≪次月 6月(2021)礼拝説教要旨 前月≫

 

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2021.6.27 聖霊降臨節第6主日   

< 今 週 の 聖 句 >

アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。            (使徒言行録5章3節)

 

「信じた人々の群れ」   深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。            (使徒言行録5章3節)

 

「信じた人々の群れ」      深見祥弘

 

 本日、6月27日は、「日本基督教団京都教区と韓国基督長老会大田(テジョン)老會 両教区・老會の交流を覚えて祈る日」です。1998年6月30日、私たち京都教区と大田老會は、相互交流のための同意書に調印し、これまで、交換プログラムや宣教協議会などの取り組みを行ってきました。また、6月最終主日を「交流を覚えて祈る日」として、両教区・老會に属する諸教会において祈りをささげてきました。2018年、2019年には、交流20周年記念行事を京都・大田の地で行い、これまでの交流の実りを確認することができました。私も2019年、大田を訪問し、記念行事に参加をいたしました。しかし2020年以降は、コロナによって相互訪問ができなくなっています。2年に一度、大田の方々が京都教区を訪問された時には、しばしば私たちの教会にも来てくださいました。現在は、オンラインによる会議等が続けられています。この日、私たちも祈りによってこの交流に参加をしたいと思います。

 この日、両教区・老會で祈る課題とは、次のことです。

  1. 共通の祈り

   ⑴ 東北アジアの平和のために。

   ⑵ 差別をこえた多文化共生社会のために。  

   ⑶ 交流23周年を迎え、大田老會と京都教区の関係の成熟と共同宣

     教の新たな発展のために。

   ⑷ 韓日間の協力を通して、コロナ19危機を克服することができま

     すように。

  1. 京都教区の祈り

⑴ 日本の侵略支配と戦争の反省に立ち、歴史の歪曲、憲法の改悪    戦争への道を許さず、平和のために祈ります。

⑵ 教区が社会から問われている差別と人権の問題に取り組み、ヘ

  イトスピーチなどの差別煽動をゆるさず、格差と貧困のなかで

  人々の絆をつくっていくことができるように祈ります。 

⑶ コロナ19危機の中にあって、人々のいのちが守られ、教会が

  守られますように。危機克服に向けて歩む世界に、平和と癒し

  が満ちたものとなりますように祈ります。

   ⑷ 京都教区諸教会(75教会・伝道所)の宣教の進展と連帯の深化の

  ために祈ります。

  1. 大田老會の祈り

⑴ 韓国社会に民主主義が一層発展し、経済的正義が実現し、人々

  が主の平和を享受できますことを祈ります。

⑵ 南北間の終戦宣言とともに平和協定が締結され、東北アジアの

  平和が実現しますように祈ります。

⑶ コロナ19危機の中、自然を棄損してきた生活の方式を反省し、

  生命の保全のため、また世にある教会の共同体性の回復のため

  に祈ります。

⑷ 大田老會の全ての教会(76教会)がキリストの体として成熟とこ

     の世に向かう宣教的情熱が回復できますように祈ります。

 

 今朝の御言葉は、使徒言行録4章32節~5章12節です。聖霊は、教会とそこに集う人々とともにいて働いておられる、このことを伝えています。先週仁村真司先生は使徒4章1~14節から、ペトロとヨハネが、生まれつき歩くことのできなかった人を癒したことによって、捕らえられ議会で取り調べを受けた出来事についてお話をしてくださいました。この裁判において議会は、ペトロとヨハネに対し「今後、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と命じました。二人が釈放されると、仲間たちの所に行って、これらの出来事を報告し、これを聞いた人々は、心を一つにして、神に祈りをささげました。「主よ、・・あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(4:29、30) この祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだしました。聖霊は、使徒たちに大いなる力を与え、主イエスの復活を証しさせました。使徒たちは、この聖霊の力づけによる宣教によって、多くの人々を信仰に導きました。

 

 聖霊のもう一つの働きは、信じた人々の群れ(教会)を整え正すことです。この頃、信じる人々は、持ち物を売ってそれを教会にささげ、すべてを共有にし、必要に応じて、おのおのに分配しました。例えば、人々からバルナバ(慰めの子)とよばれていたキプロス島生まれのユダヤ人(レビ族)ヨセフは、畑を売り、その代金を使徒たちの足もとに置きささげました。慰めの子と呼ばれた彼は、その名のとおり、この後、迫害者から回心したパウロを使徒たちに紹介したり、なじめずに行方をくらましたパウロを探し出し、アンティオキア教会に迎え入れたりいたしました。

