≪次月 8月(2021)礼拝説教要旨 前月≫

 

2021.8.29 聖霊降臨節第15主日     
P1270054_edited.jpg

< 今 週 の 聖 句 >

イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」

(ルカによる福音書13章2節)

 

「 罪人だったからなのか 」  仁村真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」

(ルカによる福音書13章2節)

 

「 罪人だったからなのか 」      仁村真司

何人かの人がやって来て「ピラトがガリラヤ人の血をいけにえに混ぜた」と伝えた所(1節)、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とイエスが言った(3節)。

ルカはこのように伝えているのですが、「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」というのは、何人かのガリラヤ人を神殿まで引っ張って行って殺し、その人たちの血をいけにえの獣の血に混ぜたということです。

ピラトはローマ帝国のユダヤ総督、ユダヤではだれも逆らえない権力者です。そのピラトが多分気まぐれで思いついた、おぞましい行為によって人の命が弄ばれ奪われた。そのことから「あなたたちも悔い改めなければ同じように滅びる」等とイエスは言うだろうか・・・。私はまずここに引っ掛かったのですが、「あなたたちも悔い改めなければ・・・」はイエスの言葉ではなくルカの言葉、ルカがイエスの言葉に付け加えたものです。

1)

「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とは、人は皆罪人であって、しかしそれを悔い改めた者は救われる、悔い改めなさいということです。ルカとしては今日の箇所のイエスの言葉を「悔い改めの奨め」と受け止め、そのように伝えているのですが、どうでしょうか・・・。

2節の「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」とは、「他のガリラヤ人も皆罪人だが、より罪深い、より悪い罪人だったからだと思うのか」ということですから、人は皆罪人であって悔い改めなければならないという考え方に繋がる・・・かのようです。

なのですが、原文(ギリシア語)では「より罪深い」だとか「より悪い」という比較級は用いられていませんので、例えば聖書協会共同訳では「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか」となっています。

 4節も同様で、「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか」となっています。

そしていずれについてもイエスは「決してそうではない」と否定しています。「ほかのすべてのガリラヤ人たちと同じ、殺されたガリラヤ人たちは罪人ではない」、「エルサレムに住んでいるほかのすべての人々と同じ、死んだ十八人は負い目(罪)のある者ではない」ということです。

ここに「人は皆罪人」という考え方はありません。イエスは悔い改めに繋がるようなことは何も言っていません。

少なくとも今日の箇所についてはイエスの言葉を「悔い改めの奨め」と受け止めることは出来ないと思います。

2)

ここでイエスが言っていることははっきりしています。まず、「そのガリラヤ人たちが・・・罪人だったからだと思うのか。決してそうではない。」

ピラトがガリラヤ人を殺したと伝えに来た人たちは、そのガリラヤ人たちが殺されたのは罪人だったからだと思っていたのでしょう。思っているだけではなく触れ回っていたのかもしれません。

殺されたのがローマなりピラトなりに反抗的、もしくはそう受け取られるような態度・行動をとった人たちなのか、それともたまたまピラトの目について、指さされただけの人たちだったのか、詳細は分かりませんが、この件に関して罪がある、「罪人」はどう考えてもピラトです。それなのに殺されたガリラヤ人たちが罪人だというのですから酷い話です。

続けてイエスは言います。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人はエルサレムに住んでいるほかのすべての人々とは違って、負い目(罪)のある者だったと思うのか。決してそうではない。」

シロアムの塔が倒れて十八人の犠牲者が出たのはおそらくは不慮の事故、自然災害だったのかもしれませんが、だれの責任とも、だれが悪いとも言えない場合であっても、「悪運は罪の結果」、罪があったからあんなことになって等と言い立てる人たちがいたということです。

イエスはそういう人たちが自ら考え直すように「罪人だったからだと思うのか」と問いかけているのではないです。厳しく「決してそうではない」と否定しています。私はイエスは怒っていたのだと思います。

このイエスの怒りは、悪霊を追い出し、病を癒す(病気による苦痛・恐怖からだけではなく、蔑まれ、疎外され、社会から切り離され死んだ者とされる、その痛み、苦しみ、悲しみから人々を救う)、その際に示された人々への深く強い思い、その時に現された大きな力、迫力と同じものだと思います。

3)

