには相当の月日が必要です。礼拝・集会・行事等は、昨年度の対応と同様になることでしょう。変異型ウイルスの感染拡大により現在第4波の中にいると言われています。感染予防対策を継続し、さらにその時々にふさわしく対応をしてゆきたいと考えています。しかし、このことが主と私たちまた私たち相互の関係おいて、隔てを創り出すようなことがあってはなりません。コロナ疲れによって今の状況から目をそらし、コロナ前はよかったと回顧的な思いに満たされることもありますが、しっかりとこの試練と向き合うことが必要です。また、主が計画し芽生えはじめている私たちの解放と救いを覚え、コロナ後の教会について考え準備をしてゆきたいと願っています。具体的には、「2021の会」というどなたにも開かれた会を設けようと計画しています。この苦難の経験を「2021」という数字によって記憶にとどめながら、教会のこれからについて話し合ってゆきたいと考えています。コロナによって新たに始めたことがあります。それは、礼拝のライブ配信や動画配信です。インターネット環境が整うならば、お宅にいてもどこにいても、礼拝を一緒に守ることができます。現在は、見て下さる方への一方通行ですが、パソコンやスマートフォンなどでコミュニケーションアプリ(ZOOMなど)を使うことによって、教会に来ることのできない兄姉と一緒に、双方向で礼拝を守れるようになるかもしれません。

 

 百年前の1918~1920年にかけて、私たちの国でもスペイン風邪が流行し

40万を超える人々が亡くなりました。この一年、日本においてコロナで亡くなった方は、1万人弱です。医療が格段に進歩していることもあるでしょう。しかし、不思議なのは、教会の資料にスペイン風邪についての記述がまったくと言っていいほどないのです。百年前、私たちの教会ではどのように対応したのか、調べてみての結果です。この度の教会総会資料には、「コロナ禍における教会」という報告を載せさせていただきました。私たちが、この苦難と向き合う中で、主が備えてくださる「新しいこと」に気づかせていただくためです。また、将来、教会が様々な苦難を経験することになった時、私たちがどのように苦難と向き合い、信仰と希望を抱いたのかを、その時代の教会の兄姉に証しすることを願ってのことです。

「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。・・わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。」

私たちは、このみ言葉に希望と力をいただいて、「アーメン(真実です)」と心から告白するものでありたいと思います。

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2021.4.18 復活節第3主日礼拝   

<今週の聖句>

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あなた方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねていわれたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコによる福音書16章6~7節)

「先に立ってガリラヤへ導く」 仁村真司教師

<今週の聖句>

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あなた方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねていわれたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコによる福音書16章6~7節)

 

「先に立ってガリラヤへ導く」   仁村真司

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8節)

 これが最古の福音書、マルコによる福音書が伝えるイエスの復活に直面した人たち一マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ 一の様子、

反応です。と言っても、復活したイエスが現れて、その姿を見たのではありません。女性たちがイエスの遺体に香油を塗ろうと思って墓に行くと、墓の入口の大きな石は転がしてあった、入ってみると遺体はなく墓は空だった、そこにイエスの姿はなかった・・。ここでマルコによる福音書は終っています。この後の記述は別の人たちが付け加えたものです。

 今朝はマルコ福音書が伝えるイエス・キリストの復活、これをどのように受け止めて行くのか、ここで何が示されているのか、考えて行きます。

 1)

 今日の個所を読んで、「えっ、これで終わり?」と何か物足りないと感じる人も多いのではないかと思いますが、昔の人もそうだったようです。

 例えば、ルカはその福音書の始めに「すべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて(行く)」と記していますが(1章3節)、これは暗にマルコ福音書を批判してのことです。

 マルコ福音書は物足りないどころではない、「画竜点晴を欠く」。イエスの誕生物語はないし何よりも最も肝腎な復活がない・・訳ではないのですが、復活顕現(復活したイエスが現れる)物語がない、だから自分がちゃんとした福音書を書くということです。

 なのですが、マルコ福音書が最古の、最初の福音書であるということは、マルコがそれまでにはなかった福音書と言うイエス・キリストの表現方法、伝え方を開発・発明したということですから、後の人がちゃんとしているとかしていない等と言う筋合いではないような気も私はします。