 一方、土地を売ってささげたものが、土地を売った代金の一部であるにもかかわらず、それが全額であると偽り、裁きを受けたアナニアとその妻サフィラもおりました。ペトロは、アナニアに対して「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか」と問うています。土地や財産は、神が与えてくださる恵みです。ですから、土地を売るのがいやならば、売らなくてもよかったですし、土地を売った代金の一部を、これは一部ですと言ってささげてもよかったのです。それなのに、二人は「これが全額です」と言ってささげ、裁かれたのでした。すなわち二人は、神の恵みの一部をもって、これが神から与えられたすべてですと偽ったのです。このことが、聖霊の働かれる教会で行われました。

 

 「教会」(エクレシア)という言葉が、5章11節に初めて出てきました。エクレシアは、ヘブライ語「カーハール」(イスラエルの民の集会)のギリシャ語訳です。初代教会の信者たちは、自分たちこそ「真のイスラエル」であることを示すためにこの言葉を用いました。使徒言行録の著者ルカは、「信じた人々の群れ」(4:32)という言葉とともに、ここで初めて「教会」という言葉を使いました。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」(5:11)と書かれていますが、教会が、聖霊の支配のもとにあることをこの言葉を用いることで示しているのです。

 本日は「交流を覚えて祈る日」です。韓国と日本の信じる人々が、心と思いを一つにして祈るとき、集まっている場所(教会)が揺れ動き、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語ることができます。また国は違っても一つである主の教会が、ふさわしく整えられて、真の「教会」を形造ってゆくことができます。はじめに紹介した共通の祈りの⑶は、「交流23周年を迎え、大田老會と京都教区の関係が成熟と共同宣教の新たな発展のために。」でした。私たちが祈る時、揺り動かされ、真の教会の構築に導かれるとともに、共同宣教の新たな発展を見ることができるでありましょう。

両教区・老會に属する教会が、聖霊に満たされることを心から祈ります。

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2021.6.20 聖霊降臨節第5主日   

< 今 週 の 聖 句 >

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学の普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者で

あるということも分かった。       

                               (使徒言行録4章13節)

 

「イエスと一緒にいた」  仁村真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が

無学の普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者で

あるということも分かった。       (使徒言行録4章13節)

「 イエスと一緒にいた 」     仁村真司

 聖書の文書は「昔こんなことがあった」・「昔の人はこんなふうに考えていた」ということも伝えていますが、今、私たちに直接働きかけて来るものが幾つも、幾重にもある、だから「聖書」なのですが、まずは今日の箇所が伝える昔の出来事、昔どんなことがあったのか見て行きます。       

1)                                

神殿で民衆に話をしていたペトロとヨハネが捕らえられ牢に入れられるのですが(3節)、事の起こりの詳細は手前の3章にあります。 

 ペトロとヨハネが神殿に行くと、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来ます。施しを乞うために毎日神殿の門のそばに置いてもらっていたのですが、ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、立ち上がらせると癒され、二人と一緒に神殿の境内に入って行き、歩き回って神を賛美します。

 この出来事に驚いて集まって来た民衆にペトロは語ります。わたしたちが自分の力で、この人を癒したのではない。イエスの名、その信仰によってこの人は癒された。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、イエスに栄光を与えたが、あなたがたは殺してしまった。しかし、神はイエスを復活させた…。ペトロは、一人の足が不自由だった人が癒されたことから、イスラエル、旧約の民の歴史全体に話を及ぼして、神の約束が成就されたと言っている訳です。

 そして、今日の個所です。やって来たのは祭司たち・神殿守衛長・サドカイ派の人々、当時のユダヤ教社会の最高機関、あらゆる権威・権力を独占していたエルサレム神殿の特権階級の人たちです。既に日暮れだったので、とにかく二人を牢にぶち込んでおいて、次の日に議員、長老、律法学者たち、大祭司と大祭司の一族で尋問することになりますが、21節「議員や他の者たちは、二人を更に脅してから(イエスの名によって話すなと脅して)釈放した。…どう処罰してよいかわからなかったからである」と、一応は事なきを得ます。

2)