大きな災害など容易には受け止め切れない事態に接した時に、傷つき苦しんでいる人たちにその原因を求め、なすり付け、更に傷つける、苦しめるということは今も繰り返されています。

昔も今も、いつまでたっても、人がこういうことをしてしまうのは怖いからではないでしょうか。

事故や災害の場合、それがどうして起こったのか説明出来たとしても、どうして他のだれかではなく、その人(たち)が被害者になったのか、納得の行く説明をすることは出来ません。そうすると、自分も被害者になるかもしれないと怖くなる。そして、きっとあの人たちは悪いことをしたから罰が当たったのだ、自分はあの人たちとは違う、だから自分が被害者になることはないと思い込んで安心したいということです。

かなり単純化していますが、おそらくこういう人の気持ち、心の動きは昔も今もそれほど変わっていないのではないかと思います。

ただ、今日の箇所でイエスはガリラヤ人が殺されたこととシロアムの塔が倒れて十八人が犠牲になった、だれが悪いともだれのせいとも言えない事故、自然災害(今なら塔の設置者や管理者の責任が問われるかもしれませんが)を同列に、並べて語っています。

他の人ではなく、どうしてその人たちが命を失うことになったのか説明出来ないのは同じですが、ガリラヤ人を殺したのはピラト、ピラトが悪いとはっきりしています、それなのに人々は殺されたガリラヤ人たちが罪人だったからだと思い込もうとし、言い立て、イエスもピラトの悪、罪には触れていません。

ここに示されているのは、支配者や権力者の横暴、暴力によって引き起こされたことであっても、不慮の事故、自然災害と同じように、為す術もなく、ただ蒙るしかないという人々の現実です。

 そして、その中でも低い所に置かれていた人々は、事故であっても自然災害であっても、多くの場合たまたまそこにいて被害者になってのではない。より被害を受けやすい、より危険な所に元々いた。追いやられていた。絶えず不安と恐怖に晒され、実際に被害を受けた時、危害を加えられた時には「罪人だったからだ」と言い立てられる。イエスはそのような人々と同じ所にいた、共に生きていたということです。

「罪人だったからだと思うのか。決してそうではない。」この言葉にはこの世の現実を生きたイエスの姿が端的に現されています。

そしてまた、不安や恐怖の下にある時、苦しみ、悲しみの内にある時、そういう時にこそ、イエス・キリストは近くにいる、傍らに立っている。人々と、私たちと、今も共に在るということです。

2021.8.22 聖霊降臨節第14主日     
DSC00349 (2).JPG

< 今 週 の 聖 句 >

主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』

(マタイによる福音書13章29~30節)

 

「育つままにしておけ」     深見 祥弘 牧師

< 今 週 の 聖 句 >

主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』

(マタイによる福音書13章29~30節)

 

           「育つままにしておけ」      深見祥弘

 最近、SDGs(エスディージーズ)という言葉をよく聞きます。

「Sustainable Development Goals (持続的可能な開発目標)」の略称で、2015年国連サミットで採択され、国連加盟国193の国が2030年までに達成をめざす国際目標です。世界は今、貧困、気象変動、人種・ジェンダーに起因する差別などの問題に直面しています。このような地球規模の問題を解決するために、「誰ひとり取り残さない」という理念のもと、17の目標と169のターゲットを設定しました。この17の目標は、大きく5つのPに分類されます。1.People (人間、貧しさを解決し、健康に)①「貧困をなくそう」②「飢餓をゼロに」③「すべての人に健康と福祉を」④「質の高い教育をみんなに」⑤「ジェンダー平等を実現しよう」⑥「安全な水とトイレを世界に」 2.Prosperity (豊かさ、経済的に豊かで、安心して暮らせる世界に)⑦「エネルギーをみんなに、そしてクリーンに」⑧「働きがいも経済成長も」⑨「産業と技術革新の基盤をつくろう」⑩「人や国の不平等をなくそう」⑪「住み続けられるまちづくりを」 3.Planet(地球、自然と共存し、地球の環境を守る)⑫「つくる責任つかう責任」⑬「気候変動に具体的な対策を」⑭「海の豊かさを守ろう」⑮「陸の豊かさも守ろう」 4.Peace(平和、争いのない平和を知ることから実現)⑯「平和と公正をすべての人に」 5.Partnership(パートナーシップ、みんなが協力し合う)⑰「パートナーシップで目標を達成しよう」。