 ただ、マルコ福音書は最古の福音書ではあっても新約聖書の中の最古の文書ではありません。パウロの文書(書簡)の方が先に書かれています。

 パウロはコリントの信徒への手紙一15章に「(キリストが)聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れた」(4~5節)・「ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(7~8節)と書いています。

 マルコ福音書が記される前からキリストは復活して弟子たち(後のエルサレム教会の指導者たち)に現れたという話は広く伝えられていました。

 パウロはそこに自分のことも付け足しているのですが、キリストが復活して弟子たちに現れたことがキリスト教・教会の根拠だということです。

 しかし、マルコはこのことには全く触れていないということになります。

 2)

 全く触れていないのではなく、墓にいた白い長い衣を着た若者が、女性たちに「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方(イエス)は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。・・そこでお目にかかれる』と」言っている(7節)、マタイ福音書にあるように(28章16~20節)この後ガリラヤでイエスは弟子たちに現れ、宣教を命じたのではないのか・・ということですが、歴史的事実として弟子たちはイエスの復活の後ガリラヤには行っていません。ルカ福音書、その続編の使徒言行録が伝えているようにエルサレム周辺に留まっていました。

 マルコはそのことを知っています。知っていて「ガリラヤでお目にかかれる」と記しているのですから、マルコはエルサレムを中心としたキリスト教・教会の根拠としてキリストの復活を語っているのではないです。

 また、例えばパウロがキリストは「初穂」、死者の中から甦った最初の一人でありキリストの復活によって死者の甦りが示された(一コリント15章20節)、と書いているように復活の意味を語っているのでもありません。

 おそらくマルコは、復活したイエスの姿を描かず、イエスがいない空の墓という空白によってイエス・キリストの復活そのものを、ただそのことだけを、何も付け足さずに伝えようとしているのだと思います。

 そうすると、イエス・キリストの復活はどのように、何によって現されるのか、私たちに知らされるのでしょうか。

 墓で若者からイエスの復活を知らされたマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメはだれにも何も言わなかったのですから(それならば、そもそもマルコはどうして知っているのか・・謎ですが、これは謎のままにしておくとして)、若者が女性たちに弟子たちとペトロに告げるように言った「あの方(イエス)は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」も弟子たちにもだれにも伝えられなかったことになります。

 ですが、実際には弟子たちがガリラヤに行っていないことをマルコは知っていてこう書いているのですから、これはマルコ福音書を読む人たちへの言葉であり、今の私たちへの言葉とも考えられます。

 3)

 「かねて言われたとおり」というのは、以前にもイエスが直接弟子たちに「先にガリラヤへ行く」と言ったということです。

 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。 『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがより先にガリラヤへ行く。」

(14章27~28節、P92)

 この「先に行く」と訳されている言葉には、「導く、連れて行く」という意味合いがありますから、時間的に「先に行く」ということではなく、「先に立って導いて連れて行く」という意味にもなります。

 つまり、「しかし、わたしはあなたがたより先にガリラヤへ行く」とは、イエスの受難・死によって弟子たちはつまずくのですが、しかし、復活したイエスがもう一度先に立って弟子たちをガリラヤへと導く、連れて行くということです。

 ここに現されているのは、イエスがいない空の墓、空白によってイエスの復活を伝え、復活した後のイエスの姿を一切伝えていないマルコが、敢えて言うならば、唯一伝えている復活したイエスの姿、先に立ってガリラヤへと弟子たちを導くイエスの姿です。

 弟子たちにとってガリラヤとはイエスに召命された場所、イエスが先に立って弟子たちを導いていた場所です。そして、墓にいた若者の言葉「あの方(イエス)は先に立ってあなたがたをガリラヤへと導く」はマルコ福音書を読む人たち、私たちへの言葉です。

 十字架の上で死を迎えるその瞬間までそうであったように、イエスはこれからも人々を、私たちを先に立って導く・・それがイエス・キリストの復活、イエスが甦ったことの現れだ。今も、今、私たちはイエス・キリストに導かれている。そのことによって私たちに復活が知らされている、それ以外に何がある、それしかないということです。

 イエスは復活した。墓にはいない。今も生きて働いている、私たちを先に立って導いている。これがマルコ福音書の、マルコ福音書が示しているイエス・キリストの復活です。

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2021.4.11 復活節第2主日礼拝   

<今週の聖句>

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

(マタイによる福音書1章23節)