 使徒と言っても、この頃のペトロとヨハネはユダヤ教社会の中では吹けば飛ぶような存在だったはずですが、こういう何の力も持たない弱い立場の人が、圧倒的に強大な時の権力者の前で、自らの信じる所を堂々と主張して、その権威(正統性)を否定することになっても、権力者は何も出来ない、不思議に守られるという逸話は、国とか何かの起源・成り立ちを伝える伝説、神話には大抵一度は出てくるような気がしますが、使徒言行録では少し後にもう一度出てきます(5章12~42節)。

 そこでは、癒し等多くの奇跡を起こす使徒たちを、大祭司とサドカイ派の人たちが捕らえ牢に入れ、次の日に大祭司が尋問することになりますが、結局「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した」(5章40節)ということになります。

 この5章の話と今日の箇所(3・4章)の話は内容的にかなり重なっているので、この二つの話は元々は同じ出来事であったものが、伝わって行く途中で違うように語られ、その結果二つの別々の出来事のようになって、それをルカはそのまま記していると考える聖書学者も多くいます。

 そうではなかったとしても、どちらの話からも困難の中でも神に導かれ守られる、もう何も出来ないという時であっても為すべきことが示される、(5章の話では、天使が牢を開けて、使徒たちは境内で民衆に教えていたとあります)という、迫害や戦争や疫病等の様々な困難・逆境、それに伴う拘束・制約の下、それでも教会の業を為し続けて来た後の世のキリスト者、今の私たちにとっても直接的な使信、メッセージが伝わってきます。

3)

 もっとも、今日の箇所も5章の話も伝えられて行く中で話がどんどん膨らんで行ったと考えられて、元々同じ出来事であったとすれば、5章の方がより大きく膨らんでいて、どちらかと言えば今日の箇所の方が実際にあったことに近いのではないかと思います。

 5章では、大祭司とサドカイ派の人たちが「ねたみに燃えて」となっていますが(17節)、今日の箇所では、祭司たち・神殿守衛長・サドカイ派の人々が、「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので・・・いらだち」となっています(2節)。

 この「いらだち」というのは「厄介だと思って」・「面倒なことしやがって」というぐらいの意味合いです。強大な神殿の権力者たちからすれば、小うるさい輩を軽く痛め付けてやった程度のことだったのかもしれません。

だとしても、やられた方はたまったものではないのですが、圧倒的に強い立場の人たちが弱い立場の人たちを軽い気持ちで苦しめ、深く傷つけ、時に命を奪うことさえあるというのは、昔も今も現実的な話です。

 さて、当時のユダヤ教社会では既にファリサイ派が最大勢力となっていたようですが、神殿では依然としてサドカイ派が主流派でした。

 サドカイ派の考え方の特徴(復活の否定)は、イエスとのやりとりに端的に示されているのですが(マルコ12章18~23節、マタイ22章23~33節、ルカ20章27~40節)、復活はない方がよいというのが本音だったようです。

 「神の住むところ」とされていたエルサレム神殿の特権階級、サドカイ派の人たちは、地位も名誉もあり、神殿税(「十分の一税」)等で経済的にも豊かでした。ですから、それが引っ繰り返るような復活ならない方がよい。「異教徒」(ローマ帝国)の支配の下だろうが、世の中が安定して、神殿制度が守られ、神殿税が集まればそれでいい訳ですが、復活は否定しても人は必ず死ぬ、これは否定できませんから死者の世界、陰府の教理はありましたが、そこでの賞罰は否定していました(ヨセフス「古代史」)。

 そうすると、神殿で神に直接仕える身でありながら、信仰的・神学的厳しさは失われ、容易にこの世の風潮に流され、安易にこの世の権威・権力に迎合することになって、その都度それでいい、このままでよいということになります。そういうサドカイ派の人たちにイエスは、「あなたたちは聖書も神の力も知らない」(マルコ12章24節)と言っています。

 ですが私も、その時その時の「安定」をもたらすこの世の権威、この世的な力に囚われ、それにのみ重きをおいていることはあると思います。

 そんなことを考えながら今日の箇所を読んで行く中で、13節「議員や他の者たちは、…(ペトロとヨハネが)イエスと一緒にいた者であるということも分かった」、私はここでハッとしました。

 ペトロとヨハネは多分みすぼらしくて、話も大して上手くはなかったと思います。そんな人たちが、この世の権威とされるものに対している時、言っていること・していることに多少共感はするとしても、この人たちは今イエスと一緒にいる、そのことを私は分かるのだろうか…。また、私にはイエスと一緒にいることを現すなどとても出来そうにない…。ですが、これは杞憂で、ある種の思い上がりだということも示されていると思います。