 これまでのように人間が環境や人権を考慮せず、利益を追及し続けるならば、世界は立ち行かなくなります。SDGsは、私たち人類と地球を守るために達成しなければいけない国際協約であり、その理念は「誰ひとり取り残さない」ことです。(バウンド著「60分でわかる!SDGs超入門」(技術評論社)より)

 

 御言葉は、マタイによる福音書13章24~30節「毒麦のたとえ」です。

イエスは、湖のほとりに集まった人々に舟の上から、天国のたとえを話されました。ある人が良い種(麦)を畑に蒔きました。種まきを終えた夜、人々が眠っている間に、敵が来て、麦の種の中に毒麦の種を蒔きました。まもなく芽が出て、やがて実をつけると、そこに毒麦がまじっていることがわかりました。僕たちが主人に報告すると、主人は「敵の仕業だ」と言いました。僕たちは、「行って、毒麦を抜き集めておきますか」と言うと、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り入れる者に言いつけよう。」と答えたのでした。

 

 このお話は、次のことをたとえています。まず、「ある人」(良い種を畑に蒔いた人)とは、イエス・キリストのことです。また「良い種」とは御国の子らのこと、「畑」とは世界のことです。次に、「敵」とは悪魔のこと、「毒麦」とは悪い者の子らのことです。さらに「僕たち」とはイエスの弟子たちのことであり、「刈り入れ」とは終末を、そして「刈り入れる者」とは天使たちのことをあらわしています。

 ところで「毒麦」とは、どのようなものなのでしょうか。毒麦は、麦によく似ていて見分けることが難しいのですが、収穫時になると、穂のひげが麦よりも長くなり、実の色も黒くなるので見分けやすくなります。そこで収穫作業をする前に、子どもたちや婦人たちが、穂のついた毒麦を茎の途中から切り取り、集めて焼くことをしました。誤って食べると、嘔吐やめまい、しびれなどを引き起こすからです。

  

 このたとえは、天国のたとえですが、ここからイエス・キリストの二つの愛を見出すことができます。一つ目の愛は、一本の麦に対する愛です。僕たちが主人のところに来て、「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。」と言います。このことから毒麦が、一本や二本ではないことがわかります。僕たちは、毒麦が畑にはびこっているのを見て驚いているのです。主人が「敵の仕業だ」と言うと、僕たちは「では、行って抜き集めておきましょうか」と言います。僕たちは、自分たちで対処しましょうかと問うているのです。しかし主人は「麦まで一緒に抜くかもしれない」と言って、それをゆるしませんでした。まだ見分けが難しい段階で、それをすると、麦を抜いてしまうかもしれません。また、毒麦を抜き取っても根が絡まりあっているので、良い麦まで抜けてしまうかもしれません。主人には、万に一つも、麦をそこなうようなことがあってはならないという、強い思い(愛)がありました。それゆえに、刈り入れの時まで待てというのです。イエス・キリストも、弟子たちが裁きをすることをゆるしませんでした。たった一人であっても、誤って御国の子が損なわれてしまうことがあってはならないからです。終末の時それを行うのは、天使たちなのです。イエス・キリストのもう一つの愛は、毒麦が良い麦に変わるのを待つことです。植物の毒麦は、途中、良い麦に変わることはありません。しかし、悪魔によって世界に来た悪い者の子らは、御国の子らに変わることができます。それは、イエスが悪い者の子らの罪を担ってくださり、神より裁きを受けて十字架にかかり、その悪を滅ぼしてくださるからです。さらにイエスの復活により、この人たちがイエスを救い主と信じることで、この人たちの罪が贖われ、御国の子らに変えていただくことができるのです。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」とは、悪い者たちの子らの回心を、世の終わりまで待ち続けようとする、イエス・キリストの愛をあらわしているのです。

 