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(マタイによる福音書28章20節)

「いつもあなたがたと共にいる」  深見祥弘牧師

<今週の聖句>

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

(マタイによる福音書1章23節)

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(マタイによる福音書28章20節)

 

「いつもあなたがたと共にいる」     深見祥弘

 皆さんは、サンドウィッチの由来をご存じですか。パンに食材をはさんでたべるこの食べ物は、古代ロ-マやインドなど世界各地で、自然に発祥しました。紀元1世紀、律法学者ヒレルは、過越しの食事の際に、犠牲の小羊の肉と苦菜を種なしパン(マッツァ)で包んで食べました。この食べ物をサンドウィッチと呼ぶようになったのは、イギリスの第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューが、とばく場で2枚の焼いたパンに少しの肉をはさんで食べながら、ゲームに夢中になったとされることによります。(モンタギューは、そうした人物でなかったというのが定説)これをフランスの作家ピエール・ジャン・グロスが著書「ロンドン」(1765)に記したことで、この食べ物を「サンドウィッチ」と呼ぶことが広まったとされます。

 

 今朝の御言葉は、マタイによる福音書28章です。マタイ福音書は、「神(キリスト)は、いつもあなたがたと共にいる」、この福音を伝えるために書かれました。それゆえに、この福音書のはじめに、主の天使がヨセフにイエスの誕生を告げる場面でこう記しています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味である。」(1:23) またこの福音書の最後、復活の主が弟子たちのところに現れ、彼らにこの福音を委ね派遣する場面にも、そのことが記されています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)神様は、ご自分がわたしたちと共にいてくださることを、旧約の時代から約束してくださっていました。それは、イエスの誕生によって芽生え、イエスの十字架と復活によって実現したと、この福音書は伝えようとしているのです。最初と最後の「神は我々と共におられる」という言葉にサンドウィッチされて、イエスが受けた洗礼の出来事や様々な教えや行い、そして十字架と復活の出来事を記しているのが、マタイによる福音書なのです。

 

 週の初めの日の明け方、イエスの墓の番をしていた数人のローマの番兵たちは、稲妻のように輝く主の天使を見て、恐ろしさのあまり死人のようになりました。彼らは、2人の婦人たちが立ち去ると、墓が空であることを確認し、この出来事を報告するために、祭司長たちのところに急いで行きました。彼らが急いで行ったのは、婦人たちを通して人々の間に、イエス復活の噂が広がることを案じたからです。また番兵たちが、ローマ総督の所ではなく祭司長のところに向かったのは、職務を果たすことができなかったことによって処罰を受けることを恐れたからでした。イエスの遺体を何者かによって奪われたとなると、重い罰をまぬかれず、祭司長たちになんとかしてもらおうと考えたのでした。番兵たちから空の墓の証言を聞いた祭司長や長老たちは、彼らに多額の金を渡し、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と虚偽の証言をするように求めました。また総督ピラトが、番兵たちに対して責任を問うことのないようにすることを約束しました。祭司長たちや長老たちは、イエス復活の知らせが広がることで、神の子イエスを十字架に架けた責任を問われることになりかねなかったからです。総督による処罰を逃れたい番兵たちと、イエス復活の知らせを空しくしたい祭司長たちや長老たちの思惑が一致したのです。番兵たちと祭司長たち・長老たちは、その失態の姿を、人々に知られることを何よりも恐れたのです。

 

 さて、マグダラのマリアともう一人のマリアは、弟子たちのところに行き、

主の天使が「あの方は死者の中から復活された」と言ったこと、途中で復活のイエスに出会ったこと、天使も復活の主もガリラヤに行くように、そこで会えると言ったことを伝えました。11人の弟子たちは、婦人たちの言葉を信じてガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登りました。そこで弟子たちは復活の主に会いひれ伏しました。しかしひれ伏す弟子たちの中には、それが主であることを疑う者もおりました。復活の主はそんな弟子たちに近寄り、こう言いました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」そして、この3つのことは、天と地の一切の権能を授かっている主が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ことで、弟子たちによって実現すると伝えました。

 