 イエス・キリストは私たちといつも一緒にいる。これは私たちがどうであろうと、どんな時も変わらない。そして、イエス・キリストが一緒にいることによって私たち一人一人が変えられて行くということです。

 ペトロはかつて、イエスの受難の時、イエスと一緒にいたことを必死になって否定しましたが(ルカ22章56節~)、今日の箇所ではイエスと一緒にいたこと、今イエスと一緒にいることをしっかりと現しています。

 このように私たちもそれぞれが神の救いのみ業に用いられて行く、用いられている。私たちもイエス・キリストと一緒にいるからです。

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2021.6.13 聖霊降臨節第4主日   

< 今 週 の 聖 句 >

わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

   (フィリピの信徒への手紙2章12~18節)

 

「世にあって星のように輝き」  深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

                (フィリピの信徒への手紙2章12節)

 

「 世にあって星のように輝き 」      深見祥弘

 私は、性格上、何事も予定時間の15分前には到着するようにしています。人との待ち合わせの場合、相手の方が15分前に到着された時は、「どうぞ、どうぞ」と笑顔で迎えますが、約束の時間が過ぎると落ち着きがなくなり、15分を越えるとイライラしてきます。待つことが苦手な、気の短い私の性格によるものです。

 飼い主が愛犬に「待て」と指示した場合、大好きなドックフードが置かれていても、従順に従うことができるか否かというテレビ番組を見ました。何頭かの犬と飼い主が、この番組に出演していました。まず、「待て」と指示した後、飼い主がその部屋にいた場合、ほとんどの犬は、指示を守って待つことができました。しかし、飼い主が「待て」と指示した後、その部屋の外に出た場合、はじめは指示に従っていた犬たちが、だんだんと落ち着きを失い、それでもよだれを流しながらも耐えていますが、ついに一頭、二頭と餌のところにきて食べ始めてしまったのです。

飼い主と愛犬にとって「待て」という指示に従えるか否かは、他の犬とのトラブルや車道への飛び出しによる事故を防ぐために、とても大切なしつけです。でも、犬の集中力は5~10分で、特に「待て」という指示は集中を必要とするので持続が難しいそうです。それがゆえに、主人が一生懸命になりすぎて、声が大きくなったり、こわい表情になってしまいます。でもそれでは犬が萎縮してしまうので、声も表情も柔らかくしながらトレーニングをし、そしてほんの少しでもできた時は、おやつをあげたり、たくさん褒めてあげたりするのがよいそうです。家で「待つ」ことができるようになったら、今度は外で練習します。外は、犬にとって、人や車が通ったりして集中することが難しい環境です。そうした時は、トレーニングの時間以上に、時間をいっぱいとって、遊んだりご褒美をあげるのがよいということでした。

 

 今朝のみ言葉は、フィリピの信徒への手紙2章です。この手紙は、使徒パウロとテモテによって書かれました。手紙の宛て先は、フィリピにある教会です。パウロたちは、第2伝道旅行でフィリピを訪れ(紀元50年頃)、ヨーロッパ最初の教会として、フィリピの教会ができました。パウロは、この手紙を第3伝道旅行中、2年間滞在(53~55年頃)したエフェソにおいて、しかも獄中で書きました。

この手紙は、本来、3通あった手紙を一つにまとめたものです。

第一の手紙は、4章10~23節です。パウロは、フィリピから送られてきた

献金に対して、感謝の手紙を書きました。フィリピの教会は、設立以来、パウロたちの伝道活動を献金で支援してきました。パウロは、フィリピの教会がこの献金によって神に仕えていることを喜んでいます。

第二の手紙は、1章1~3章1a節、4章4~7節の箇所です。この手紙には、パウロが今投獄されていること、フィリピの教会からパウロたちを支援するために来て病気となったエパフロデトが、回復したのでそちらに帰りますという知らせ、そしてパウロたちがフィリピに再訪問するまでの間の指示を書きました。

第三の手紙は、3章1b~4章3節、4章8~9節です。フィリピにやってくる律法遵守を主張する伝道者たちや、ヘレニズム密儀宗教の影響を受けた伝道者たちに、警戒するよう書いています。

 