 はじめに、SDGsのことをお話しました。今、地球は、人間が環境や人権を考慮せず「自分たちさえよければいい」という種(毒麦)を蒔き続けたことによって、毒麦がひろがり立ち行かなくなっています。もはやこのことは、途上国ががんばればよい、先進国はそれを援助すればよいというレベルではありません。先にお話した「17の目標」に無縁な人は、地球上には誰一人いません。私たちは、貧困、気候変動、人権・ジェンダーに起因する差別などを自分のことと受けとめ、行動を起こす必要があります。誰が悪い、誰かにくらべて私はそれほどでもないと言って裁き合うのでなく、この「17の目標」を自分の課題とし、その目標をパートナーシップによって達成しようとすることが大切です。国連広報センターは、「持続可能な社会のために、ナマケモノにもできるアクション・ガイド」を創りました。レベル① ソファーに寝たままできること、「エアコンの温度を、冬は低め、夏は高めに設定しよう」、レベル② 家にいてもできること、「ネットショッピングするなら、環境にやさしい取り組みをしている企業から」、レベル③家の外でできること、「買い物にはマイバックを持参しよう」、レベル④ 職場でできること「同一労働同一賃金を支持する声をあげよう」。 

「誰ひとり取り残さない」という共通の理念のもと、地球規模の問題の解決を目指す取り組みは、イエス・キリストの天の国実現の理念と同じです。私たちも新しい世界の創出のために、祈り仕えてまいりましょう。

2021.8.15 聖霊降臨節第13主日     
IMG_20210815_125715_edited.jpg

< 今 週 の 聖 句 >

イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。

            (創世記24章67節)

 

「主が旅の目的をかなえてくださる」 深見祥弘

< 今 週 の 聖 句 >

イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。

                            (創世記24章67節)

 

         「主が旅の目的をかなえてくださる」   深見祥弘

 私たち夫婦は、結婚して37年になります。連れ合いとの出会いは、思わぬことによってでありました。私は、大学卒業後、京都教会で3年間伝道師としてお仕えをしました。ある日曜日、礼拝説教中に貧血を起こしてたおれてしまいました。後で、主任牧師が続きを説教してくださったことを聞きました。外食中心の不摂生な生活をしていたのです。少し前に、教区講壇交換礼拝で京都教会に伺い、少々緊張しながら説教をさせていただきました。礼拝後、教会の皆さんと会食をいたしましたが、その時のことを覚えておられた方もおられて、穴があれば入りたいような思いでありました。

 説教中に倒れて、しばらくたったある日、神学生であった時にお世話になった牧師が、突然訪ねてこられました。私は大阪のこの先生の教会で、派遣神学生として学びをさせていただきました。「深見君、君、説教中に貧血で倒れたんやってなあ。この人に、一度会ってみるか。」お世話になった先生が、私のことを心配してくださり、わざわざ大阪から来てくださったので、お会いすることにしました。また、私はその出来事の後、気弱にもなっておりました。その人と、大阪クリスチャンセンターで初めて会い、1年余りお付き合いをして結婚をしました。以来、37年間、京都、東京、岐阜、高知、埼玉、そして滋賀と一緒に旅を続けてきました。あの時、貧血で倒れていなければ、出会うことのなかった人であるのかもしれません。神様のなさることの不思議を思います。

 

 今朝の御言葉、創世記24章は、イサクとリベカの結婚物語を書いています。二人が結婚に至るには、年寄りの僕の働きと、主の働きがありました。イサクの父はアブラハムと言います。アブラハムは、この時すでに年老いておりましたし、彼の妻サラは亡くなっておりました。

 ある日、アブラハムは、信頼を寄せている年寄りの僕を呼んで、息子イサクの妻をさがしてくるように命じました。アブラハムが、示した選びの条件は、次の三つのことでした。一つ目は、今アブラハムたちが暮らしているヘブロンの土地の娘から、嫁を選んではいけないとしたことです。イサクのこれからの生活を考えれば、この土地の娘と結婚することが、何かと好都合でありました。しかしアブラハムは、嫁によって家族に偶像礼拝が入り込むことを心配したのです。二つ目は、自分の一族のいる所に行って、嫁をさがすことでした。アブラハムには、ナホルとハランという二人の兄弟がいました。ハランは、早くに亡くなり、その息子がロトです。ナホルは、妻ミカルとの間に8人の子をもうけ、その一人がベトエルです。ナホルは、アラム・ナハライム(ハラン)に暮らしていました。三つ目は、選んだ娘をこの土地に連れてくることでした。アブラハムは、主が彼と子孫に与えると約束してくださったこのカナンの地を離れることができないと考えたのです。