 週の初めの日、主の天使は墓に出かけて来たマグダラのマリアともう一人のマリアに対して「恐れることはない」(28:5)と言いました。また弟子たちのところに向かう道中、復活の主がお立ちになっておられて、彼女たちに「恐れることはない」(28:10)と呼びかけられました。思えば、この福音書のはじめで、主の天使はナザレに住むヨセフに、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(1:20)と呼びかけていますし、ヨセフのいいなずけであるマリアに対しても、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。・・マリア、恐れることはない。」(ルカ1:28・30)と呼びかけました。

このように福音書にたびたび出て来る「恐れ」という言葉の反対語は、「主が共におられる」です。それは復活の主が、弟子たちに現れたときの言葉である「安かれ」に言い換えることもできます。イエスが復活されたその場に番兵たちと婦人たちがいて、それぞれ復活の証言者として人々のところに向かいます。しかし、番兵たちは、その場面で気を失っていて(死人のようになった)天使の「恐れることはない」という言葉を聞いていなかったと考えられます。一方婦人たちは天使のこの言葉を聞きましたし、合わせて復活の主の「ガリラヤで会うことになる」、「いつもあなたがたと共にいる」との言葉も聞いていました。復活の証言者である番兵たちとその事実を聞いた祭司長たちや長老たちは、自分たちの地位や立場を失うことへの「恐れ」から虚偽の証言をすることとなりました。他方復活の証言者である婦人たちとそれを聞いた弟子たちは、恐れから喜びへ、そして平安(安かれ)へと導かれました。さらに復活の主が言われた言葉、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というこの福音を、多くの人々に宣べ伝える者となりました。

 

 二千年の時を経て、私たちにも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という福音が届いています。十字架と復活の主によって私たちは、人生の初めから終わりまで、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という福音に包まれ(サンドウィッチされて)、恐れを取り去っていただくことができます。さらに私たちは、この福音の中でイエス・キリストの名による洗礼を受け、その教えを聞き、イエス・キリストに従うことで、生涯をまっとうさせていただけるのです。時には疑いを抱くこともありますが、そうした時、復活の主がご自分から近寄って来てくださって、「安かれ」と呼びかけ平安で満たしてくださいます。これからの日々、私たちは主の平安に満たされ、同時に主の平安を伝える者として立てられていくことを願います。

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2021.4.4 イースター礼拝   

<今週の聖句>

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイによる福音書28章7節)

 

「復活の主に会えるところ」 深見祥弘牧師

                      <今週の聖句>

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイによる福音書28章7節)

 

「復活の主に会えるところ」       深見祥弘

  イースターおめでとうございます。2月17日(水)よりはじまった受難節(レント)が終わり、イースターの朝を迎えました。また、この日は、2021年度最初の主日でもあります。コロナ禍にありますが、復活の主との出会いによって、主と私たち、そして私たち相互の関係が新たにされることを願っています。ここで、「ゲシュタルトの祈り」(フレデリックス・パールズ作)と題する詩を紹介いたします。

 「私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。

私はあなたの期待に応えて行動するために、この世に在るのではない。

  そしてあなたも、私の期待に応えて行動するために、この世に在るのではない。  私は私、あなたはあなた。

  もし偶然にも、私たちが出会えたのなら、それは素晴らしいこと。

  たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。」

フレデリック・パールズさん(1893~1970)は、ドイツ系ユダヤ人で、精神科医です。ナチス政権下にあっては、オランダに逃れるなど苦難の日々を経験されました。彼は「ゲシュタルト療法」(ゲシュタルトとは「かたち」の意)という心理療法の学派をお連れ合いのローラさんと創設しました。この療法は、過去に何をしたか、それは何なのかを問いません。行動によって変化させることのできる「今、ここ」に対して、自分が何をしているかに注意を向け、自分の人生は自分のものだと自覚し、自立を促すのです。「私は私、あなたはあなた」というと、とても冷たく感じますが、この詩の題は「祈り」です。この祈りが、神に献げられることによって、どんな自分を見出し、互いにどのような関係に導かれるのだろうかと期待いたします。

 