 2章12~18節は、第二の手紙の一部です。

12~13節に「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」とあります。

 パウロは、第2伝道旅行でフィリピに滞在していた時、あなたがたはいつも従順であったと述べています。しかし今パウロは、遠く離れたエフェソにおり、投獄され、もし裁きを受けるならばフィリピの人々に会えなくなるかもしれないのです。しかもフィリピの人々の外には敵対者がおり、内にもさまざまな誘惑がありました。それゆえにあなたがたは、内に働いておられる神の御心に聞き従い、救いを達成するようにと励ますのです。

 まずフィリピの人々が従順の模範とすべきは、イエス・キリストです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになられました。」(2:6~9)

獄にいるパウロは、今まさにキリストを模範としています。そのパウロの内にある神の指示が6~9節の言葉でありましたし、それに対するパウロの信仰告白が「イエス・キリストは主である」(2:11)でありました。

パウロは第2伝道旅行の途中、アテネで伝道に失敗いたしました。なぜなら、パウロが自らの知恵によって、賢者たちを説得しようとしたからです。

パウロは、その時このようであったとコリントの人々に告げています。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。」(Ⅰコリント2:2~4)

 このことは、フィリピの教会でも同じです。フィリピの人々は、これまで指導してくれたパウロが、遠く離れた町で捕らえられたと聞いて、とても不安でした。他の伝道者たちの言葉に誘惑されて従いそうにもなりました。しかし、パウロから届いたこの手紙は、フィリピの人々を褒めるものでした。さらにこの手紙には、フィリピの人々がキリストを模範とし、「イエス・キリストは主です」と告白するとき、キリストが共にいてくださると信じることができるのだと書かれていました。そうするならばフィリピの人々が、闇を思わせる世にあっても星のように輝き、「待て」との言葉を信じてパウロとの再会の時を待ち、キリストの日(終末)を待つことができると励ましているのです。

 

 フィリピの信徒への手紙2章6~8節の言葉は、パウロ以前にあった信仰の言葉です。フィリピの人々はこれを「命の言葉」として聞き、「イエス・キリストは主です」と告白して礼拝を守り、「よこしまな曲がった時代」にあっても、神の子として星のように輝き、やがて来るキリストの日を待つことができたのです。

私たちもまた、この「命の言葉」を聞き、「イエス・キリストは主です」

と告白することで、神の子として闇の世にあって星のように輝き、キリストの到来を、冷静と確信をもって待つことができると、励ましをいただいているのです。

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2021.6.6 こどもの日花の日礼拝   

< 今 週 の 聖 句 >

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

    (ルカによる福音書12章31~32節)

 

「野の花を見なさい」    深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

                (ルカによる福音書12章31~32節)

 

         「野の花を見なさい」      深見祥弘

 今朝は、私たちの教会の子どもの日・花の日礼拝日です。礼拝堂に花を飾って礼拝を行っています。しかし、ここには子どもたちの姿を見ることができません。現在、感染予防のために日曜礼拝は分散して行っていますので、例年行っている子どもと大人の合同礼拝は見送ることにしました。子どもたちは、今朝、教会学校で子どもの日・花の日礼拝を守りました。また例年、教会学校はお花をもって止揚学園を訪問させていただき、教会は、ケアハウス信愛館等にお花をお届けしておりましたが、今年は、お花のカードをお送りすることにいたしました。来年は、子どもたちと一緒に礼拝し、施設にお花をお持ちして、神さまの恵みを喜び分かち合うことができることを願っています。 

 

 皆さんは、「深見草」という花をご存じでしょうか。深見草とは、「立てば芍薬、座れば牡丹」と言われる牡丹の異名です。ある時、牡丹を「深見草」と呼ぶことを知り、私のシンボルにしようなどと思ったこともありました。

 先月、夜の祈祷会が終わった後、中庭に通じる扉を閉めようとした時、ドクダミの白い十字の花が、部屋の灯りに照らされて、無数に浮かび上がっていることに気づきました。とても幻想的で、思わず出席者に「見てください」と声をかけました。冬に営繕部の皆さんが、中庭の木の剪定や草刈りをしてくださり、とてもきれいになりました。春になると、きれいになった庭一面にドクダミが、広がりました。ドクダミは、日陰の湿った地に生え、独特の匂いがありますので、あまり良い印象を持ちません。また地下茎を張り巡らし、抜いても抜いても生えてくるので、別名「ジゴクソバ」と呼ばれます。しかし、ドクダミ(毒止め)は、別名「十薬」ともよばれ、あのいやな匂いに殺菌作用があったり、生薬として用いるならば利尿や整腸に効果があります。さらに最近は、八重咲の花の品種や葉に斑の入った品種があり、観賞用として人気があるようです。「十薬の聖十字満つわが歩々に」(山口青邨)  (毎日新聞5.26 余禄参照)