 僕は、主人アブラハムの腿の間に手を入れ誓いました。すなわち手を割礼の上において、聖なるものの上に手を置いて、誓いをしたのです。こうして年寄りの僕は、従者とともに、10頭のらくだと高価な贈り物を携えて出発をいたしました。

 

 僕と従者たちは、アラム・ナハライムのナホルという町にやってきました。僕たちは、町の外の井戸のそばで休息し、このように祈りました。

「この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。」(13~14)

 僕がこのように祈っていると、一人の娘が水がめを肩に載せてやってきて、泉に降りて行き、水を満たして上がってきました。僕が、「水を飲ませてください」と願うと、娘は汲んだばかりの水がめの水を飲ませてくれ、「らくだにも・・・たっぷり飲ませてあげましょう」と言って水槽に水をいれ、再び水をくみにいきました。僕が、「あなたは、どなたの娘さんですか。」と尋ねると、「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答え、「わたしどもの所には、わらも餌もたくさんあります。お泊りになる場所もございます」と言って招きました。これを聞いた僕は、「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と感謝の祈りをささげました。

 

 ベトエルの家に迎えいれられた僕たちに、足を洗う水と食事が準備され、らくだにもわらと餌が与えられました。これを見て僕は、「用件をお話しするまでは、食事をいただくわけにはまいりません」と言い、主人アブラハムから託されたことを話し、返事を求めました。話を聞いた娘の父ベトエルと兄ラバンは、「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません」「主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさって下さい」と答えました。僕は、地に伏して主を拝し、アブラハムからの贈り物をさし出し、返礼として酒食のもてなしを受けました。

そして翌朝、僕はリベカを連れ、あわただしく出発したのでありました。

 さてイサクは、ネゲブ地方にいましたが、夕方、らくだがやってくるのを見ました。リベカもイサクを見ました。リベカが僕に、迎えに来る人は誰かと問うと、僕は「あの方がわたしの主人です」と答えました。リベカは、結婚までの習慣に従い、ベールをかぶりました。イサクは僕から旅の一切を聞き、リベカを妻としました。リベカには、サラの天幕が与えられ、イサクはリベカによって、亡くなった母に代わる慰めを得ました。

 

 イサクとリベカの結婚物語で際立っていることは、主とみ使いの働きと、老いたアブラハムと僕、リベカの父ベトエルと兄ラバン、こうした人々の信仰です。アブラハムは、僕を派遣するにあたり「わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。」(40)と告白しています。また僕はくりかえし主に祈りをささげました。ベトエルとラバンは、「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。・・・主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」(50、51)と答えたのです。 

 私の結婚にいたる道においても、説教の続きをしてくださった主任牧師、

大阪から写真を携えて来てくださった先生、私のようなものを婿にすることをゆるした義父母、「はい、参ります」と言ってくれた連れ合い、何よりも主が御使いを遣わしてこれらの人々に伴わせ、働いてくださっていたことに感謝するものです。「アブラハムは多くの日を重ねて老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。」(1)、「わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。主はみ使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。」(40) 初老になった私たち夫婦の旅の目的とは、御国に迎え入れられ祝宴につくことでしょう。今朝の御言葉は、何歳になっても変わらぬ主の祝福と、多くの人の祈りや支え慰めによって、この旅の目的がかなえられるという励ましを与えてくださるのです。

2021.8.8 聖霊降臨節第12主日     
IMG_20200628_111437.jpg

< 今 週 の 聖 句 >

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、

あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。              (使徒言行録20章32節)

 

「受けるよりは与える方が幸い」 深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、

あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。              (使徒言行録20章32節)

 

          「受けるよりは与える方が幸い」   深見祥弘

 広島・長崎への原爆投下から76年目の夏を迎えました。今年1月22日、核兵器の使用や保有を全面禁止する核兵器禁止条約が発効され、世界は核兵器廃絶に向けて一歩をふみだしました。現在、世界には1万3千発以上の核兵器が存在します。この条約は、そうした核兵器が全面的に禁止されるべき対象であることを、明確にした根本規範です。私たちの国は、唯一の被爆体験国ですので、この条約に参加をしていると思いがちですが、そうではありません。核保有国とその核の傘の下にいる私たちの国を含む国々は 、現在これに参加をしていません。