  週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアは、イエスの墓に向かいました。彼女たちは、墓にいる番兵たちのこと、墓の入り口が大きな石で塞がれていることを知っていました。ですから墓に近づくことやイエスの遺体と対面することがむつかしいことも承知していました。しかし、強い思慕の念が、彼女たちを墓に向かわせたのでした。彼女たちが到着すると、大きな地震が起り、天使によって墓をふさぐ石が取り除かれました。天使は稲妻のように輝き、番兵たちは恐ろしさのあまり、死人のようになりました。

天使が二人の婦人に言いました。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」天使は、イエスが弟子たちに対して予告したとおり、復活されたことを告げました。さらに天使は、婦人たちが主の復活を告げる者となるように、こう言いました。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」イエスの十字架と復活をめぐっては、百人隊長が十字架の証言者に、アリマタヤのヨセフが埋葬の証言者に立てられました。そして二人の婦人たちは、復活の証言者に立てられたのです。婦人たちは、墓の中にイエスの遺体がないことを確認すると、「あの方は復活なさったのだ」との知らせを携えて、弟子たちのところに向かいました。

 その道中のこと、イエスがお立ちになっておられ、彼女たちに「おはよう」と声をかけられました。彼女たちがイエスと一緒にいたとき、毎日聞いていたあいさつの言葉でした。2人はイエスに近寄り、その足を抱きひれ伏すと、これまでのイエスとの関係が再び戻ってきたように思いました。

しかし、イエスは言われました。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」イエスは、ご自分を裏切ったペトロや弟子たちを、「わたしの兄弟たち」とお呼びになられました。復活の知らせを聞いて集まる者たちを、十字架の贖いによって赦し、主の家族とすると宣言されたのです。

 

 はじめに、フレデリック・パールズさんの「ゲシュタルトの祈り」と題する詩を紹介いたしました。私たちは、この詩の言葉とは真逆の関係の中にいて、囚われています。私たちは、あるがままの自分を否定して、なんとか人に喜んでもらおうとします。しかも一人の人に対してだけでなく、多くの人の期待に応えようとします。そうすることで私たちは、おのずと人に対して異なる態度をとることも必要になり、やがて裏切られたと批判を受けるようにもなるのです。イエスの弟子たちや群衆も、イエスから裏切られたとの思いに満たされ、十字架のイエスのもとを離れてしまいました。マグダラのマリアたちはといえば、イエスの期待に応えて行動するために、自分は生きているのだと思っていました。イエスと出会い、7つの悪霊を追い出してもらったマリアは、そのようにして過ごしてきたのです。ひとたび十字架の死によってその関係が絶たれてしまいましたが、復活のイエスから「おはよう」と声をかけられた時、再びその関係にもどってしまったのでした。

 

 イエスは十字架と復活において、愛せない者を愛してくださいました。イエスがありのままの私を受け入れ愛してくださったことで、私は主が愛してくださった私を愛することができることに気づかされたのです。また他者に対しても、イエスがありのままのあなたを受け入れ愛されたのだから、私は主が愛されたありのままのあなたを愛することができることに気づかされたのです。フレデリック・パールズの「ゲシュタルトの祈り」は、自分らしく生きることがゆるされている、それはイエスがあるがままのわたしを、そしてあなたを、十字架において愛してくださったことによるのだと歌っています。イエスは自らを裏切ったペトロと弟子たちを、わたしの兄弟たちと呼んでくださいました。このイエスの愛によって、私たちは、互いの依存関係から解き放たれることになったのです。

「私は私、あなたはあなた。もし偶然にも、私たちが出会えたのなら それは素晴らしいこと。たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ」この言葉から私たちは、主に愛された者であるがゆえに、互いに愛し合う関係であることを知ることができます。そしてこの主と出会えるところこそが、ガリラヤなのです。

私たちは、ありのままの私が、主と兄弟姉妹に愛されていることを知るならば、「今、ここ」で自分をかえることができます。私たちは、過去の自分を思い起こし、こんな自分ではだめだと考えて自分を変えようとしたり、あなたはだめだと批判することで人を変えようとしたりいたします。しかしそれはうまくいきません。そうではなくて、こんな私であるのに、主から愛され、人に愛されているという「今、ここ」での体験が、私を新しい人によみがえらせるのです。主がありのままの私を愛してくださり、主がありのままのあなたを愛してくださっています。そして愛されている私たちは、このガリラヤで、すなわち教会で、復活の主にお会いできるのです。これが、イースターの喜びです。