ドクダミは、花が白い十字形、葉っぱはハート形、人々から嫌われることもありますが、殺菌作用(清め)と生薬(癒し)、そしてその生命力(復活の命)から、イエス・キリストと重ね合わせる人もいます。

             ドクダミ

 おまえを大切に 摘んでゆく人がいた  臭いといわれ きらわれ者の おまえだったけれど  道の隅で 歩く人の 足許を見上げ

 ひっそりと生きていた いつかおまえを必要とする人が 現れるのを

 待っていたかのように おまえの花 白い十字架に似ていた

(星野富弘著「かぎりなくやさしい花々」偕成社) 

 今朝のみ言葉は、ルカによる福音書12章です。12章には、こんな話が書かれています。群衆の一人が、イエスに自分の兄弟に遺産の分配を命じてほしいと願いました。イエスは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(14)と言ってその申し出を断り、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(15)と答えられました。

さらに、イエスは、このようなたとえを話されました。ある金持ちの畑が豊作でした。金持ちは、それを見て「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」(18~19)と言って喜びました。しかし神は、金持ちに「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」(20)と答えられたのです。

 イエスは、願い出た者に対し、ご自分があなたの裁判官や調停人ではなく、あなたの親が所有し、兄弟が自分の物にし、あなたも自分の物にしょうとしている財産の、まことの所有者だと伝えました。さらに、イエスはあなたの命の所有者でもあると言われました。あなたは、金持ちと同じように親の財産を得たとき、「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ」と言うかもしれない。しかしそのようにして得たあなたの富も、さらに命も、じつはあなたに委ねられているだけで、やがて神の計画により、御元にもどされ、神の所有となる。その時あなたは、富と命の引き換えに、神の国と永遠の命をいただいて、神の御前に豊かになれるのかをよく考えてみなさいと求められたのです。

 

 さてその後、イエスは弟子たちに、「思い悩むな」と語りかけられました。弟子たちは、袋も財布も持たず、イエスに従い、働きをいたしました。先ほどの金持ちとは対照的に、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようか」という悩みは、弟子たちにとって日々切実なものでした。しかし、イエスは「思い悩むな」、「烏のことを考えてみなさい」と話されました。すなわち鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉を持たなくても、神は養ってくださいます。またイエスは、「野の花がどのように育つのか考えてみなさい」と言われました。野の花は、働きも紡ぎもしませんが、神は野の花に、栄華を極めたソロモン王にまさる装いを与えてくださいます。イエスは、弟子たちに、何を食べようか、何を着ようかと、思い悩まず、すべての所有者である神に信頼しなさいと勧めておられるのです。

 次にイエスは、弟子たちに「自分の無力を知りなさい」と言われました。思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことはできません。「寿命」という言葉は、身長をも意味するエリキヤという言葉が使われています。大人になればあなたがたは、身長を少しでも延ばすことができないし、寿命をわずかに、延ばすこともできない。いつ召されるかも、あなたの命の本当の所有者である神さま以外知らないのだからと言われるのです。

 その上で、イエスは弟子たちに「神の国を求めなさい」と勧められます。

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」のです。この「求めなさい」は、神の国に目を向けてそれを求めるのではなく、神ご自身に心を向けて「祈り求めなさい」ということです。そうすれば、すべてを所有しておられる神さまが、神の国も永遠の命も、日々の生活に必要なものも、すべてを与えてくださるのです。

 最後に、イエスは弟子たちに、与えられたものを倉に収めるのではなく、すべてを与えてくださる神さまに感謝し、小さな者に「施しなさい」と言われました。そのようにしてあなたがたは、その富を天に積みなさいと命じられるのです。

 

 神さまは私に、お前は牡丹ではなく、ドクダミだと教えてくださいました。私は、独特の匂いを持ち、顧みられることの少ない者です。しかし置かれた場で根を広げ、暗闇の中キリストの光を受けて、白い十字の花、すなわち十字架と復活のキリストを証しする者です。また自らを献げる志を与えられている者です。日々の生活もその働きも、神の国も、神さまの方に心を向けて祈り求めることで、すべてが備えられることを信じる者です。