 

 朴南珠(パク ナムジュ)さん(88歳)は、広島生まれの在日韓国人二世です。女学校1年生だった1945年8月6日、爆心地の西約1.9㌔を走っていた路面電車の中で被爆しました。炎に包まれた電車から飛び降り、壊滅した町を見ながら、北西の山に逃れ、途中、黒い雨を浴びました。17歳で結婚し、数年後にみごもりましたが、双子の赤ちゃんは死産でした。またがんを3回患いました。被爆したことで苦労の多い日々をお過ごしになってこられましたが、長く被爆者であることを明らかにしてきませんでした。朴さんが69歳の時、お連れ合いさんが亡くなり、その後、修学旅行で訪れた生徒さんとの出会いをきっかけに、子どもたちに体験を伝えようと、原爆資料館に証言者として登録をしました。しかし、証言者の高齢化がすすみ、昨年は登録証言者5名が亡くなりました。朴さんも老いを感じていますが、伝えたいという気持ちは衰えていません。今コロナで広島を訪れる子どもたちが少なくなっている中、朴さんは、広島市の「被爆体験伝承者」養成講座で、伝承者になろうとする受講生14名に、自らの被爆体験を語っています。近い将来、朴さんの体験を、この人たちが「伝承者」としてつないでくれることを思い、託したい体験を繰り返し話されています。朴さんにとって核兵器禁止条約の発効は、悲願でした。しかし、祖国韓国も日本も、この条約に参加をしていません。朴さんは、新聞記者に「(両国とも)被爆者がいるのに、(参加しないことを)理解できない。」「たくさんの悲しみの上にある平和を大事に守ってね。核は、原爆は、二度と使わせてはいけない。それがわたしの信念です。」と話しておられます。(8/1毎日新聞掲載「2021 8月ヒバクシャ」より)

 

 今朝の御言葉は、使徒言行録20章です。ここには、第三伝道旅行中、パウロがエフェソの長老たちに語った告別説教が書かれています。第三伝道旅行でパウロは、シリアのアンティオキアを出発し、主にアジア州エフェソで伝道しました。パウロたちは、2年余りエフェソに滞在し、その後、第二伝道旅行で訪れたマケドニア州(フィリピ)やアカイア州(コリント)を訪れました。そしてこの訪問後、船でエルサレムに向かいました。途中、船はエフェソ近くのミレトスに寄港しましたが、そこでパウロは、エフェソに使いを出して、教会の長老たちを呼び寄せ、告別説教をいたしました。パウロは、この告別説教(17節~35節)で何を語ったのでしょうか。

 

 パウロはまず、長老たちとともにエフェソで働きをした日々を回想しました(18~21)。エフェソでの日々は、涙を流し試練に遭いながら「主にお仕えしてきた」日々でありました。試練の中、パウロは教会の人々にとって役に立つことは、一つ残らず伝え教えました。またパウロは、この町に住むユダヤ人やギリシャ人に向けて、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰を、力強く伝えたのでした。

 次にパウロは長老たちに、今の決意を話しています(22~24)。パウロは彼らに「わたしは霊に促されてエルサレムに行きます」と告げました。パウロには、このエルサレム行きにどのような神のご計画があるのかはわかりませんでした。彼は、聖霊によって投獄と苦難の予告を告げられていましたが、主イエスからいただいた神の恵みの福音(イエスは救い主、ただ信じるだけでだれでも救われる)を力強く証しすることができるなら、この命すら惜しいとは思いませんでした。そして、自分に決められた道を走りとおすのだという決意を語ったのでした。

 さらにパウロは長老たちに、これからのことを話しました(25~31)。パウロは、これから先、エフェソの教会を長老たちにゆだねたいと告げました。教会は、御子イエスの十字架の血によって贖い出され、神のものとされた群れです。聖霊は、神の教会の世話をさせるために、長老たちを監督者に任命なさいました。その上でパウロは、これから先、教会の内外にいろいろな問題が生じてくるけれど、そうした時、パウロが、長老たち一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こしなさいと話しました。

 最後にパウロは、長老たちに祝福と勧告をします(32~35)。長老たちにエフェソの教会をゆだねたパウロは、神とその恵みの言葉(イエス・キリスト)に長老たちをゆだねました。その恵みの言葉は、人々を造り上げること、すなわちキリスト者を育てることができますし、人々に御国と永遠の命を受け継がせることもできるのです。そして長老たちには、人々の重荷を共に担ってゆくようにと勧告をいたしました。パウロがエフェソに滞在していた時、自分で働いて生活し、また困っている人を助けることもしていましたが、それは、イエスが「受けるよりは与える方が幸いである」と言っておられたことを実行していたのです。この告別説教後、パウロと長老たちはともにひざまずき祈りをささげ、パウロを見送りました。

 

 「受けるよりは与える方が幸いである」(25)、パウロはこれが、イエスの言葉であると話しましたが、福音書にはこの言葉がありません。しかし、内容的に同じ言葉として、イエスの「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」(ルカ6:38)という教えや、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34~35)という言葉があります。ご承知のように、イエスは私たちを愛し、罪の赦しと救いのために、十字架に架かり、贖いの小羊としてその命を与えてくださいました。私たちは、イエスを救い主と信じることによって、罪の赦しと救いを受け取りました。さらにこの恵みに感謝し、私たちが互いに愛し合うならば、私たちはイエス・キリストの弟子とされ、イエス・キリストの言葉や愛を伝えること、またそれを人々に受け継いでいただくこともできるのです。

 

 朴南珠(パク ナムジュ)さんは、平和を願い、修学旅行の子どもたちに自分の被爆体験を語るとともに、その言葉や平和への願いを14名の「被爆体験伝承者」にゆだねるために、務めておられることをお話しました。核兵器は、人間の創り出した最悪の罪です。なぜなら、神がお創りになられた命や世界を、一瞬にしてむなしくし、深い苦悩を生み出すからです。朴さんの言葉が、私たちの国の人々や世界の人々に届き、この最悪の罪に気づかせ、核兵器の廃絶が実現することを心から願います。

2021.8.1聖霊降臨節第11主日  平和聖日礼拝   
5b66ac36-b03c-44c3-894a-ad5ec0a8040b.jpg

< 今 週 の 聖 句 >

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。                         (使徒言行録9章26~31節)

 

「神の業、敵が味方に」    深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。                                  (使徒言行録9章26~31節)

 

           「神の業、敵が味方に」      深見祥弘

 医師の鎌田實さんが、新聞に、かつてアウシュビッツ・ビルケウナ収容所を訪れた時、案内ボランティアから聞いた言葉を紹介していました。

「厳しい収容所で生き残るには、何が必要か。希望がなければ、生きられなかった。でも、希望だけでは生き残れなかった。毎日のささやかな営みを丁寧に続けた人が生き残ったという。どんなに絶望していても、朝起きた時に服にこびりついた泥を払い落とし、髪の毛を整える。そんなふうにして、自分の尊厳を守ることが大事なのだ。」(毎日:鎌田實「さあこれからだ」7/26)

  本日は、「平和聖日礼拝」を守っています。戦後76年が経過しましたが、心配は、平和憲法を変更しようとする動きです。日本国憲法9条には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2  前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と記されています。この改憲の動きは、今日の厳しい国際情勢の中で、外交上の課題を、話し合いによる解決に限界を覚え、武力による解決を可能とする道を開いておこうとする考えです。憲法9条は、これまで私たちに希望を与えるものでありました。私たちは、改憲を望む人々が主張するように、この希望だけで生き残ることができないのでしょうか。どのようにして、平和を守り、創り出してゆくことができるのか、御言葉に聴きたいと思います。

 

 今朝の御言葉は、使徒言行録9章です。ここには、サウロ(パウロ)の回心とその後のことが書かれています。サウロは、紀元33年頃、回心しました。サウロという名はユダヤ名(使徒言行録7:58~13:8の間で用いられる)で、パウロというロ-マ名は13章9節以降で用いられています。サウロは、キリキヤのタルソスに生まれたユダヤ人です。彼は、ロ-マの市民権を持ち、ギリシャ哲学に通じ、さらにエルサレムにおいてファリサイ派のガマリエルから教育を受けました。

 使徒言行録に、彼の名が最初に出てくるのは、ステファノの殉教の場面(7:58)です。ステファノが殉教したこの日、エルサレムの教会に対する大迫害が起こり、サウロも教会を荒らし、信者を見つけると牢に送りました。さらにこの迫害によって信者たちは、エルサレムからダマスコに逃れましたが、サウロは大祭司の許可を得て、彼らを追跡しました。

 サウロと同行者がダマスコに近づいた時、突然、天からの光に打たれて地に倒され、「サウル、サウル(※アラム語の名)、なぜ、わたしを迫害するのか」(9:4)との声を聞きました。それは、復活のキリストの声でした。キリストは、迫害を受ける教会と信徒を、かつて捕らえられ十字架に架けられたご自分になぞらえておられるのです。サウロは、この後「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(9:6)とのキリストの声をききました。

 光に打たれて目が見えなくなったサウロは、同行者につれられてダマスコに入り、「直線通り」にあるユダという人の家で、3日間飲食をせず祈っていました。するとこの町の信者アナニアが来て、サウロに手を置いて言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」(9:17) 目が見えるようになったサウロは、アナニアから洗礼を受け、聖霊に満たされました。その後、サウロはしばらくの間、ダマスコの諸会堂で、イエスについて「この人こそ神の子である」(9:20)と宣教しました。しかし、この町のユダヤ人たちは、サウロの裏切りに憤り殺そうとしたので、サウロの弟子たちは、夜の間に、彼を籠に入れて城壁づたいにつり降ろし、逃したのでした。

 

 サウロが逃れて来たのは、エルサレムでした。しかしエルサレムは、回心したサウロにとって安心できるところではありません。サウロが裏切ったことは、大祭司たちの知るところであり、その行方を探していたからです。一方エルサレム教会の信徒たちは、サウロから受けた迫害を覚えていて、彼が信者となったことを信じず恐れていました。この時、サウロとエルサレム教会の仲立ちをしたのが、バルナバでした。「バルナバ」はあだ名で、慰めの子という意味です。本名はヨハネと言い、キプロス島生まれのユダヤ人で、サウロと境遇が似ていました。バルナバは、サウロが回心した時からエルサレムに来るまでのことを、使徒たちに話して聞かせました。その結果、サウロは使徒たちや教会の信者たちに受け入れられ、恐れることなく主の名によって教えました。特に、サウロは、ギリシャ語を話すユダヤ人たちに伝道しました。しかし、エルサレムでもサウロの命をねらう者たちがいたので、信者たちはサウロをカイサリアの港まで連れていき、そこから船でサウロの故郷タルソスに出発させました。

 

 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」(31) これまでお話をしてきましたように、サウロは裏切者として命を狙われ、教会はユダヤ当局より迫害を受け、とても大変な状況でありました。にもかかわらず、このようにまとめの言葉を書いているのは、どのような理由でしょうか。それは、「主を畏れ、聖霊の慰めを受け」という言葉に示されています。サウロは回心後、命をねらわれる状況でも、ダマスコにおいて、またエルサレムにおいても、大胆に「この人(イエス)こそ神の子である」と宣べ伝えました。周りの人々が、心配してサウロを逃すのですが、それがなければ、サウロは捕らえられ殉教しても、神から与えられた使命(「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」9:15)を果たしていたことでしょう。サウロは、この世を恐れることなく、主を畏れ、聖霊の慰めを受けていたからです。教会も同様で、迫害の中にあっても、主イエスを希望でとし、聖霊の慰めをいただきながら、教会の基礎を固め、発展していったのです。

 かつて父なる神は、人が人を支配する罪の世に、御子イエスを遣わしてくださいました。イエスは、自ら捕らえられ十字架に架けられ復活することによって、苦難の中にいる人々を救い出し、平和を実現してくださいます。この神の業に希望があります。私たちの国の教会は、過ぐる日、世を恐れて主を畏れることをおろそかにし、聖霊の慰めを信じることができなくなりました。この罪を繰り返さないために、私たちキリスト者は、礼拝を守り、祈り、奉仕をするというささやかな営みを丁寧に続けてきたのです。「平和」は、礼拝と祈りと奉仕によって、すなわち主を畏れること、聖霊の慰めを受けることから創り出されます。こうした神の業は、サウロに証しされるように、敵が味方になる豊かな働きです。私たちは、神が与えて下さった主イエスという希望と、キリスト者としてのささやかな営み(礼拝・祈り・奉仕)よって、平和を創り出す神の業に参与しているのです。